第33話 紅色を刺す
「黒い不定形の怪物……?」
数日前。暗い渓谷の奥深く、外界から隔絶された吸血鬼の城……その豪奢な一室で、スピカが怪訝そうに声を漏らした。不気味なろうそくの火が辺りを照らし、言葉に合わせて揺れ動く。その対面には、レグルスが足を組みながら腰掛けていた。
「貴方はそれの正体をご存知なのですか?」
「いや……正直な話、正確に『これだ』とは言えない。けどまァ、三年前の"竜"と同じようなもんじゃねーかな、とは考えてる。覚えてるな?」
スピカは静かに頷いたが、その表情は依然固いままだ。
「それにしては期間が短すぎる気がしますが。次に現れるとしても百年は下らない年月が必要では?」
「補充されたんだろ、アステリアの戦いで。あそこで死んだのは相当なビッグネームばかりだ」
ヘラヘラと笑いながら言った後、レグルスは唐突に足を下ろすと、静かに響くような声で続けた。酒の注がれたグラスに口を付けた跡はない。
「魔族の死を背負うもの、古き伝承の『
「眉唾物の話ではありますが、把握はしました。要は、我々の仕事は資料を探すことですね」
「ああ、ついでに大暴れしてこい。布石に使える」
懐から取り出した紙切れを机に置く。そこには、ノヴァの顔が正確に書き写されていた。
「確か、今はこんな姿のはずだ」
「人相書ですか。……あら、可愛らしい」
「油断すんなよ、これはそういう形のバケモンだ」
スピカは紙を傍のベガに手渡してから、憂うような溜息を吐いた。レグルスは少し視線を鋭くしたが、追求はしない。しばらくの静寂の後、レグルスはグラスを一気にあおって席を立った。
「俺はこいつの情報を魔族の側から探ってみる。お前らも見かけたら報告……いや、捕獲してくれ」
「勧誘ではなく?」
「その前段階としてな。もしこっちに引き込めれば、用意してある中で最上のプランが組める。地雷要素も多いだろうし、無理でも問題はないが」
「頼んだぞ」と最後に振り向いて、レグルスは城を後にした。去り際に見せたその眼は、取ってつけたような軽薄さの中に重厚な意志を孕んでいた。
狼でも獅子でもなく、飢えたハイエナの類い——スピカは、彼を内心そう評していた。
* * *
そして、現在。痛撃に呻くベガの下に、ノヴァが陽気に身体を揺らしながら歩み寄っていく。赤黒い蛇のような触手たちも、口先をぱくぱくと開きながら踊っていた。まるでごちそうを前にした子供だ。
「わ、私たちはどうすれば……」
「……待機だ。現状、ノヴァに応戦する術がない。ここで介入して君たちを失うような事態だけは避けるべきだ」
狼狽えるマリーに向けて、カトレアが冷静に判断を下す。教師として、若い芽は必ず守り切る。撃退を目標にするなら、ここは敵同士が討ち合うのをじっと待つのが良いだろう。「警戒と異能の準備を」と指示を飛ばし、ぐっと額の汗を拭った。
会話と同時に、触手がベガに迫る。その瞬間、紅い軌跡が空中をなぞった。スピカの槍がノヴァを殴打し、間一髪で弾き飛ばしたのだ。
スピカはベガに駆け寄ると、自身の血を分け与えるように注入した。するとベガは辛うじて、と言った具合に立ち上がり、渋い表情で頭を下げた。
「申し訳ありません……姫様」
「そんな話は後です。気を引き締めて」
向けた視線の先では、ボールのように跳ねたノヴァが身を捻り、再び猛進を始めている。それを見たスピカは、今までになく険しい顔で口を開いた。
「予備の人形を全て解放してください!」
「しかし、それでは姫様の負担が……!」
「本体の出力を制限します、問題ありません!」
指示を受けたベガが、ローブの下に手を入れる。そこから取り出したのは、煌めく赤色の結晶だった。それを放り投げた瞬間、割れた結晶から大量の血液が溢れ出したかと思うと、液体はみるみるうちに人型へ変貌し、スピカと瓜二つの人形を作り上げた。生み出したのは五体。合わせて六体の血の人形が、ノヴァの前に立ち塞がる。
「わお、お姉さんがいっぱいだ!」
そう言って笑いながらも、触手は無慈悲に振り上げられる。肥大化したそれは、鬼神の棍棒のようにも見えた。しかし、スピカは間隙を見逃さない。一息に散開した人形が四方から血の鎖を放出し、ノヴァの体を縛り上げる。
「ベガ!」
「"
鎖を引きちぎられるより先に、岩石の掌がノヴァを脳天から圧し潰す。同時にスピカが空中へ跳ねた。
