第86話 モブ令嬢の願い事(後)
少々話は前後いたしますが、
アルメリアは元々騎士就学生として専攻が決まっておりますので、昼後からは軍務部の修練場に向かいました。
マリーズは専攻を魔導学部にしておりましたが、最終的に魔法薬製造と魔具作製の授業以外は、神殿にてサレア様より癒やしの術を学ぶこととなったようです。
そのような話を、昨晩、サレア様とアンドゥーラ先生としておりました。
何でも、サレア様の癒やしの術の教示を、学園でのアンドゥーラ先生の魔法の教示と同等の学位として認められるように、ファーラム学園長に掛け合うとアンドゥーラ先生が仰っておりました。
ちなみにリュートさんですが、彼は専攻を農牧学部という学園では、魔導学部と同じように人気の無い学部を選んでおりました。この学部は、最新の農業、牧畜の技術を学び、また、より効率の良い農法、牧畜方法を見いだすための研究を行っている学部です。
これには旦那様も驚いておりましたが、『らしいといえばらしいか……』と、最終的には納得しておりました。
口さがない言い方をなさる方々からは、外れ学部などとも呼ばれております。それは、専攻学部の実習場が学園から少々離れた場所にあることも一因です。
ですが、この学部で学ぶ学生には、各地の領主から奨学金が出されるという数少ない学部でもあります。
農業や牧畜の生産性を上げるということが、どれほどの恩恵であるのか、それを理解しているのは、やはりその土地を治めておられる領主であるということでしょう。
周囲の期待をよそに、リュートさんは学園卒業後、バーンブラン辺境伯領の郷里、ブラダナ様のお住まいになる土地へと戻って、そちらの農業や牧畜業を盛り立てて行きたいと考えておられるようです。
これは余談であるかも知れませんが、彼は授業の終了後や休日には、学園でできたという友人と、冒険者組合より依頼を受けて、王都近郊に現れる害獣の駆除をしたりなさっておられるようです。
時折、我が家の食卓に上がる肉類の中に、彼が狩ってきた獲物が含まれているそうです。その食材はトナムが買い上げているとアルドラが言っておりました。
ちなみに、学園でできたという友人について旦那様が、『多分、データ君だと思うよ。学園の女性全ての、身体的特徴を含めた基本情報を知っていて、リュート君の恋愛の
最後の辺りが何やら危険な表情をしておられたので、私、そのときの事を思い出すと少々心配になってしまいます。
学園で魔導学部の専攻授業を終えた私は、個室へと戻られたアンドゥーラ先生の後を追いました。
私が個室へと入りますと、先生は既に執務机の上に広げたままの作りかけの魔具に手を掛けて、左目の眼窩に嵌めた
私が先生の側まで行きますと、先生は、魔具から視線を離さないまま口を開きます。
「フローラ、昨夜は突然のことで悪かったね。あの腕輪は少しでも早く渡した方が良いと思ったのでね。……まあ、余計な輩を連れて行ってしまったのは、君たちが余りにも早く館へ戻ってしまったからなのだからね。しかしまさかライオットまでやって来ようとは……」
「先生は本当にライオット卿と、相性がお悪いのですね」
私が、はーっ、と息を吐いてそのように言いますと、先生は魔具から視線を外して、私にムッスリとした顔を向けました。
「あんな輩と、相性が良くてたまるか! いつもヘラヘラとして、あの男が第二王子だと知ったとき、私がどれだけ悲嘆に暮れたか分かるかね。仕える主筋にあの男がいるのだぞ、実権が無いようなものだとはいっても、どのようにこの国が掻き回されるか分かったものではない。……あの後どれほど恐ろしかったことか。何しろあの時の私はまだ一六才の小娘に過ぎなかったのだからね。……先日、君たちからあの男が捜査局長などになっていると聞いた時、私がどれほど絶望したかなど分かるまい。まあ、何の酔狂かあのあざとい男が、真面目に捜査局で仕事をしているらしいと知って、私は胸をなで下ろしているよ……まあ、なで下ろすと引っかかるのだがね、私の胸は」
ムッスリと怒りながら話しておられると思いましたら、最後にはいつものようにふざけたような物言いをして、ハッハッハッと、笑います。
少し呆れてしまいましたが、私は本日先生を訪ねた本題を思い出し、居住まいを正して切り出します。
「アンドゥーラ先生……実は、本日は大切なお願いがあって参りました」
私がそのように申し上げますと、アンドゥーラ先生は軽く右眼を見開きます。
先生は私の態度に何か感じ取ったのでしょう、執務机で背筋を伸ばして私に向き直りました。
「……その願いとは何かな? フローラ・オーディエント・エヴィデンシア」
私は先生の薄紫色の瞳をまっすぐに見つめます。
「旦那様を救出する折りにお貸し頂いた先生の
先生の瞳の奥に僅かに銀光が瞬きました。
「ほう……、君のその態度を見るに、あの時のように一時だけ、という事ではなさそうだね」
「はい、できれば在学中お貸し頂きたいと考えております」
「フム……まあ、以前貸したときにも話したように、私の元に在る経緯があるからね。余人であれば断るところだが……、フローラ、君であれば構わないよ。まあ他人の手に渡らないという確約はしてもらうがね」
