赤羽の〝化け物〟 第四話

 薄暗い廊下に置かれた長椅子に腰を下ろしたまま、僕は、消火器具の赤いランプが映り込むリノリウムの廊下を茫然と見下ろしていた。

 ICUの入り口からは、相変わらず慌ただしい足音や人の声が漏れている。この分では、このまま病院に泊まり込むことになるかもしれない。でも、たとえ無理やり叩き出されることになっても、今夜だけは麻布の屋敷に帰る気にはなれなかった。

 今から一時間ほど前、突然、見慣れない番号から僕のスマホに連絡があった。電話の主は、赤羽駅近くにある総合病院の看護師だった。その電話口で、彼女は突然こんなことを告げた。

『お兄様が救急車で搬送されました。今なお重篤な状態です』

 その言葉に、僕が思い出していたのはあの日の光景だ。茜色に染まる秋葉原。その、帰宅客で込み合う歩道の真ん中で聞かされた、あまりにも唐突な報せ。

 嘘だ、と思った。

 それでも僕の身体は心とは裏腹に動き出していた。財布と保険証を掴み、とりあえず駅前まで走ると、費用が嵩むのを承知でタクシーを拾い、赤羽まで駆けつけた。

 医師の説明によると、兄さんを襲ったのは突然の心臓発作だったらしい。迅速な処置のおかげで辛うじて一命はとりとめたが、いまだに集中治療室から出られないあたり、予断を許さない状況が続いているのだろう。

「瑞月さん」

 長椅子に並んで腰を下ろす桃子さんが、ふと声をかけてくる。

「少し、横になってはいかが。どのみち、お兄様が目を覚ますまではどうにもならないのだし、いざという場合に備えてしっかり身体を休めた方が良いのではなくて」

「いざ……って、」

「嫌だわ、誤解しないで頂戴。……あのふてぶてしいだけが取り柄の守銭奴が、そう簡単にくたばるものですか」

 そして桃子さんは、むぅとうんざり顔をする。

「そもそも、本当にくたばったところで大人しく成仏なんてしないわよ」

 冗談めいた口調。だが、強いて普段通りを演じようとするその声色には、彼女なりの遠慮と気遣いが感じられて、それが今の僕にはむしろ痛ましかった。

 啓太君の一件以来、桃子さんはいっそ不自然なほど僕に優しかった。むしろ腫れ物に触るような、と表現した方が正しい。

 僕を焚き付けた責任を感じているのだろうか。確かに、僕が啓太君を母親に会わせようと思い立ったのは、彼女の言葉がきっかけではあった。

 それでも僕としては、彼女に責任を感じてほしくはなかった。決断を下したのは、あくまでも僕だったのだ。感情が当人のものであるように、この責任も、僕のものだ。

「それにきっと……頼まれなくともあなたに取り憑いてお節介を焼き続けるわよ」

 これもきっと、桃子さんなりの慰めなのだろう。善意ゆえの――でも。

「それだけは、ありえません」

「えっ?」

 面食らったように振り返る桃子さんに、僕は、何と説明すれば良いか言葉に迷う。ただ、なぜか僕には確信があった。おそらく兄さんは、死んだら二度と僕の元には現れない。そのまま成仏するか、さもなければ僕を避けて一人で気儘に成仏を待つだろう。

 兄さんは常日頃、死者と生者は違うのだと繰り返してきた。

 だからこそ兄さんは、事故の後、霊となって帰ってきた両親からわざわざ僕を引き剥がしたのだ。一緒に家を出なければ縁を切る、と脅しさえして。……その兄さんが、死者となった後も僕のところに現れるとは、僕にはどうしても思えないのだ。

 だから。

 ここで兄さんが死ねば、すなわちそれが永遠の別れとなってしまうのだろう。

 立ち上がり、不安を鎮めるべく廊下をぐるぐると歩き回る。嫌だ。もう二度と兄さんと会えないなんて――言葉を交わせないだなんて、想像するだけで足が竦む。そうでなくとも今は、考えるべきことが山積みだ。入院代は。保険会社とのやりとりは。進行中の売買手続きはどうする。そもそも何を優先すればいい。どこから手をつければいい。……わからない。思えばずっと、そうした対外的な手続きは何もかも兄さん任せだった。両親を飛行機事故で喪った時ですら、諸々の手続きは兄さんが全て一人で片づけてしまった。当時の兄さんは、年齢的には今の僕と変わらない。なのに、僕よりずっとしっかり者で、それに大人だった。

 その兄さんに、思えばずっと甘え続けてきた。今の僕の窮状はその報いだ。

「比良坂さん」

 ふと呼び止められ、振り返る。白衣にマスク姿の医師が、どこか疲労の滲む顔で集中治療室の入り口に立っていた。

「処置が終了しました。会われますか」

「は……はい!」

 慌てて頷くと、僕は医師の背中に従って治療室に入る。中は意外と広く、何枚ものカーテンが病床一つ一つを個室のように区切っている。その一枚を医師はさっと捲ると、中へと僕をいざなった。

