第31話 いつかの歯車
「近付かないでくれ」とあの男は言った。
幾年か前は、明け透けな正義と希望を抱いて、阿呆のように前を向いていた。生まれ持った、吸血鬼としても死人じみて白い肌。それと反する印象が、今はどうだろう。言葉通りの憂いを帯びている。やつも自覚していたのだろう、いつしか趣味の悪い仮面でそれを隠すようになった。
「……いえ、そういう訳には参りません。姫様から、兄君に文を預かっております。……これを」
私が差し出した手紙を無言で受け取って、やつは溜息を吐いた。中を読まずとも、何が書いてあるかは判っているようだった。
「ベガ。私はお前に敬われるような身分ではない。スピカが私を義兄と呼ぼうとも……私は王族ではなく、友として触れられる立場でもない」
何度も聞いた言葉に、私もまた決まりごとで返した。「我が君がそうと仰る限り、貴方は姫の兄君なのです」。やつは軽く項垂れて、しばらく口をきかなかった。
私は、幼少からスピカ姫の側に着いていた。姫を守り、進言も重ねた。姫の道が曲がらぬよう、最低限の知恵も働かせた。この男の思想はおおよそ——吸血鬼としての価値観を疑わなかった私にとっては——疑念を抱かせるものだったが、それが崇高であり、やつが勇敢であることは理解できた。だからこそ、姫がやつを掬い上げ、「貴方は私の義兄です」と告げたときも、姫の意思を認めることができた。我々の間柄は至って鮮やかだった。
しかし、やつの肩を持ったのは姫だけだった。
やつは次第に疲弊し、ある日、姫の下を去った。
私はその詳細を知らない。だが、姫との関係に……いや、やつ自身にどうしようもない歪みが生じていたことだけは明らかだった。
「私は、ここを発つことにした」
男は封も開けぬ手紙に視線を落としたまま、そう告げた。
「吸血鬼としての私は結局……恩すらも上手く受け取れず、皆を惑わすばかりだった。——だが、必ず報いてみせる」
やつが仮面の下で何を考えていたのか、ただの従者には図れない。できたからと言って何をするでもないだろうが。
「スピカは——稀有な娘だ。支えてやってくれ」
それがやつと——アルフェルグとの、最後の会話だった。思えば、会話ですらない。
やつの出立を告げた時、姫は泣いていた。
姫の心の裡を、私はわかったつもりでいる。やつの存在と思想、行動が姫に影響を与え、心を動かしたことを、わかったつもりでいる。
「どこから正すべきだったのか?」
私は、それだけがわからない。
* * *
「行くぞ、吸血鬼ッ!」
勇ましく声を上げて、ヒューズが雷を放出する。白雷を帯びた瞳が、薄青く、まっすぐに輝いていた。それを受けたベガは僅かに肌を粟立たせると、低く屈んだ体勢をとった。
返り討ちにしてやろう。そんな意図が滲んでいる。しかし、二人が取ったのはベガの思いも寄らぬ行動だった。
「はああああああ……!」
ヒューズが歯を食いしばり、全身に力を込める。そのたびに溢れた雷撃が辺りに拡散し、チカチカと煌めきながら勢いを増していく。その最中、レインもまた周囲一帯に冷気を放出し、輪郭じみた靄を造り出していた。
そして、次の瞬間。
「"氷晶積層"」
「"電磁波動域"!」
二つの異能が、同時に解放された。
レインが生成した、巨大な花弁のような氷の断片たち。それが一斉に白雷と共鳴し、ばり、と音を立てて輝きを放つ。いつか——それこそ、一番初めの手合わせだったか。レインの氷とヒューズの雷が反応し合い、互いの性質を引き上げたときと同じだった。磁場の影響を強く受けた氷は次々と宙に浮き上がり、「浮島」となってベガを取り囲んだ。
「……なんだ、これは……!?」
「さあ、ヒューズくん! 空中戦だ!」
跳躍した二人が、氷に足を預ける。地面を跳ねるのと同じように、軽やかなステップで氷から氷へと、宙を駆け回る。まさに縦横無尽、変幻自在な異動を可能にしていた。
「なるほど、縮地の支配下に置かれるのを避けたということか。フン、考えが浅いなッ!」
斬り払うレインに対し、ベガの位置がぐん、と平行に移動する。敵が空中にいようと、自分が地に立っていれば問題ない。相手を動かすより、自分が動かす方が遥かに簡単だ。
そうほくそ笑むベガに、レインは笑い返す。
「じゃあ、君もおいでよ」
「なにッ……!?」
瞬時に、地面全体が薄氷に包まれる。動揺しながらも、地面を揺らすことで即座に砕き割ろうとしたベガだったが、僅かに遅い。急速に質量を増した氷が、その身体を跳ね上げてしまったのだ。
これで、理不尽な間合いは無に帰した。
「"
すかさず振り下ろされた右手が、夜空から雷撃を落とす。全身に駆け巡る高電圧に悶えるベガに、更なる攻撃が加えられた。
浮かぶ氷を蹴って跳ねて、氷の斬撃、雷の打撃が代わる代わる襲いくる。抜け出す隙など一片たりともありはしない。
(おのれ、なぜここまで動ける……!)
