2 : 30 a.m.の皇女様
吉田コモレビ
出会い
今晩は脳が思索に支配され、うまく寝付けなかった。掛けていた埃っぽい毛布と堂々巡りの不安を振り払うようにボロアパート二〇一号室を飛び出す。建て付けの悪い扉を開く際に視界に入った時計は、深夜二時十二分を指していた。
「はっ....はっ....」
階段を全速力で降り、何かに取り憑かれたように夜の歩道を走る。昼間の喧騒が嘘のように三月二十日のアスファルトは静寂に満ちていた。不安定に点滅する電灯が夜行トラックの如く連なっているのが、自分の惨めな焦燥を次々に照らしているかのように感じる。
聴こえるのは自分の猛々しい足音と荒い呼吸音。意識を向ければ心音も。頰を撫でる生暖かい向かい風が、僕が我武者羅に走ることを妨げていた。
不安の正体。
一昨日、僕は官僚養成学校に合格した。王国内ではトップレベルのエリート養成校、と中々に名の通っている学び舎である。
自分の受験番号と掲示された羅列を何度も照会し確証を得た時には涙が出るほど喜んだものだ。
しかし。
遠くない将来、僕はエリート街道まっしぐらに綺麗に整備されたレールの上を進み、やがては王政の敷かれた我が国の為に身を粉にして働く社会の歯車となるのだろう。
僕は弱冠十八歳にして、自分の未来が完全に予想できてしまったのだ。
それに、恐怖した。予見通りの未来に向かってひた走ることに。そして前途ある自分の将来を決めることに恐れ慄いたのだ。
だから今。何かから逃げるように走っている。
「公園、か...」
無我夢中で走っていたから気付かなかったのだろう。小さい頃は頻繁に遊んでいた、どこにでもあるような公園に終着していた。滑り台、自動販売機が二台に砂場...あれ、シーソーがないな。時代の波に呑まれて撤去されたのだろうか。
「っ...!」
懐かしむように公園内を見ていると、ぼうっ、と青白い人影を視認した。少し驚くけど妖の類は信じる性分じゃない。いくら逢魔時とはいえ、だ。
純粋な興味で近づく。
この時の僕はどこかおかしかったのかもしれない。普段自分から人に声をかけない僕が、深夜テンションだからだろうか。それともこの日初めて見た人間だったため嬉しくなったからだろうか。奇しくも自ずから話しかけたのだ。
「あの....」
兎に角。この出逢いが、僕の人生をちょっぴり変えてしまうことになるのだ。
「...む?少年、どうしたんだ?こんな時間に」
ポツンと孤独に屹立したベンチに座っている少女はこちらを振り返る。遅れてわざとらしい電灯一つに照らされた氷柱のような銀髪が靡き、透き通る白い肌を隠した。
つーかこの娘。
「えっ...!?あっ...こ、皇女、様っ!?」
どうみても彼女は。
この国を治める王様の、たった一人の愛娘であった。惰性で取り続けている新聞の『今日の皇族』のコーナーで度々目にしているから見間違うはずもなかった。
皇女様は驚いて声を上げる僕を見て、小さな口に人差し指を当てる。
「しーっ。大きな声出すでない」
何故だろう。寂れた公園のベンチに皇族の彼女が腰掛けているのは、どう考えてもミスマッチなはずなのだ。彼女は白のネグリジェに黒のダッフルコートと、ファッションの方も同様、かなりミスマッチ。裏の裏は表、ミスマッチとミスマッチはマッチ、と謎理論を頭の中で展開した。
ともあれ。僕はこの状況について不思議に思わなかったのだ。奇跡的に彼女に似合っている。だから言葉は意外とすんなり出てきてくれた。
「ごめん、なさい。静かにします」
「よろしい、素直な少年だ」
彼女は背伸びをして、えらいえらい、と頭を撫でてくれた。確か皇女様、十四歳になったばかりくらいと聞いたことがある。歳下に頭を撫でられても違和感なんて無く純然たる嬉しさのみが込み上げてくるのは、彼女は皇族で威厳ある存在だからだろうか。それとも僕のプライドがゴミなだけだろうか。なるほど、僕は愛情に飢えていたのかもしれない...キモすぎるなそれは。
唐突に、彼女は言い放った。
「少年。君は何で、そんなに悲しそうな顔をしているんだ?」
思わず息を飲んだ。その息はほろ苦い。
「悲しそうな顔、してますか」
彼女は僕を凝視していた。気恥ずかしくなって目を逸らす。
悲しそうな顔、していたのか。自覚はなかった。表情に出るタイプだとは知らなかったし、指摘してくれる友達とかいない。
彼女は立ち上がり呆然としていた僕を置いて、とったったっ、と歩いていく。そして、電灯の光が地面に描いた楕円の中心で立ち止まった。左足を軸にくるり、軽快に一回転する。
「少年、夜は自由だ。肩の力を抜けよ」
一陣の風が吹く。冷ややかな、されど安心できるような運命を内包する息吹。
ふわりと舞う柔らかな長髪の残像が螺旋を形成する。彼女の髪は白光を綺麗に反射していた。『夜は自由』という言葉が、やたらと耳に残る。
二人だけの世界のようだった。
使い古された表現だけど、そうとしか思えなかったのだ。
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