 その奥に広がる光景に、僕は息を呑んだ。

「……兄さん」

 僕の知る――いや、これまで僕が視ていた兄さんは、そこにはいなかった。

 ベッドに横たわっていたのは、別人と見紛うほど窶れ果てた兄さんだった。無数に繋がれたチューブやコード。口腔に押し込まれた呼吸器。ベッドの周囲では夥しい数の医療用電子機器が無機質な音を刻み、呼吸器がしゅう、しゅうと乾いた排気音を立てるのに合わせて、兄さんの胸板がゆるやかに上下している。

 今は麻酔で眠らされているのか、それとも単に意識が戻っていないのか、僕の声にも反応するそぶりを見せない。その、土気色に染まった生気のない顔は、普段の兄さんに比べると十歳も二十歳も年老いて見えた。……あるいは単に〝視え〟ていなかっただけなのか。

 ――生きてる人間の気持ちは、これっぽっちもわからないんだな。

 ああ、そうだ。僕にはちっとも視えていなかった。死んだ人達の姿はいくらでも視えるのに。先程も、廊下で待つ間に何度も死者らしき人が前を通りすがるのを目にした。

 でも、視えていなかった。ちっとも視えていなかったのだ。この世界でたった一人、視なくてはならなかった人の姿が。

「今回、陽介さんを襲ったのは心室細動と呼ばれる症状です。言ってしまえば、心臓の痙攣ですね。これは、AED等による一刻も早い処置が救命の鍵となりますが、今回はその処置が素早くなされたおかげで一命を取り留めました。ええ……非常に幸運なケースと言っても過言ではないでしょう」

 淡々と告げる医師の言葉は、悲しいほど僕の耳を素通りしてゆく。大体、こんな目に遭って何が幸運だ。どうして、愛する家族をいつもいつも突然奪われる。

 ……ああそうか。明日が来るから。

 兄さんは、人は生きている限り昨日とは違う今日を歩まなくちゃならないのだと言った。でも、僕にはそんなものは必要なかった。昨日と違う今日も、今日と違う明日も、そんなものはこれっぽっちも要らなかったんだ。

 明日が来るから変わってしまう。

 明日が来るから奪われる。

 明日が来るから……大切な人と引き裂かれてしまう。

 幸せだった。たとえそれが過去の再現に過ぎなかったとしても、帰って来た父さん、母さんと囲む鍋は楽しかった。満たされていた。

 父さんがいて母さんがいて、そして兄さんがいる。

 それだけで僕には幸せだった。幸せだったんだ……明日なんか要らなかった。

「明日、容体が持ち直すようなら一般病棟に移って頂きます」

 つまり、今夜が山、ということか。……いつもそうだ。いつも、明日は僕から大切なものを奪ってゆく。

 その後、医療費の支払い等の流れを一通り聞き終えると、僕は桃子さんと一緒に廊下の長椅子に戻った。支払いは明日でも構わないと言われたものの、今は家に帰る気力すら沸かなかった。

「大丈夫? 瑞月さん」

「え、ええ……ただ……」

 体の細胞の一つ一つを、泥のような疲労が包んでいる。もう、一歩もここから動きたくない。一歩もここから歩けない。明日になど向かいたくない。動かない秒針のように立ち尽くしたまま、永遠に、今日という日の中で静かに暮らしていたい。

 未来なんていらない。ページの先も――ああ、そうだ。

「……死のう」

「えっ」

「そうだ。死ねば、もう、明日なんて……辛いだけの明日なんて」

 いらない。そんなものはもういらない。未来なんて。夢なんて。野望なんて。希望なんて。将来なんて――明日なんて。

「馬鹿をおっしゃい!」

 不意に横面を薙ぎ払われ、椅子に叩きつけられる。見上げると桃子さんが、いつにも増して険しい瞳で僕を睨みつけていた。……ただ、その色はどこまでも悲しい。

「私の前で、よくもそんな……そんなこと!」

「……桃子さん?」

 その、いっそ押しつけがましいほどの怒気に、僕は我に返る。

 ああそうだ。思えば、桃子さんほど明日を生きたかった人を僕は知らない。愛する人と迎えるはずだった明日は、結局、彼女の元には訪れなかった。大岩桃子と名付けられた本は、ある日無理やり引き破られ、それ以降のページを丸ごと失ってしまった。

 ――ページとはね、生きている限り続くものだ。

 それは、逆に言えば死んだその瞬間に物語が終わることを意味している。桃子さんの物語は終わってしまった。手にしたはずの幸せも、喜びも、それに出会いも、そこに記されることはなかった。なかったのだ。未来のページを失った彼女にできたのは、屋敷という過去を護ることだけ。自ら新しい幸せを見つけ、生み出すことはできなかった。

 それが、死ぬ、ということなのだろう。

 ――生きてる人間は、昨日と同じ今日を生きちゃいけないんだ。

 あれは確か、兄さんの言葉だったろうか。ああそうだ、思い返せばいつも、兄さんは僕を未来に生かそうとしてくれた。僕を両親の元から連れ出した、あの日からずっと。

「僕も……未来に生きたいです」

「えっ?」

「兄さんと……それに桃子さんとも。だから……」

 だから助けなくては。兄さんを。

 ふと目の前に何かが差し出され、見ると、それは桃子さんの手のひらだった。

「ええ。生きましょう」

「ええ」

 その手を、僕は強く握り返す。綿のように幽かな、それでも確かにそこにある彼女の白い手のひらを。

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