第67話 モブ令嬢と浴室事変
セバスやメアリーたちが書斎を辞して後、旦那様は襲撃者撃退時に被っていた土埃を払うために浴室へと向かいました。
本館には一階と二階に浴室がございます。二階の浴室は最近の流行だそうなのですが、旦那様はこの館の建築に関する記憶を失っております。ですので、落馬の怪我の静養中にお義父様や関係者との話の中で聞きかじった結果。私と結婚することを了承する条件として、最新の建築様式の館を建てることを
一階の浴槽は十数
地下のあの部屋の存在を知る前までは、魔術技師はこの揚水機を設置するために訪れていたのだと思っておりました。
居室で一人になった私は、ポツンとベッドの端に座り込んでしまいました。隣に旦那様が居ないと、とても物寂しく感じられます。
蝋燭の僅かに揺れる光に照らされている薄暗い部屋の中、キラリと反射する光に気を取られて、そちらに視線を向けます。
光を反射していたのは、書斎へと続くドアのある壁。その中央に設置された暖炉の上に飾られている剣でした。
それを見た瞬間、ブルッ――と、身体が震えます。
あのとき、私が刺されそうになった瞬間……あの狂気に染まったような暗い紫の瞳が脳裏に浮かびます。
身体が細かくガタガタと震えてしまい、心臓がドキドキと早鐘のように脈打ってしまいます。
私は、心を落ち着けなければと、深く呼吸いたします。……僅かに、動悸は静まってきますが、身体の震えは治まりません。
あの男に襲われたときの記憶が頭の中で渦巻いて、恐ろしくて心細くてなりません。
私は懸命に、自分が最も頼もしいと思える存在、旦那様を思い浮かべます。
私を守るように、毒念に立ちはだかる旦那様の逞しい背中を、頭にハッキリと思い浮かべます。すると震えが治まってゆきました。しかし、恐ろしさも心細さも癒えきれません。私は……ベッドから立ち上がると、旦那様を求めて浴室へと歩き出しています。
浴室の前室へと入りますと、浴室では旦那様がシャワーを浴びているのでしょう、細かな水滴がタイルを打つ音が聞こえます。……私は意を決して衣服を脱ぎ捨てました。
はしたないとは思いますが、旦那様と一緒に居ればこの恐ろしさも心細さも、きっと消えさると思うのです。それに私たちは夫婦なのですから、このくらい……そう自分を納得させて浴室のドアに手を掛けます。
すると、ゴッ!! と、壁を殴りつけでもしたような音が浴室内から響きました。
私がビクリとすると、浴室からは旦那様の声が響きます。
『何で! 何であの時油断した! 奴らの人数を確認していたのに……フローラをあんな危険な目に遭わせて……俺は……くそッ!!』
先ほど私は、自分が襲われたときのことが頭に浮かんで怯えてしまいましたが、旦那様は私を危険な状態に晒してしまったことに、自分を責めておりました。
また、ゴッ!! という音が響きます。私は嫌な予感がして、浴室へと駆け込んでしまいました。
旦那様は、シャワーを頭から被った状態で、浴室の壁に右の拳を当てております。その壁と拳の間に赤いモノが見えました。
突然開いた浴室のドアに驚いて、旦那様がこちらに目を向けました。
「……!?」
裸で立つ私を見て、旦那様が目を見開きます。
壁に当てられていた拳が離れて、その拳が血に濡れているのが確認できました。
旦那様も……そのようにご自分を痛めつけてしまうほどに、あの事が心の傷になってしまっていたのですね。
「……えッ!? フッ、フローラ!! なっ、なっ、なっ、なっ………………何で!?」
旦那様は私を……固まってしまったように凝視いたします。あまりの驚きに直前までの自責の念も吹き飛んでしまったご様子です。
私は、旦那様に近付いて、血に濡れた旦那様の拳を手に取ります。滲み出る拳の血をなんとかしなければと周りを見回しましたが、血を拭えるようなタオルなどが見当たりません。
ペロリ……と、私は滲み出てくる血を、自分の舌で舐めて拭いました。
「旦那様……このようなこと、自分を痛めつけるような事は止めてください。私はこうして無事だったのですから」
私はそう言って、両の手を広げてこの身の無事を示します。
……ですが、旦那様の様子が何か? お顔が真っ赤になっております。のぼせてしまったのでしょうか?
「旦那様?」
私がそう言った瞬間。
「…………ブハッ!!」
旦那様が、鼻から血を吹き出しました。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――旦那様!!」
ああああああっ、何故このような事に!?
