12. 宿の浴場はお湯が出る、過度の欲情は怒られる
◇◇◇
12. 宿の浴場はお湯が出る、過度の欲情は怒られる
朝日ではなく、昼日が窓から差す。ギリギリ午前中だ。
見たことのある天井。
昨日と同じ宿のベッドで目を覚ましたケイジには、それでもやはり昨夜の記憶がない。
――頭が痛い…。
昨夜は酒盛りをした覚えはない。せいぜい宿の食堂で晩酌をした程度だ。
疲れていたのだろうか。
半日とは言えバトルを散々見て精神力を使い、その後野外バトルを2戦。
そもそも、全く知らない世界に飛び込んで丸二日、経験のない事尽くめだ。
いつもどおりに平然としていられるものではないのかもしれなかった。
なんとなく、いや、それなりの根拠があって、部屋を見回してみる。
脱ぎ捨てられた自分の衣服、何も置いていない木製のテーブル、薄いカーテンから光の漏れる窓。
膨らみのない隣のベッド。
ライムの姿はそこにはなかった。
それこそなんとなく、ひとまずケイジは安心する。
昨日は捕縛者の対応で遅くなるということで、ケイジは一人で会場から宿へ引き上げてきた。
昨日と違い、自分の足で戻ってきたという記憶はあった。その後、宿の一階の食堂で魚料理を食べたのも覚えている。
しかし、自分の身体を使ってベッドに潜り込んだ記憶は無かった。
思いのほか、精神的な負荷があったようだった。
気が高揚している時は肉体の限界以上に活動してしまい、そのツケが後から戻ってきたりするものだ。
目をこすると、顔の皮脂が掌についた。そういえば昨日は風呂に入っていない。
この国においては、必ずしも一般の民家に浴槽があるわけではなかったが、この宿には各部屋に湯を汲んで浴びることのできる設備が用意されていた。
昨日顔を洗ったときに、石鹸があったのも覚えている。
――身体を洗おう。
ベッドから脚を引きずって這い出る。
遠くおぼろげな前世の記憶では、自分は全裸で寝るタイプの人種ではなかったように思うが、ベッドの脇の椅子に下着まで脱ぎ捨ててあった。
寝間着のようなものは持ち合わせていなかったので、無理も無いだろう。
外着のままベッドに入ったり、靴のままベッドに上がったりと、欧米人の衛生観念とベッドに対する虐待には昔から疑問でならなかった。
ライムから当面の生活費も貰っていたので、今日は寝間着と替えの下着を買ってくることにしよう、などと考えながら、入り口に隣接した、一段低くなった湯浴み場のカーテンを開ける。
わかっていたような、待っていたような装いも新たに、石鹸の泡だけを身にまとったライムがそこにいた。
「…ッッ!? ッッ!?」
「…!」
双方声が出ない。
こういうとき即座に「キャー!」と悲鳴を上げられるのは自意識過剰かつ考えなしの人間だけだ。
ケイジは固まりながら目を背けることもできず、露わになったライムの肢体を凝視してしまう。
泡をまとったと言っても、必要な箇所を何も隠せてはいなかった。
近現代のような泡立ちのいい石鹸などここには無い。
昨日も思ったとおり、ライムの肉体はその幼さの残る顔の作りとは釣り合わない、おおよそ男という生物を蹂躙できる代物だった。
ケイジの精神年齢がアラフォーで25歳以下の女子に興味が無いといっても、それは精神性の話であり、肉体は抗うことのできない小宇宙に飲み込まれていく。
「ケイジさん!?」
「すっすすすすいませぇん!!!」
こういう状況ですぐに後ろを向いたり手で目を覆ったりできるのもやはり同様に、やはり自意識の高い人間だけで、凡人のケイジは混乱した挙句、なぜか両手で自分の胸を隠した。
「ケイジさん、私だって、もう一人でお風呂には入れますぅ!」
「ですよね!! っすよね!! …え?」
ケイジが想像する反応とは少し違った。
風呂桶も石鹸も飛んでこない。殴られも蹴られも噛まれもしない。
ライムは仁王立ちで泡まみれの身体を突き出す。
「魔法士官学校を去年卒業してからは、家を出たときの事を考えて一人で湯をつかう訓練をしてきたのです!」
ライムは自宅ではゴリゴリに甘やかされていた。
風呂に入る際には付き添いの女官が3人、服を脱がすところから始まり、髪や身体を洗うのにも、乾かして服を着るのにもライム自身は指一本動かさない。
生まれてから、実に16歳で学校を卒業するまでその全自動入浴方式が続けられた。