自分たちの異能とはいえ、即席、かつ初めてのフィールドであることには変わりない。それでも、ヒューズたちの身のこなしは完成されていた。これが数々の戦いを経て形成された対応力、彼らの世代がもつ類い稀な才能の一つだった。
「……!! このまま、終われるものか!」
翻ったベガがヒューズの次撃を跳ね除ける。その直後、ベガはありったけの酸素を吸い込むと、その無骨な手を空気が震えるほど大きく打ち鳴らした。
「"
地面から迫り上がった土の塊、地盤そのものをひっくり返したような岩石が、うねりと共に何かの形に変じ始める。大口を開いたそれが、氷諸共ヒューズたちを咀嚼する、その寸前。
「"イプライドの氷樹"ッ!」
岩石の内側から顕われたのは、レインの氷だった。樹の根が大地を割るように易々と、巨大な氷の幹枝が生え伸び、ベガの抵抗を阻んだのだ。この規模の技を出し、ベガも消耗していたことだろう。もはや逃げ場はなく、こちらには王手が残っていた。
氷を蹴り、空を駆ける。
「突き刺され——"
研ぎ澄まされ、形すら曖昧なほどに加速した豪脚が、ベガの頭部を捉える。その体は光の束となって巨大な氷樹へと投射され、そこでようやっと音が追い付いた。崩れ去る結晶の音を追うように、轟雷が辺りに勝鬨を鳴らしていた。
「はあっ、やったぞ……!」
レインと視線を合わせ、口角をぐっと上げる。久しく経験していなかった強力な魔族の撃破に、全身が安堵と衝撃で震えていた。
しかし、まだ終わらない。ひりつくような殺気に再び身を強張らせた直後、ごう、と音を上げて巨大な岩石が地面から出現し、氷樹と宙に浮いたままの足場を砕き潰してしまった。辛うじて躱した二人は、即座に臨戦態勢を取る。
「……評判は、間違いではなかったか」
血を吐き捨てながら姿を見せたベガは、相当の傷を負っているように見える。しかし、忌々しそうに前方を睨み付けるその眼光には、未だ背筋の凍るような覇気が込められていた。
「だが。しかし、しかし! その威勢恐るるに足らず! 我が忠道を止めるになお足らず!」
その勢いは更に増し、言葉と共に地面が微かに揺れ始める。伝わる鼓動に場の空気はなお燃え上がり、再び激突する——と、思われた。
なんの前触れもなく、ベガの動きが止まったのだ。彼は即座に視線を外すと、先程までの殺気をさらりと収め、厳粛に話し始めた。
「——姫様? ……承知致しました。その通りに」
ベガはそう言って深刻そうな顔をすると、ヒューズたちに一切の反応を示すことなく、声さえも掛けることなく、くるりと踵を返して走り出した。
「なっ……逃げる気か!?」
「追い掛けよう! 放っては置けない!」
二人は呆気に取られつつも、疲労を押して走り出した。まだ戦いは終わってはいないのだ。「縮地」による高速移動で、ベガとの距離は徐々に引き離されていたが、そこは同じく高速を得意とするヒューズの意地でもある。見失うことは決してなかった。
敵の行き先が「第三訓練場」……彼女が座すあの場所だと気付くのに、時間はそう掛からなかった。
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