旦那様が後ろへと倒れ込んで、鼻を摘まみます。そして、くぐもったようなお声でボソリと呟きました。
「『フローラ……純真凶器』」
旦那様がグッタリとしてしまいます。
衝撃の事態に、私は浴室に来たときに抱えていた恐れや心細さなど、跡形もなく吹き飛んでしまいました。
「旦那様! お気を確かに!」
私はオロオロと浴室のタイルの上に座り込み、旦那様の頭を自分の太ももの上に抱き上げます。
「フハッ…………フローラ、それ逆効果……」
旦那様の鼻からさらにドクドクと血が流れてできてしまいます。
「ああああああっ――どうしたら……」
私がどうにもしようがなく、あわあわしてしまっておりましたら。
浴室のドアが開き、メアリーが駆け込んできました。
「奥様! いったいどうなされ…………」
そこまで言ったところで、彼女は私と旦那様が一緒であること、そして旦那様の鼻血を目にしますと、何かを納得したような雰囲気が漂います。
「……浴室で情事など、まだ早うございます。しかも何故か旦那様が破瓜しているご様子」
メアリーの薄い表情には揶揄うような笑みが浮かんでいます。
「違います!! 旦那様が鼻血を! 早くタオルを!」
「はい、それも必要ですが、とりあえずこれ以上ご主人様を刺激しないように奥様は浴室から出ましょう。ご主人様、今しばらくお待ちください、男手を呼んでまいります」
「ああ、それが正解だと思う……メアリー頼んだ……」
そのような遣り取りの後、何故か私は旦那様を浴室へと放置したまま、前室へと連れ出されてしまいました。何でしょうか……何か納得がいきません。
その後、メアリーがセバスとトニーを伴って戻り、浴室から旦那様を運び出して居室へと移動いたしました。途中メアリーが「ご主人様はなかなか立派なモノをお持ちで……奥様、健闘をお祈りします」と、言っておりましたが、いったいどういう意味でしょうか?
◇
「ごめん、フローラ。
私が何故、旦那様の後を追って浴室へ行ってしまったのか――その訳を説明しましたところ、旦那様がそう仰いました。
旦那様は今、ベッドに横になり頭にタオルを乗せています。私は、ベッドの脇に椅子を持ち寄ってそこに座っております。
鼻血は止まったようですが、まだ少し様子を見た方が良いでしょう。
「いえ、私の心の弱さ故です。かえって申し訳ございませんでした。そのせいで、旦那様がこのような……」
「いや、それは……その、醜態を晒してしまった」
旦那様が私に視線を向けます。
彼は、手を伸ばして私の頬に手を添えました。その手には包帯が巻かれています。私はその手の上に自分の手を柔らかく重ねます。
「いえ、旦那様。ですが浴室でも申しましたが、ご自分を傷つけるのはお止めください。……旦那様にもしものことがあったら私は……」
僅かに声が震えてしまいます。
「ああっ、本当にごめんフローラ。もう二度とあんな真似はしないから…………だけど、その、フローラは時々物凄く大胆になるよね」
ああああああっ、そうでした。……私、旦那様の手の怪我に動揺していたとはいえ、全裸であのような事を……。
それに、以前も同じような事をしてしまった記憶がございます……。
「ああっ、穴があったら埋まってしまいたいです」
「いやフローラ、埋まったらダメだ。穴に入るのは良いけど、埋まったら死んじゃうから」
旦那様がそう冗談めかして言います。
少しの間、ゆったりとした時が流れます。
「ところで……今日のあの襲撃だけど、バレンシオ伯爵は、自身が仕掛けた様々な謀略を、エヴィデンシア家がいまだに気付いていないと考えているんだろうね。今回の襲撃だって、裏を知らなければ、兄上が嫉妬心で逆上して、俺を殺そうとしたとしか思えないだろうし。実行犯が捕まってもそのようにとぼけることが可能だ。今回の件は、潜んでいた配下が勝手に動いたのだろうけど、そのように動くことを止めていなかったことが何よりの証拠だと思うんだ」
そこまで言ったとき、旦那様が何かを思い出したような表情をいたしました。
「そうだ、そういえば……フローラ。君は兄上の頬を張ったとき、兄上の様子を見ていたかい?」
「いいえ、あの時は私、涙に目が霞んでしまっておりました。そういえばあの時、旦那様は何かに驚いていたご様子でしたが、旦那様は何かを目になされたのですか?」
「…………うむ」
旦那様は、どう言ったものかというような感じで、少し考えて口を開きました。
「実は、暗かったから断言はできないんだが、フローラが兄上の頬を張った後、兄上の身体から黒い靄のようなモノが抜け出て、空へと散っていったように見えた。だけど、周りにいた人たちには誰もそれが見えていなかったようなんだ……あれは、一体何だったんだろうか」
旦那様は、不思議そうな表情を浮かべて考え込んでしまいました。
しかし今日は、なんと様々な事件の起こった一日でしょう。馬車の貸し出しをお願いしにルブレン家に訪れて、お義父様と心をかよわすことが叶いました。それは嬉しい出来事でしたが、その帰り道にバレンシオ伯爵の手の者と思われる者たちに襲撃されました。しかもその中には、猜疑心を煽られた
館に帰ってからも、フルマとチーシャの謝罪に始まり、旦那様がセバスとメアリーたちにご自身の秘密を晒しました。そして……その、浴室にての騒動です。
そのようなことを考えておりましたら、いつの間にか旦那様は眠ってしまっておりました。
私は今一度、桶に汲んだ水にタオルを浸け、絞ってから旦那様の額へと乗せます。
そして私も、旦那様の隣に並ぶようにしてベッドへと入り、静かに眠りにつきました。
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