第184話 モブ令嬢と旦那様と下された決断
竜王様方が邪竜の攻撃によって倒れ、崩壊を迎えかけたあの時から、既に四時間近くが経ちました。
いま少しすれば日を跨いでしまうのではないでしょうか。
モーティス公爵領の主都リューベックの城壁が、戦いのさなかに発生する眩いばかりの閃光によって、ときおり視界の先に捉えられております。
リューベックの住人たちは、アンドゥーラ先生や金竜騎士団の方々の活躍によって既に避難しております。
邪竜は欲望に反応するというので、逃げる人々を追うのではないかと心配いたしましたが、それを懸念したアンドゥーラ先生が、住人を同じ場所に避難させるのではなく少数の集団に分けて王都への進路を外して四方へと散らしたそうです。
あの後、その連絡に来た金竜騎士団の方の話を聞いて、私は、邪竜の進路はリューベックから外れて、真っ直ぐに王都を目指すのではないかと想像いたしました。ですが邪竜の進路は変わらずにリューベックへと向かっておりました。
もしかしたら都市には、長年の人々の生活によって、欲望の残滓のようなモノが揺蕩っているのではないでしょうか?
それにしましても……二時間ほど前に連絡に来た金竜騎士団の方は、金色の髪と瞳になった私を目にして、腰を抜かさんばかりに驚いておられました。
その折りに、夜間は邪竜の発する黒い毒霧が危険なので、騎士団の方々には近付かないようにとお願いしたのですが……、その後、ドルムート様が連絡の不備を装って私の姿を確認するためにやって来たのです。
どうやら、私が金竜の愛し子であったという連絡を受けて、その姿を一目見たいという欲求に抗えなかったようです。
自身の翼竜から降り立って、私の前にやって来たドルムート様は、『おおぅ……まさに、まさに……フローラ様は、王都解放の女神であるだけでなく……、我ら金竜騎士団にとっては、真の守護女神であった!! 私は、自分がこの時、金竜騎士団の団長であった事を七大竜王様方に感謝してもし切れない!』と、感動の涙を流して、私に向かって祈り始めました。
私……初めてアンドゥーラ先生以外の年上の方に対して、『金竜騎士団の団長という立場の御方が、指揮する騎士団を置いて何をやってるのですか!』と、説教をする事となってしまいました。
ドルムート様は王都解放の戦いより、私や旦那様に、とても好意的ですし、そのご気性は好ましいとすら感じておりますが、いくらなんでも時と場合というものがございます。
ドルムート様は、私の説教に平身低頭しておりましたが、そのお姿がどこか嬉しそうに見えたのは……きっと気のせいですよね?
また、話は少し戻りますが、私をバルファムート様の元へと送り出した旦那様は、あのあとレオパルド様とアルメリア、メアリーと共にリュートさんを追いました。
白竜王ブランダル様が倒れたのを目にしたリュートさんは、激高して邪竜の後を追ったのですが、瀕死の状態の中、ブランダル様がリュートさんに懸命に声を掛けてくださっていたようで、旦那様たちが追いついたときには少し冷静さを取り戻していたそうです。
後でアルメリアに聞いた話によりますと、それでも興奮状態だったリュートさんを、旦那様が『肉体言語』とやらで説得したのだとか。
レオパルド様が『まあ、このような状況だと仕方がないよな……』と、どこか半笑いで、アルメリアは『あれは、良い語り合いでした……私も混ぜてほしかった』と今ひとつよく分からない事を言っておりました。
さらにメアリーまで、『ミミとはよく語り合ったものです。一方的に私が語りましたが……』とどこか感慨深げです。『肉体言語』とはいったい……?
