第95話 モブ令嬢の腿枕
「旦那様、こちらへ」
私は旦那様の頭を、自分の腿の上へと誘います。
旦那様は神殿での出来事で、それまで張っていた気持ちが切れてしまったのでしょう。馬車の中で、二人きりになった途端グッタリとしてしまいました。
馬車の車輪が石畳の凹凸を拾ってガタガタと揺れる中、旦那様は身体を横にして私の腿の上へと頭を乗せます。
このような時、いつもですと旦那様も私も、僅かばかり心恥ずかしい思いが浮かんで、妙な間が出来てしまうのですが、今は互いにそのような余裕もございませんでした。
椅子に掛けた状態から、少し背もたれに身体を預けるようにして横になりましたので、旦那様のお顔は正面斜め上を向いていております。
私からお顔が見える状態ですが、旦那様は熱を持った頭を冷やそうとしているのか、ご自身の腕を額の辺りに置いております。そのせいで、目元が隠れてしまい表情ははっきりとは確認できません。
ですが私には、彼が涙していると分かりました。
「記憶に無い間の事とはいえ……取り返しのつかないことになっていなくて良かった……」
……安堵して気が緩んだのですね。
「……旦那様。ご苦労様でした」
私は、彼の髪を優しく撫でます。
旦那様がこのようにご自分の弱い姿を晒してくださるのは私の前だけです。メアリーなどには覗かれている気もいたしますが、アンドルクの方々にご自身の秘密は晒しても、私にしかその心の底を晒しはしないのです。
私は――女として、妻として、これ以上の幸せを知りません。
たとえ他人が旦那様のそれを軟弱と誹ろうと、私は断固異議を唱えます。たとえ妻であっても、自分でない人間に、己の心の底を晒す以上の勇気が何処にあるでしょうか。
「フローラ……。もしかしてだが……、俺は長くないのか?」
「……だっ、旦那様何を突然、そっ――そのような事あるわけ無いではございませんか……」
完全に虚を突かれてしまいました。
もっと淀みなく返事をしなければいけなかったのに……。
旦那様が毒を受けて目覚めてより、誰も彼に本当の容態を話しておりません。
しかし、アンドゥーラ先生とサレア様から渡された腕輪。そしてここ数日の私たちの様子と、ご自分の体調。さらに本日の白竜騎士団への移動のお話です。それに立ち合いの後のセドリック様の言葉によって、旦那様は思い至ったのかも知れません。
旦那様は額の上に置いていた腕を外して、ジッと、私と視線を合わせます。私はその視線を正面から受け止めて、微笑みます。
「旦那様のこれまでのご努力が……多くの方にご心配頂ける結果に繋がっているのです。サレア様より癒やしの術を使って頂いたとはいえ、強い毒を受けて回復したばかりなのですから。きっと、お心が弱っているのですね」
……心が、痛いです。私も心の内にあるものを、『きっと私が旦那様の寿命を取り戻します!』と、そう口に出来たら……
秘密というものが、これほどに心に重くのしかかるとは……旦那様は、私に秘密を打ち明けるまで、これほどの葛藤を心の内に抱えておられたのですね。
しかし、旦那様のご寿命が掛かっている以上、たとえ彼であっても、私は口が裂けてもそのことを話すわけには参りません。
「………………」
私は微笑みを崩さないように……アンドゥーラ先生に看破された心の内も覗かせないように、細心の注意を払って、旦那様を見つめます。
「…………そうか。そうだよな、疲れやすいのだって、毒受けて二日以上も寝込んでれば、却って『何でそれでもうこんなに動いてんだよ!』て、レベルだもんな。……それにしても、俺……ギャグシーン担当キャラで良かった! 記憶にも無いゲーム期間外の話だったから、本当に何をやらかしていたかと、生きた心地がしなかったよ」
旦那様が、安心した様子になり口数が多くなりました。
ですがそれは、私を気遣って、わざとそうしておられるような気がしてなりません。
旦那様を救う機会をくださるというあの方を、私は罰当たりにも恨んでしまいそうです。
ですが私は笑います。
「そうですね旦那様。私も初めて旦那様がそのような役目を負わされていたことに感謝してしまいました」
私は旦那様に会わせるように言い。クスクスと笑って見せます。
「うわぁ、フローラにそう言われると、思った以上にダメージがデカい」
旦那様がおどけた感じでそう仰いました。
しかし……私が抱えてしまった秘密によって、旦那様が新たな秘密を、その心の内に抱えてしまったような気がして、私は涙してしまいそうになります。
己の寿命が長くはないのでは無いか? おそらく、そう気付いてしまった旦那様は、この会話のせいできっと、この先そのことを口にはなされないでしょう。
「館までのしばしの間ですが、お休みください旦那様。あれだけ動き回ったのです、お疲れでしょう?」
「そうだね……フローラの言葉に甘えるよ。君の膝――いや腿枕は本当に心地良いからね」
旦那様は優しく笑って目を閉じました。
……愛おしい旦那様のそのお顔を目にして、私は思います。
私への試練はいつ訪れるのでしょうか。それまでに万全の準備をしなければ……心新たに、私はそう決意いたしました。
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