ラムレーズンララバイ
七夕ねむり
第1話 ラムレーズンララバイ
そろそろだな、と思う。
もうすぐ彼女が帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり。ご飯は?」
「……いらない」
沙夜ちゃんは小さく首を振って、ヒールを脱ぎ捨てた。さらさらと綺麗な真っ黒の髪が首元で揺れる。
「お風呂入る」
それだけ言って彼女はだらりと流れてきた前髪を掻き上げた。
「私先に入っちゃった」
「そう」
長い睫毛の影が落ちる横顔はいつも通り美しかったけれど、目の下に日に日に濃くなっていく黒が佇んでいた。手帳を開いて、明日のスケジュールをチェックして。何か細かく書き込むと、沙夜ちゃんは手帳を鞄にしまってソファーに投げる。いつも通りだった。お行儀の良くないその行動に耐性があるのか、それとも沙夜ちゃんの投げ方が上手いのか、鞄の中身は散らばることもなく綺麗に着地する。
「それ気に入ってたんじゃなかったっけ?」
まあねと言って、沙夜ちゃんは小さく伸びをした。
「私先に寝るね」
ふわぁと唐突に込み上げた欠伸をこぼす。
「おやすみ、葵」
スーツを解きながら振り返る彼女は、優しい目で微笑んだ。同じ挨拶を返して自分の部屋に戻ることにする。そうだと通り道のキッチンに寄った。我が家の胃袋に貢献している大きめの冷蔵庫の引き出しを開ける。お目当てのものはキンと良く冷えていた。開くだけでふわふわと広がる白い蒸気の中に手を入れて、ひとつ引っ張り出す。お気に入りのスプーンも忘れずに用意して、私は部屋に引っ込んだ。
大丈夫、大丈夫だ。
温かいお風呂、美味しいご飯(は明日の夜ごはんになってしまったけれど)、それにちゃんと。いつものあれは沢山買ってある。
自分におまじないのように言い聞かせて、分厚い毛布を被った。目を閉じて、今日打ち合わせをした絵のことを考える。今はそんなことどうでも良かったけれど、その方が早く眠れる気がしたから。
気がついたら、朝だった。
と言ってもまだ早朝で、外は真夜中みたいに真っ暗だ。しんと冷えたこの空気が私は嫌いじゃない。そろりと開けた窓からは、一際冷たい風がひゅるりと吹き込んだ。冬の匂いがする。街灯の明かりはまだまばらについていて、マンションの下の道に通行人はいなかった。夜の終わりの色と、朝の始まりの色が刻々と交わってゆく空を見上げる。
慎重にドアを開けて、またゆっくりと閉める。
キッチンにするりと入ると、シンクの片隅に私の物とは違うカップがひとつ捨ててあった。
ラムレーズンのアイスクリームのカップ。
銀色のスプーンは綺麗に洗って乾燥機に置かれていた。私はほっと胸を撫で下ろして、自分の空カップをその上に重ねる。
沙夜ちゃんは何にも言わないし、泣かない。
そりゃ意地悪言うのはいつもだし、サバサバしているのも時には冷たく見えたりするけど。いつもきびきびとしていて、凛とした彼女がかっこよくて、好きだ。それに、本当は誰より優しい人だって知っている。
だから、なんだろうか。
空になったアイスクリームの容器を眺める。私はこの味が苦手で食べれない。けれど、ある日真夜中に見てしまったのだ。ベランダに凭れながら、白い息を吐いてラムレーズンのアイスクリームを食べる彼女の姿を。
ラムレーズンが好きだなんて聞いたこともなかった。私はバニラが一番好きだし、沙夜ちゃんは抹茶が好きだと言っていた。
それからだ。苦手なこの味を、彼女の寝不足が酷くなる度に、そっと冷凍庫に忍ばせておくようになったのは。
眠れない夜に彼女はラムレーズンのアイスクリームを食べる。その事について私は今まで何も言ったことは無いし、これからだって無いだろう。私がこの味を好きで買っていると思ってるんだろうし。
だけど、いつか。
いつか沙夜ちゃんが私の側でこのアイスクリームを食べてくれたなら。
その日は彼女と並んで同じアイスクリームを食べようと思っている。本当はこれ苦手なんだよなんて笑って言いながら。
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