第102話 モブ令嬢と旦那様(参)
「いいかいフローラ、明日の朝一番だ。城壁の市門が開いたらすぐに向かうからね」
昼後の授業が終わり、私はアンドゥーラ先生と一緒に先生の個室へと入りましたら、先生は私の肩に手を置いてそう仰いました。
「……すぐに向かうとは?」
私の問いに、先生は銀光が滲む薄紫色の瞳に、軽く呆れの色を浮かべます。
「意外に暢気だね君は。トライン辺境伯領に決まっている……早く向かわなければクルークの試練を誰かに達成されてしまうかも知れないよ。それに、騎士団が動く前に行かなければ、
「アンドゥーラ先生……授業はどうなさるのですか?」
先生が私のことを心配して、そのように気を配ってくださったことは有り難く思いますが、他の学生たちのことが頭に浮かんでしまいます。
「昨日、あの後一通りの準備はして来たよ。師の生徒であった同期の魔導師に一月ばかり代わりは頼んだ。ファーラム学園長にも昼前に話を通してきたしね。クルークの試練の調査という名目で、学園長からのお墨付きも頂いた。ついでに学園から調査費までせしめてきたのだ」
先生は、ニシシといった感じの笑い顔を浮かべて自慢げです。
「君は私の弟子だからね。助手として、調査には付き合ってもらうよ。あのように戦闘訓練までしていたんだ。自分の手でなんとかしたいのだろう? 君が思いのほか頑固なのは私もよく知っているからね。うまくすれば……調査の過程で魔法薬の材料が採集できるということもあるだろうさ」
先生はそう言って、悪戯めいた微笑みを私に向けました。
「私としてはいますぐに出立したいところだが、フローラ――君の準備もあるだろう。ご家族には私が同伴するのだから心配無用だと伝えてくれたまえ」
「先生……私は昨日、クルークの試練が口を開けたと聞いた後、あの時まで、最善の準備を進めていたと思っていた、自分の考えの甘さを痛感いたしました……」
金銭の問題、移動の問題、そして迷宮を攻略する為の戦力。
アンドゥーラ先生は昨日、私たちと別れた後にそれだけの手筈を整えていたのですね。
昼に、旦那様とアルク様の遣り取りを聞いたときとは、また違う涙が私の瞳に浮かびます。
先生はその涙を、すーっと人差し指の背ですくい上げます。
「フローラ、涙はグラードル卿が助かる目処が立つまで止めておきなさい。今は行動のときだからね。まあ、不安があるとすれば、君の過保護そうな旦那様だね。いくら私が居るとは言っても、あの男のことだ強硬に反対しかねない。まあ、もしそのように心配するのなら、あの、なんと言ったかね、君の所のあの侍女は――そうだ、メアリーと言ったか、彼女は相当な手練れだろう? 彼女に同伴してもらうと説得するか、それが叶わなければ、まあ、そうなったら、忍んででも出てくるのだね」
アンドゥーラ先生は私の決意を、頑固という言葉で軽く流してくださいましたが、言うに言われぬ事情を察しての言葉であることは、これまでの言動で明らかです。
まあ、先生がクルークの試練自体に、研究心を刺激されておられることも、もちろん嘘ではないと思いますが……。
「分かりました。何とか穏便にやってまいりますので、先生――よろしくお願いいたします」
「うむ、このような時は、女の方が肝が据わっているものさ。あとはサレアが了承してくれれば、竜に翼を得たる如し、なのだがね。神殿には王宮から癒やし手の手配が来たらしいのだ。セドリックは、立場が立場だからどうにもならないが……こんなときに冒険者組合にシモンやアシアラのような人間が居てくれたら心強いのだがね。ここ最近オーラスを拠点にしている冒険者は小物ばかりのようなのだ」
先生はサレア様にまで声を掛けておられたのですね。それにしましても……先生はあの後いったいどれだけの準備をしていたのでしょうか……この勤勉さが、普段から発揮されれば個室や館がこのような惨状にはならないのでは? と、考えてしまうのは罰当たりでしょうか?