その後、回復なされた竜王様方と共に邪竜の後を追って、私たちはまた合流いたしました。
そうしていま、邪竜との攻防のさなか、モーティス公爵領の主都リューベックが眼前へと迫って来ているのです。
長い年月、ノルム様によって隠されていた私の真実の姿が解放され、その力によって竜王様方、さらに偽神器を手にする旦那様を始めマリーズやアルメリアたちも、邪竜を浄化する力を大きく増しました。ですが戦況は一気に覆りはしませんでした。
『シュガールよどうした? 待望の愛し子が見付かったというのに、あれから一言も発しておらんではないか?』
私のストラディウスの演奏によって力を増した事で余裕があるのでしょう、赤竜王グラニド様が今は金竜王シュガールの姿で空を舞っているトルテ先生に声を掛けました。その言葉にはどこか揶揄っているような色が感じられます。
確かに先生は、私が地の精霊王ノルムによって地上に戻されてより、言葉を発することなく、他の竜王様方に支援の魔法を掛け続けておりました。
私も、トルテ先生がいま何を考えているのか、少々気になります。
『………………』
『意地の悪い言い方をするでないグラニド。シュガールは己の不明を恥じておるのだろう。ブラダナから聞いた話によると、何年も同じ館で生活していたのだ。それで気付かずにおったのだから、
『ブラりんのほうが容赦ないのだ……』
『貴方たち、何を戯れているのですか。そのような戯言を語っている暇があるのなら、少しでも邪竜の力を削ぐ為に励みなさい!』
銀竜王クルーク様が、邪竜に神器、聖鎌クルムディンの一閃を加えました。
クルムディンが一閃した場所には一瞬、白光の軌跡が走り、その白光は細かい泡が散るように邪竜の肉体、その表層へと抜け出て行きます。
クルーク様の見立てでは、このまま神器によって浄化を続けたとして、五〇〇年前のように邪杯の場所を特定するのには一週間ほどは掛かるのではないかとのことでした。
五〇〇年前には一月ほど掛かったそうですので、それを考えれば大幅に神器の力が強くなっていることは確かです。
ですが……それでは手遅れなのです。
このまま邪竜の這行が続けば、目前に迫るリューベックを越え、さらに
それにしましても……その存在が邪なものである筈なのに、浄化された欲望を――月光を受けた鱗粉のように輝き散らす邪竜の姿はとても幻想的で、ともすれば状況を忘れて見入ってしまいそうになります。
金竜騎士団の方々にも注意いたしましたが、人である私たちには、この暗闇の中、邪竜が時折まき散らす黒霧はとても厄介な攻撃です。
竜王様方でさえ影響を受ける猛毒を含んでいて、私が地の精霊王ノルムに囚われていた合間に、竜王様方を一時壊滅状態に陥れる切っ掛けとさえなりました。
いまはそのような攻撃があると理解したバルファムート様によって、私たちの周りには常時毒を無効化する守りが掛けられております。
既に、何度目になるか分からない攻撃の合間の休憩に、レオパルド様が旦那様に向かって口を開きました。
「これは……このままではかなり不味いことになってしまうかも知れません」
レオパルド様はその顔に憂慮の色を浮かべて、旦那様に視線を向けます。
「神殿前広場でのライオス殿下の話は、私も耳にしておりました。この地を治めるモーティス公爵は私とクラウス殿下の祖父にあたるのですが……あの方は、ライオス殿下の仰っていた、平民との間に生まれた庶子の存在を忌々しく思っている、旧態依然とした考えをお持ちの方々の一人です。そのモーティス公爵の治める領地を邪竜によって荒らされ、しかも主都であるリューベックまでもが破壊される事となってしまったら……。それにその原因がライオス殿下であると、あの方に知れれば……、衆人環視の場で行われた犯行です、事が周囲に知れるのは時間の問題でしょう……」
レオパルド様の視線には遣る瀬なさそうな気持ちが滲んでおります。
「レオパルド君、君はモーティス公爵とは懇意ではないのか?」
ライオス様とは縁が深くはなさそうなレオパルド様が、そのように心配する様子を疑問に思ったのでしょう。
その旦那様の問い掛けにレオパルド様は、どこか、友人に大事な秘密を打ち明ける少年のような表情になりました。
「……我デュランド家とモーティス家は犬猿の仲ですよ。その……母上と父上が、息子の私が見ているのも恥ずかしいくらいの熱愛でして、父上との仲を反対された母上はモーティス家を飛び出して我が家へとやって来てしまったのだそうです。俗に言う押しかけ女房と言われるやつです。ウチの
そういえば、そのような話をどこかで耳にしたことがございます。
あれは、ああそうでした。アルメリアから聞いたのです。確か、レオパルド様のご両親のお話を題材とした騎士物語があるという話が出たときに聞いたのでした。
私、アルメリアより借りて読んだのですが、あまりにお熱いお二人の遣り取りに、途中で挫折した記憶がございます。
「まあ、ウチの両親を目にしている私には、グラードル卿とフローラ嬢のお熱さも慣れたものです」
最後にそう茶化すように笑われてしまいました。
確かに、その、ときおり皆様のおられる前で、二人の世界に入ってしまうこともございましたが、そういえば確かに、レオパルド様だけが、いつも冷静に温かい目で見ておられたような……。
私がそのように考えておりましたら、彼は真面目な表情に戻って言葉を続けました。