「ありがとうございます先生」
……とりあえず、ひとつの願いは聞き入れて頂きました。問題はここからです。私は心の内で息を呑みます。
このお願いを口にしたら、私は先生に軽蔑されてしまうかも知れません。……ですが、旦那様のために――私はその軽蔑をも受け入れなければ。
「……実は、今ひとつお願いがございます」
「おや? 珍しいね。君が立て続けに願い事をするなんて、その態度から察するに、よほどの願いのようだが……タクト以上の願いというと、君の大切な旦那様の事かな?」
先生は少し揶揄するように表情を崩しました。
それを目にした私は……、これから言うことを聞いたら、先生のその表情がどのように変わるのか……それが心を苦しく、まるで心臓を誰かに握られてでもいるような、そんな重苦しさに胸が詰まります。
「まあ、関係あるとも申せますが……その、私に魔術戦闘の指導をお願いしたいのです」
私は意識して淡々と、感情を面に表さないように言い放ちました。
それを聞いた先生が、左の眼窩に嵌めた
「魔術戦闘!? ……また、突拍子もない事を言い出したね。これまで、破壊を伴う魔法の習得を避けていたようなふしすらある君が? ……流石に、理由を聞く権利があると思うのだが?」
私はことさら平静さを崩さず、先生の瞳を見つめます。
しかし……内心では、心に氷の刃を突き立てられたような、冷たい痛みに襲われて、身悶えてしまいそうです。
「……この先、旦那様が
「…………意外だね。グラードルと結婚する前の君であれば、爵位を返上しても、その後普通に生活していければ良いと、学園で私の助手になる道を選んでいたと思うのだがね」
先生が目を細めて、私の細かな表情を見逃さないように凝視なさっているのが分かります。
私は、あえて冷徹に見えるように微笑みを浮かべます。レンブラント伯爵のあの笑みを真似ているつもりですが、巧くいっているでしょうか?
「先生……あの時と今では状況が違います。あの時はバレンシオ伯爵がおり、我が家は社交界から阻害されておりました。しかし、バレンシオ伯爵を排して、エヴィデンシア家は健在である事を、王家の茶会の席で示す事も叶いました。この私の髪と瞳の色があったとしても、今ならば……私の夫として我が家に入り、エヴィデンシア伯爵の爵位を手にしようという方が、新たに現れるでしょう。……私としましては、私の価値を少しでも高めるために……力を尽くしたいと考えております」
そのように冷徹な微笑みを浮かべて話す私を見る内に、先生は、初めて見る人間を目の当たりにしているように表情を消してしまわれました。
私の心に刺さった氷の刃が、グイッと押し込まれでもしたように、身体の芯に冷たい痛みが走ります。
「ほう……、まさか、君からそのように貴族の令嬢らしい言葉が聞けるとは――思ってもみなかった。……グラードルが……夫の命が、いつ尽きるか分からぬ今、君はその先を考えているわけだね。……私は君を貴族らしからぬ娘だと思っていたのだが……」
私は冷徹な微笑みをさらに強めて先生に口を開きます。
私を
「先生……私は、オルトラント王国建国から続く、数少ない譜代の伯爵家の娘ですよ……」
心が――寒いです……夏に向かう季節だというのに。私の心は今にも凍えてしまいそうです。
旦那様の為であっても、私の旦那様への愛を否定するような――このように心にもない言葉を吐かなければならない状況を、私は呪ってしまいそうです。
私に試練を課すと仰ったあの方は、旦那様を救う術を与えてくれる方だというのに、恨み言を言いたくなってしまいます。
ですが、あの方が私の想像通りのお方であったのならば、課される試練を乗り越える為に、私は戦う術を得なければならないのです。
試練は何時始まるか分かりません。ほんの少しでも早く、私は戦うための力を手にしなければ……。
「なるほどね…………ならば、魔術戦闘の指導をするにあたって、私からはひとつ、条件がある……」
先生は、私という人間を見極めたとでもいうように一度目をつむって息を吐きました。
その言葉は、いつもの少しふざけたところのあるものと違って、少し冷たくすら感じられます。
私は、次に先生が目を開いたとき、その視線を受け止める勇気が持てず、床へと視線を落としてしまいました。
「……
先生は、ことさら貴族の人らしからぬ冷たい部分を嫌っておられます。私と旦那様の婚姻が決まったときも、『もし君が嫌ならば、家を出て私の所に来ても良いのだよ。そうすれば私の館も片付くし両得ではないか』と、冗談めかして言ってくださいました。
そんな先生です。『授業と教示の時以外、自分の前に顔を出すな』と、そのように言われたとしても仕方が無いかも知れません。
「そうだね…………これより君は、私の弟子になりなさい」
「………………えッ!?」
先生の言葉は私の想像外のモノでした。
驚いた私が視線を上げると、先生は悪戯が成功したことに満足でもしているように、どこかニヤニヤとして私を見ております。
「私の弟子になれば、タクトを譲り渡したとしても王家からの文句もかわせるしね。それに、まあ、これは君が本気かどうかは知らないが、軍務部へ出仕したいならば有利に働くだろう」