◇
「どうしても行くつもりなのか……」
旦那様が、辛そうにそう言葉を吐き出しました。
居室のベッドに腰掛けた旦那様は、隣に掛ける私を、苦渋に歪んだお顔で見下ろしています。
「はい……。夕食の席でも申し上げましたが、私、正式にアンドゥーラ先生の弟子にしていただきました。師である先生がクルークの試練をお調べになる以上、弟子としても助手としましても、お供するのが勤めであると考えます」
私は傷む心を押し殺して、故意に冷静に答えます。
「しばらく前から、君が
「そのことについてお話しするのが遅くなりましたのは申し訳ございませんでした。しかしアンドゥーラ先生は万全の態勢を整えてくださっております。危険は少ないはずでございます」
「アンドゥーラは
何とか、私を思いとどまらせないものかと、旦那様は切実なご様子でそう仰います。
「ですからセバスの言を入れ、アンドルクからもメアリーを筆頭に数名の力を借りることにいたしました。旦那様救出のおりに力を貸してくれた方々です……旦那様も夕食の席ではご了承いただけたではありませんか」
「それはそうだが、しかし……くそッ! 何でこんなときにトーゴが攻め入って来たのか……でなければ俺が……」
旦那様は、まるでどうにもならない現実を、その手で握りつぶしてしまいたいかのように、ご自分の手を握り込みます。
その右手には軽く布が巻かれていました。昼に、中学舎の壁を殴りつけたのです、その時に拳に傷を負われたのでしょう。
私は旦那様のその手を労るように取って、自分の胸元へと引き寄せますと、布から覗く指先に口づけいたしました。
そして、私を憂う旦那様の黒灰の瞳と視線を合わせて、ゆっくりと口を開きます。
「旦那様こそ、あの毒を受けてよりいまだ二週ほどです。トライン辺境伯領までは、騎士団の移動では十日近く掛かるはず……その間どうかお身体をお休めください」
私は旦那様に安心していただこうと、できるだけ朗らかに微笑んで見せました。
「フローラ!」
旦那様が、突然私を強く抱きしめて、ベッドへと押し倒します。
そして、唇を強く奪うと、私の夜着をはだけて、首筋にも口づけいたしました。彼は私の身体に己の存在の印を焼き付けでもするように、強く、力強く、口づけをいたします。そして、肩口を噛むようにしてから、また私の口を奪います。
しばらくの間、お互いに呼吸を乱して口を合わせ……そして、旦那様は顔を離しますと、私と視線を合わせました。
「いいのですよ――旦那様。……私は旦那様の心の丈を受け止める準備はできております……」
私は、真っ直ぐに旦那様の視線を受け止めてそう言い。微笑んで見せました。
彼はその私を見て、お顔を後悔の念で染め上げます。
「フローラ…………すまなかった。……このような、一時の気の昂りで君を、君の身体を傷つけるようなことをしてしまった……」
言葉が続かず、彼は私から身体を離します。
「書斎で少し頭を冷やしてくる。フローラ、君は先に寝ていなさい。明日は早いのだろ」
そう言って旦那様は書斎へと入っていってしまいました。
私は、乱れた夜着を直し、旦那様の言葉通りベッドに入って眠りにつきました。
◇
昏い……昏い、先の見えない闇の中に、ポツリ――と旦那様が立っています。
彼は、瞳にとても優しい光を浮かべて私を見つめていました。
「旦那様」
闇から受ける心細さに、私はそう声を掛けて、彼に近付こうといたします。
ですが、どんなに歩いても彼との距離が近付きません。いいえ、却って遠くなっているような感じさえいたします。
私は、強い不安に襲われて、足早に彼に近付こうといたしました。
しかし不思議なことに、足を速めれば速めるほどに彼が遠ざかってしまいます。
「旦那様!」
そのように叫んで、私は駆け出しました。
旦那様は遠く、闇の中に紛れてしまいそうです。
不安は恐怖に変わり、私は手を差し出して彼を求めて全力で走ります。
「旦那様!!」
自分の発した叫び声によって……私は目覚めました。
……私の手は虚空へと伸ばされて、必死に何かを掴もうとしておりました。
いえ、何かではございません。掴もうとしていたのは旦那様です。
ハッ! として私は隣を見ます。
ランプの火は落とされて、鎧戸の閉じられた部屋には光がございません。
私は手探りで隣に眠っておられるはずの愛しい人……旦那様を探します。
「旦那様? ……お起きになれられたのですか?」
私は人気の感じられないベッドの中でそう言うと、ベッドの横にあるチェストの上に置いたタクトを手探りで掴みます。
光の大精霊リヒタルの力を借りて光の魔法を使いますと、タクトの先端に光が集まり部屋の中を照らしました。
「旦那様?」
ベッドに旦那様はおりませんでした。
もしかして、書斎で眠ってしまわれたのでしょうか?
私は、ベッドから出て書斎へと足を向けます。
「旦那様? こちらですか?」
小さな声でそう呼びかけながら、私は書斎のドアを開けました。
旦那様がこちらで眠っておられたら、起こしてしまわないようにと静かに部屋へと入ります。
「……旦那様?」
書斎にも旦那様はおられません。
私は、目を覚ます前のあの夢を思い出して、恐怖に襲われました。
執務机の上にある呼び鈴を手にして鳴らします。いまが夜中だということさえ忘れて強く。
その後、すぐにやって来たメアリーに事情を話して、使用人総出で館中――敷地内全てを探しましたが、ついに旦那様を見つけることはできませんでした。
その日旦那様は、忽然と姿を消してしまったのです。
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