入浴時間の半分くらいは眠っていたかもしれない。
在学期間中から、自分の才能の完成形を悟っていたライムは、家を出る準備を整えていた。
「ほら、石鹸も泡立てて使えますし、こうやって擦り布で身体を洗ったり…!ほら、こういう所もこうやって擦って…こんな風にこう…!」
ケイジは両手で顔を隠した。
正常な判断ができるならばその場を離れるべきだった。
この世界の入浴リテラシーはこのくらいのものなのか、それともこのご令嬢が特別すぎるのか。後者でないと文化圏が成立しないようでもある。
「こう、こう…」
ライムの手が不意に止まり、視線が一点に集中する。
「こんな…ふうに…」
ケイジも全裸だった。
全裸で両掌で顔を隠していた。ライムはまじまじとケイジの身体の一点を見つめ続ける。
「…」
ここでようやくケイジは下を向いてしゃがみこむ。
声にならない声が出る。
よくある場合の男女逆の反応だった。
精神年齢とは無関係に、ケイジの身体、主に下半身が10代後半だということを体現していた。
「それは…」
ライムの好奇に満ちた何かしらの追求をかわそうと、ケイジは転がるように浴場を逃げ出した。実際転がっていた。
何か事実情報を作ってしまえば、ライムから貴族家の人間に何をどう伝えられてどれほどの責め苦を受けるかわからなかったからだ。
「浴場で欲情」という韻は二度と踏むまいと心に誓った。
――どうも昨日に増して、俺への態度が砕けすぎている気がする…。
警戒心が無さ過ぎる。
まさか昨晩も何かやらかしたんだろうか…。
いや、そんなはずは無い、とケイジは首を振る。
それは純粋な祈りであった。
しばらくしてライムが浴室から出てくる気配がすると、ケイジは逃げるように反対側から後ろ向きで入れ替わり浴室に入る。
多分またその場で堂々と全裸で着替えようとするに違いなかったからだ。
自分の入浴時間でやり過ごそうという腹だ。
入念に仕切りのカーテンを閉める。鍵も扉も無い。
2畳ほどの空間。
釣瓶で1階から湯を汲み上げる湯口、まだ少し残る湯気、石鹸の匂い。
前世の世界のような調合された製品の香りではなく、石鹸そのものの純粋な清涼感。
つい今しがた、美少女が身体のここあそこを入念に擦りつけていた石鹸だったが、ケイジは考えないことにした。
それよりも、先ほどのライムの柔肌を思い出していた。
いやらしい気持ちではない。
濡れた長い金髪がかかる白く滑らかな背中に見えたのは、
刺青――魔方陣と、それを刺した古傷ではなかったか。
背中一面に広がった、大きく丸い、ファンタジーもののRPGで見るような魔方陣の刺青。
その一部分を無理やり刃物で抉ったかに見える古い傷。
――…。
ラッパーは一度はタトゥーに憧れる。
若気の至りで変な模様を入れて、後々恥ずかしくなって削ろうとした、という感じだろうか。好きな人の名前とかかもしれない。
思いやりで、恋人の名前は彫らない(どうせ別れるから)というタトゥー屋さんの話を思い出した。
それだけならまあ10代にはありがちなことだが、なぜかケイジにはさっき見てしまったライムのどの身体の部位よりも、魔方陣がやけに気になった。
魔法陣に描かれた文字のようなものは全く判別できなかったが、どことなく前にも見た覚えがあるような気がしていた。
相変わらず一昨日以前のこの世界の記憶は無いし、それどころかここ二晩の記憶も無い。
もしかすると、前世の遥か遠い記憶なのかもしれなかった。
桶で汲み上げた湯は、とっくにぬるくなっていた。
「実は前にもライムに会ったことあったりして… この出会いは本当は―
とかっつってな!っつってなー!ワハハ…」
「何がですかぁ?」
不意打ちにびくっと肩が上がる。
出入り口側を振り向くと、そこにいた。
「ななな何してんの!?何!?何!?」
「折角なので私の腕前でケイジさんを洗って差し上げようかと思いまして…」
「いらない!そんなオプションつけてないッ…!」
先ほどとは何も変わっていない姿だった。なぜ一度出たのか。
いや、よく見ると水滴を一旦ふき取ってあるようだったが、それを確認する間より先にケイジは股間を押さえて壁に向かって突っ伏す。
「出て!出て行ってぇ!いや、俺が出る!もう出る!!」
「えっ、もう出ちゃうんですかぁ?ケイジさんて早いんですねぇ」
「でっ出ないよ!? いや、出るっていう意味での出るだけど!?