先生は椅子から立ち上がって私の前までやってまいります。
「……先生? あの……」
私が戸惑っておりますと、アンドゥーラ先生は私の両方の肩に手を掛けて、少し腰をかがめて私に顔を近づけました。
「フローラ……。君は私を見くびっているのかい? そのように全身から辛くて辛くて居られないと、今にも泣き出す幼子のような雰囲気を醸しているのに……そのような君の様子に、私が気付かないとでも思っているのかい?」
先生の、私を叱るように言い放たれた言葉は、とても暖かくて……凍えていた私の心を温めてくださいます。
先生……私、精一杯、演技していたのですよ……。
「先生! わッ、私は……」
私は、急速に瞼の縁に湧きだして来た涙を拭うこともできず、先生になんと言ったら良いのかと考えます。
もちろん、あの方との約束を違えるわけにはまいりませんので……どのように説明したらいいのでしょうか。私は、自分が思いついた、貴族として最もそれらしい言い訳を先生に見破られてしまって、嬉しさと同時に激しく困惑してしまいました。
そんな私を、先生は軽く手首だけを払うように振って止めます。
「ああ、いいよいいよ。君がそのような言い方を私にしたということは、そうせねばならない訳があるのだろう? まったく。……私はね、君たち夫婦の熱々さで周りが煮え立ってしまいそうな様子をこの目にしているのだ。だから、下手な言い訳をこれ以上聞いても仕方がないだろう?」
そう言いますと、先生は腰に手を当てて、少し気恥ずかしそうな表情になってそっぽを向きます。
「それにね、君を弟子にというのは、本当は君と出会った時から考えていたのだ……」
先生は、鼻の頭を軽く掻いてから、表情を改めて、また私に向き直りました。
「……だがね、私にもバレンシオ伯爵は恐ろしい相手であったのだよ。――こんな私にも家族というものがあるからね。私が狙われる分には対処のしようもあるが、私が家族を常時守るわけにはいかないからね」
「まさか……、バレンシオ伯爵は先生にも何かなさっていたのですか!?」
これまで、そのようなことはおくびにも出さなかった先生の告白に、私は驚きの声を上げてしまいました。
「君を学部に受け入れたときに嫌みを言われたよ。まあ後は、その直後に館に賊が入ったな……。君に深入りするなという警告であったのだろう。まあ、あの館に入った賊は散々な目に遭わせてやったがね」
先生が人の悪い笑みを浮かべて、クックックと笑いました。――先生、それではどちらが悪人か分かりません。
それにしましても、「そのようなことが……まさか!? 先生が学園の個室からほとんど館に帰らなかったのは……」、私はそのように思い至って、申し訳ない気持ちがわき上がります。
「まあ学園は、部屋の出入り口に魔術的な仕掛けがなされているから、悪さをする輩が簡単に入ってくることはできないようになっているしね。だが、勘違いしてはいけないよ。ここが居心地が良いのは確かだからね。いくら散らかしても、いつの間にか片付いているしね」
先生は私に向かって、右目をパチリと
あの、それは私が片付けているのですが…………まったく、先生は……。
「まあ、そんなわけだから。君は魔術戦闘が学べて、私は君を弟子にするという念願が叶って、全て丸く収まるわけだ」
アンドゥーラ先生はそう仰って暖かい微笑みを私に注いでくださいました。
先ほどまで凍り付きかけていた私の心は、先生の、まるで春のように暖かいお心によってすっかり溶けだして、春に芽吹く草花や、活動を始める動物や虫たちのように、浮き立つような心持ちになります。
「うわっ、なッ、なんだいフローラ!? 藪から棒に……」
私は、浮き立った心持ちのままに、先生の胸へと飛び込んでしまいました。
「先生――大好きです!」
私は、人目を憚らずに声を上げて泣き始めてしまいました。次から次へと込み上げてくるそれは、嬉しさと安心とがない交ぜになった不思議な涙です。
この場には先生しかおられないとしても、貴族の淑女としてはしたない行為です。
ですが……旦那様が毒に倒れた翌日、私は目を覚ましてから本当の意味で心が晴れた心持ちがいたします。
旦那様にも話すことの叶わない、私が抱えた秘密。
私には、外面ではなく私の内面を
「ほら、ほら、子供じゃないんだから泣かない泣かない。まったく君は、いつもは本当に十五歳かね? と、疑いたくなるほどしっかりしているのに……私は魔導学部の教諭であって幼子の面倒を見る子守ではないのだからね」
そのように仰りながらも、先生はどこか母性を感じさせる包容力で私を包み込んでくださいました。
「しかし、あれだね……これだけ弟子に慕われるというのは、私の人徳というものだろうね。これは師に自慢してやらねば」
私の背中を優しくあやしてくれながら、先生は、ニシシッと人が悪そうに笑っておられます。
そのような戯れ言を仰らなければ、私、先生を素直に尊敬できるのですけれど……。
私はしばしの間、先生の神秘が詰まっているという胸の谷間に顔を埋めて泣き続けるのでした。
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