「モーティス家は元々、アンドリウス陛下の第二王妃として母上を嫁がせる目論見でいたそうです。結局、母上の妹であるアリーシャ叔母上が陛下に嫁ぎました。私が……クラウス殿下と親しくなったのも、元を辿れば、母上がアリーシャ叔母上とクラウス殿下をとても心配していたからです。叔母上は優しい方なのですが、大陸西方諸国の女性の典型と申しましょうか……上位者からの言葉に逆らえない方で、王太后ビクトリア様の望むままにクラウス殿下の教育をさせてしまっていたのです。まあ、慣習を重んじるビクトリア様のおかげで、乳母であるレガリアの母上が、教育係の一人として残ったことは救いでした。でなければ早晩見捨てることになっていたかも知れませんでした……」
レオパルド様は、少し自己嫌悪でもしているような表情を浮かべます。
「グラードル卿……私は、ライオス殿下に感謝しているのです。あの方が、クラウスのことを貴宿館へと……お二人の元へと導いてくれたことに……、あの方は誠にこのオルトラントの事を考えてくださっている。私もあの方を死なせたくありません」
彼は、そう心底を晒して仰いました。
レオパルド様のその想いを、私はとても嬉しく思います。きっと旦那様も同じことでしょう。
ですが、私は……おそらく旦那様も気付いておられると思うのですが、確かにライオス様はオルトラントの事をとても大切に思ってくださっております。ですがあの方は、同時にとても厳しい方でもあります。
クラウス様を貴宿館へと導いたのは、殿下を試すためであったのだろうと私は考えております。
その生活の中でクラウス様が何かを思い、その心を改めなかったのならば……、おそらくご自分が滅ぶときに、この世に残して行くことのできないモノとして、道連れにしたのではないでしょうか。
今の旦那様になる前のグラードル・アンデ・ルブレンも、さらに言うならばルブレン家も、元々はあの方の試しの中にいたのだと思います。
「レオパルド君、君は……もしもこのままリューベックが破壊されるようなことになったら……たとえアンドリウス陛下の取りなしがあっても、ライオス殿下の助命は叶わないと考えているのだね?」
私が、暫しそのようなことを考えておりましたら、旦那様が真剣な様子で口を開きました。
「はい……。現状、間違いなくモーティス公爵側に付く貴族の方が多いはずです。なんといってもあの方は王大后ビクトリア様の弟でもありますから……」
そうなのです。王大后ビクトリア様はモーティス公爵家の出で、先王オルトロス様の第一夫人でございました。
アンドリウス陛下は、第二夫人の子なのです。
オルトロス様が王位を譲ることを決めたとき、ビクトリア様の産んだ男児は病などで亡くなっていました。
ですがビクトリア様は、近隣諸国より大王とも呼ばれたオルトロス様の第一夫人であった方です。昨年末に病に倒れるまで、後宮においてその影響力は絶大であったそうです。
それに伴い、モーティス公爵家が貴族社会に与える影響力は、オルトラントに存在する公爵家の中でも最も大きいものなのです。
「なるほど……どちらにしてもこのままでは王都まで壊滅する。ライオス殿下の身を考えれば、今が決断の時というわけか……」
レオパルド様の言葉を聞いた旦那様は、とても辛そうな表情を浮かべて、そのように仰いました。
そうして……不意にご自分の懐から何やら小瓶を取り出しますと、その蓋を開けてグッと口に含みました。
あれは、たしか以前アンドゥーラ先生から受け取っていた……、なんの薬か、その用途も教えて頂けなかったモノでは?
私は、心の内からとても大きな不安が湧き上がってまいりました。
「旦那様! いったい何をッ!? うくッ…………」
「なッ!? グラードル卿――このような時に何を……!?」
レオパルド様が、驚きに目を見開きます。
それは、声を掛けようとした私の唇を、旦那様の唇が塞いだからでした。
口の中に、旦那様の舌が差し入れられ、それと共に液体が流れ込んでまいります。
これを呑み込んではいけない。
と、瞬時に思うものの、顔を上に向けられて口づけを交わした状態です。上から流し込まれた液体は否応なしに私の喉へと向かい、息苦しさに負けた私は思わず液体を嚥下してしまいました。
この液体は、間違いなくアンドゥーラ先生が合成した魔法薬でしょう、嚥下して直ぐにその効果が現れ始めます。
「だっ、だん……なさま…………」
あっ、ああ……だれか、誰か旦那様を止めてください!!
体中に痺れが周り、私の身体からはグテリと力が抜けてしまいました。
旦那様は、力の抜けた私を静かに地面に横たえます。
「フローラ、済まない……これから俺がやろうとすることを話したら、きっと君は止めるだろう……だけど、きっとこれが正解なんだ。元々当て馬として滅びる運命を背負っていたグラードルが、いまの俺になり、そうして一度は君に命を助けられた。それはきっと君のいるこのオルトラントを――この世界を救う為に俺は生かされていたのだと思う……」
彼を、彼を止めなければ! ……心だけはそう逸るものの、私の身体は薬の効果で動くことも話すこともできません。
結婚してより旦那様との間で交わされた口づけでは、これまで様々な感情を呼び起こされました。
ですがこの口づけは……その中で最も悲しい口づけでした。
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