てか早くないし! 変な言い方すんな!!」
できうる最大限の身体の部位を手で隠し、持ち込んだ自分の服を雑に掴んで、ケイジは浴場をまたもや転がり出た。やはり実際に転がっていた。
ちょうど正午を告げる鐘が鳴ったのが間抜けに感じられた。
◇
その後の協議により(衣服は着た上だ)、お互いの入浴時は邪魔しない、という協定で手打ちとなった。
着替えも浴室ですべき、というケイジの主張は、
「男性にはわからないかもしれませんが、女子は召使がいない場合、広いところで全裸にならないと着替えができないのです」
という謎の反論で、着替える際はケイジが浴室に逃げるしかなくなってしまった。
そもそもこの宿がカッサネール家の息のかかった施設であり、別の部屋をもう一つ用意することぐらい造作も無いはずだ。
弟子たる者は常に師匠と寝食を共にしなくてはならない、というライムの意気込みは不当としか思えないが、全部ご厄介になっている以上、ケイジの発言権は知れたものだった。
せめて、「他人の前で裸になるのは市井の人間の所業ではない」、という力説だけは理解してもらえていれば良しとすべきだった。
相手が本当に市井の娘だったならば、ケイジとしてもラッキースケベということで黙認する。
―が、相手は大貴族令嬢だ。
到底一介のミュージシャン(志望)がどうにかできる責任の範疇を超えている。
ともすればミュージシャン生命そのものがかかっているかもしれない。
常識の無い優等生はこの上なく厄介だった。
「昨日捕らえられた者たちの処遇ですが―」
ご丁寧に昨日とは違う献立のランチを食べながら、二人は情報を整理する。
「委員会の協力もあって、会場衛兵ではなく宮廷師団での扱いとなりました。
本日取調べが行われるはずです。」
「フ…音楽を破壊衝動の拠り所にするような奴らは、“本当の音楽”を知らないんだ。」
一週間待て、俺が本当のヒップホップというものを見せてやる。
ケイジはグルメ漫画の主人公のような気持ちになる。
「“WACKS”の狙いは現状不明です。
二人目の仮面戦士の言が本当ならば、予選通過点数を確保していてなお
予選に出続けるのは、突破者の母数を減らすためか、平均点を上げて本戦での
ポジションを優位にするためか、あるいはまったく別の目論見が…」
「
“WACK(ワック)”
―MCバトルにおける、「ダサい」「イケてない」という意味の罵声。
後藤啓治だった頃、さんざん自作動画のコメント欄に書かれた文字列。
―今のケイジには前世の記憶はおぼろげながら、それが悔しさを呼び起こす言葉だという感覚だけは残っている。
本来の意味の「悪」とか「有害」だとかいう言葉はラッパーに対しては罵倒にならない。
むしろ誉れになる。
唯一彼らの音楽を低く評価することが罵倒となるのだ。
もし自分たちでそう名乗っているのであれば、自虐を装ったよほど自信のある集団に他ならない。
「(一体どんなラッパーが集まっているんだ…?面白くなってきたぜ―)」
もちろんライムたちは「有害」の意味でそのワードを用いていたが。
「構成員を二人も倒したのですから、ケイジさんはおそらく今後マークされるでしょう…。
当家の領内では絶対手出しをさせないつもりですが、国領の試験会場では
どうなるかわかりません。
私が付いていながら、初日からこんなことになるなんて…。
なんとお詫びしてよいか…」
ライムは申し訳なさそうに、全然減っていないランチのプレートを見つめる。
「悪い奴らにマーク、か。…最高に
「えっ…?」
「だって悪に狙われるってのは―」
ケイジはフォークを持ってないほうの手の右指を胸に立てる。
「俺が――主人公だってことだろ?」
「…ケイジさん…!」
――来るならいつでも待っててやるぜ。
…このくだりいつかリリックに使おう。
ケイジは右指に誓う。
一方ライムは意味が通じていなかった。
「そうだ、狙われにくいように、ダンジョンに行ってみたりする手もありますよ?」
(―“MCバトルダンジョン”…いや、ちょっとまだ花の舞台ダンジョンは早いだろ…?
今じゃない、もう少し慣れてから、もう少ししたら多分行けるから…!)
「既にクリアされた部分なら見学もできますし…」
(負けた後の“モンスター”に会う…だと!?
ダメだ、そんなことはラッパー精神にかけてできねえッ…!)
この世界でのラッパー人生2日目のケイジは心で吼える。
それがなんぼのものであることか。
ダンジョンについての誤解は解く解かれる以前の体たらくのまま、しかしケイジは再度大きく出る。
「いや、ならず者とのバトル、上等だ。
―強行だ、狙ってくるなら試し撃ちで返り討ちだぜ!」
この韻は微妙だし使えないな、とケイジは後に省みた。
◇◇◇
(第13話に続く)
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