第37話 既視感

あたしは、唯一動かせる両脚を力の限りばたつかせた。

その脚も封じようとグレッグさんが脚を絡ませてきた。

運よく膝がガツンと彼の急所に入ってくれて、掴んでいた手が離れたところを透かさず這い出し、四つん這いのまま逃げようと試みた。

「待、待て…」

グレッグさんが音を頼りに迫ってくるのが分かる。

作業台にぶつかったあたしはそれにすがるように立ち上がり、そろそろと手探りで出口を探した。

しかし力強い男の人の手があたしの肩を掴んで、突き飛ばすように壁側へと押しやられてしまった。

「何をしているのか分かっているの!?放してちょうだい!!」

興奮して上擦った声。

「今更やめられるわけがないだろう。人をその気にさせておいて」

吐息混じりにねっとりと囁くグレッグさんの声。

「そんなことしてないわ。やめて。放して!誰か、誰かーーっ!!」

「この中の声は外には聞こえないよ。大丈夫。怖いのは最初だけだよ。終われば君も何も言えなくなるさ」

そんなやり取りを、あたしは少し離れた壁側に倒れ込んだまま、


――一体、何が起こっているの?

あたしはここにいる。

そこにいるのは誰?

グレッグさんは誰と話しているの?


「どうしたんですか!?何かありました!?」

少し開いていた扉の隙間から、若い男の子の声がした。

開いていた?

いつから?

あたしはさっきちゃんと閉めたはず。

隙間なんてなかった。

その扉が大きく開き、パトリックの補佐であるエリックが燭台を片手に姿を現すと、その灯りで中の様子も明らかになった。

壁側に1人で倒れているあたし。

中央には、グレッグさんに組み敷かれて目に涙を溜めているイザベラ…。

イザベラがどうしてここに――?

それを見たエリックは、慌てて階段の上に向かって声を上げた。

「ロバートさん!ロバートさん大変です!!早く来てください!!」

グレッグさんも状況が理解できずに呆然としていて、壁側にいるあたしに問いかけるような目を向けた。

そして間を置かずにここへ来たロバートは、すぐに状況を察したようだった。

イザベラはロバートが着いたのを見ると、あたしに向かって飛びついてきて泣き声に近い声を上げた。

「エミリー!エミリー!怖かったわ!!」

ギュッとあたしにしがみつくように抱き締めてくる。

室内にある氷で冷え切っていたあたしと違って、その体は温かかった。

「イザベラ? どうして…」

「よかった。エミリー」

あたしの疑問には答えず、彼女は噛み締めるようにそう言った。

室内に足を踏み入れたロバートが、グレッグさんに向き直る。

「料理長!これは一体どういうことですか!?」

普段料理長なんて呼び方をしたことはないのに、あたかもグレッグさんの立場を問うかのように屹然と言い放った。

「それは…、それは」

自分の状況が理解できていないグレッグさんは頭の整理が出来ないのか、うまく言葉を紡ぎだせないでいる。

あたしも理解できていないなりに何か言わなきゃと思ったのだけれども、どうやら自覚がないうちに震えていたようで、うまく声が出せなかった。

そして、いつの間にか溜まっていた涙が、あたしの目から零れ落ちた。

その涙はイザベラの頬も濡らし、イザベラはそれを嫌がるどころか自分の頬に擦り付けるように頬擦りすると、さっき出したような悲痛な声でロバートに訴えた。

「いきなりその人が襲ってきたのよ!いやだって言ったのに」

「違う。俺は」

「ロバートさんは黙っていてください。今はイザベラ様がお話しになっているんです。――それで、イザベラ様はどうしてここに…?」

「私は、…エミリーの様子が気になって、会いに来たの。そうしたら、灯りを消されて、いきなり、その人が…!」

言いながらあたしから離れたイザベラは、両手で顔を覆って泣いているような仕種をした。

「『中の声は外には聞こえない。終われば君も何も言えなくなる』とか私に向かって言って、無理矢理…」

そう、それは間違いない。

あの時あたしは2人から離れていて、グレッグさんはそのつもりではなかったにしろ、イザベラに言っていたのだ。

「ち、違う。そうじゃない。誤解だ」

焦るグレッグさんに対して、イザベラは泣き声のままで吐き捨てるように言った。

「何が誤解よ。気持ち悪い」

そうして、長い黒髪を揺らしたイザベラは続けてこちらを見た。

「エミリーも聞いてたわよね」

有無を言わせぬ強いまなざしに、あたしは涙を湛えた真っ赤な顔で、だけど茫然と頷いた。


――今のやり取り、前にもどこかで経験したことがある。

でも、エミリーの人生にはこれまでそんな出来事はなかった。

そう、エミリーには…。


それからエリックがさらに人を呼び、グレッグさんは連れていかれた。

レイチェルもイザベラを迎えにここまで来たけれど、とてもネックレスのことについて尋ねられるような状況ではなく、ろくに会話もないまま別れたのだった。

集まった人達はあたしのことも気遣ってくれて、知らない女中が部屋まで送ってくれることになった。



グレッグさんのことは、信頼していた人だっただけにショックが大きい。

だけどそれだけじゃなくって、あたしは今混乱もあってすごく動揺していた。

さっきのイザベラが忘れられない。

確かにイザベラのこと、彼女に似ていると思ったことはある。

才色兼備な前世でのあたしの従妹――。


「凛音…?」


去っていくイザベラ達の背中を見ながら思わずその名を口にした時、イザベラは弾けるように振り返り、驚いた顔であたしを見た。

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