「沸血——"
研ぎ澄まされた細槍……紅色の杭が、滾る膂力によって撃ち下ろされる。杭は岩を貫通し、轟音と凄まじい衝撃波を伴って、静寂を呼び込んだ。
ベガとスピカ。両者の実力は疑うべくもない。これまでの戦いからも明らかだ。しかし、ノヴァはそんな常識さえも軽々と超えていた。
触手が岩を食い破り、空いた穴からずるりと不定形が滲み出る。瘴気を帯びた怪物が、細切れになりながらも活き活きと集結し、また元通り——可憐な少女の姿に再生した。
「ウア——ああ。やめてよね」
不機嫌そうに頬を膨らませ、腕を広げる。すると、ノヴァの背からまた瘴気が立ち上り、一対の触手……いや、細かな羽がふわりと生え揃い、身体を包むように拡張した『翼』が出現した。
「あれは……?」
黒の中にどこか青味が差したそれを見て、マリーが驚いたような声を上げた。ノヴァが新たな形態を見せたこともそうだが、その翼に既視感があった。
(あの形……どこかで見たような)
記憶に残る、猛烈な風。ノルノンドに落ちた流星。シャウラの翼と酷似していたのだ。
「うぅ……りゃあっ!」
ノヴァが翼を引き、ごう、と振るう。
次の瞬間。建物が軋む音と共に、嵐に色を付けたような黒い暴風が吹き荒んだ。制御できない乱気流が刃となり、スピカたちに襲い掛かる。
「くっ……!」
「姫様ッ、こちらへ!」
ベガの造った防壁に、人形たちが一斉に滑り込む。その最中、黒風に巻き込まれた三体は瞬きのうちに弾け飛び、血液へと戻されていた。
防壁すらも時間稼ぎに過ぎない。壁の前では、翼に加え触手も同時に携えたノヴァが、獲物を捕らえんと腕を引いているのだ。
振り払い、牙を剥く。その直前だった。
「やめろッ! ノヴァ!」
悲痛に絞り出すような声に、ノヴァの動きがぴたりと止まる。振り向いた先に立っていたのは、血の引いた顔で肩を震わせた、ルークだった。
「…………なんでぇ?」
呆けたように脱力するノヴァ。触手も翼も元通りに収め、少女体に戻った彼女は、ルークをじっと見つめながら首を傾げていた。
そしてそれは、吸血鬼の好機でもあった。
飛び出したスピカが、ノヴァに接近する。そのまま無抵抗の彼女に触れると、スピカはあろうことかノヴァに抱き着いた。
「わっ!」
フードを外し、美しい素顔を晒したまま、細い牙で首筋を噛む。一連の行動を済ませると、その体はどろりと血液に戻り、膜を張るようにノヴァに絡み付いた。
「渓谷まで撃ち出します。後で落ち合いましょう」
「かしこまりました」
スピカの発言に深く頷くと、ベガは即座に地面に手を当て、ずぶずぶと沈んで見えなくなった。恐らく大地の異能の転用だろう。撤退に転じた吸血鬼たちを見て、カトレアたちの緊張も高まっていた。
残ったのは二体の人形。その内一体は血に包まれたノヴァに近付くと、また自身の形態を液体に戻し、ぐつぐつと煮え立たせ始めた。
「"
激しく蒸気を噴き出しながら、血の袋が膨らんでいく。爆弾、あるいはロケット。沸血の熱量を使い、ノヴァを強引に連れ去るつもりなのだ。血の槍をアステリアに撃ち込んだのもこの方法だった。
「マリー、投射の準備を。狙うのは爆発の瞬間だ」
カトレアの指示に「わかりました」と返し、マリーが両手を構える。当のカトレアはマリーでもスピカでもなく、何故か一つの扉に眼を向け、そこに向けて走り出していた。
「ふう……どうなることかと思いましたが、運に救われました。またお会いしましょう、皆様——」
最後の人形がうやうやしく礼をする。そして膨張した血が爆裂する寸前で、訓練場の鉄扉が開いた。
「待て、吸血鬼……うわ!?」
「ヒューズ、レイン! 危険だ、動かないで!」
ベガを追ってようやく現れた二人だが、今は追撃の時ではない。カトレアは即座に上衣を翻すと、それを包むように"固定"した。
そして——
「"
爆発に合わせ、マリーの異能が放たれる。光と血、二色の大熱がその場を埋め尽くし、空間を揺らす。織り合わさった数々の音はあまりに膨大で、まるでそこに音がないようにも思えた。相殺されたエネルギーが収縮すると共に、白んだ視界が元に戻る。
その場には何もない。ただ目に映ったのは、雲間に覗く月と、その隣で微かに輝く赤熱の光だった。
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