第14話 モブ令嬢と旦那様の帰り道(前)

 今日は、いったいなんという一日でしょう、午前中は使用人を雇い入れるためにアンドルクのセバスとメアリーと会い。

 馬車の移動ではございましたが、三重城壁の最も外側にある商業区から、城門付近の中央行政区まで城壁内を縦断いたしました。

 昼を過ぎてまして、法務部行政館では、ディクシア法務卿のお手を煩わせてしまうこととなりましたが、婚姻と継爵の届け出を受理していただきました。その後旦那様は、寄宿舎の件で法務卿と共に学園の理事長室へと向かわれました。


 私は、専攻学部の教諭、アンドゥーラ先生と、友人のアルメリアに、このまま学園に通うことができるとの報告をしました。少々トラブルはございましたが、あの様子ですと大きな問題にはならないでしょう。

 また、二人に寄宿舎の話もできました。

 しかも、先生が知り合いから頼まれたという方と、アルメリアが寄宿舎の住人になるかもしれません。

 そのあたりの話を、後で旦那様としなければなりませんね。

 今日はいろいろなことがありすぎて少々疲れてまいりました。

 それに私、先ほどの件もあり少々心がたかぶったままかもしれません。


 そんなことを考えながら、私は学舎の階段を下り一階へと進みます。

 授業の時間はもう終わっておりますので、一階を歩いている人はほとんどおりません。

 学舎に残っているのは、専攻の教諭に質問があるような学生くらいでしょう。


 私は旦那様と待ち合わせをしている高学舎の入り口に向かって歩いて行きます。

 入り口付近は、夕も近くなり沈み行く太陽の光が差し込んでいて、こちらからですと逆光になっています。

 そこに人影が立っているのが見えました。

 あれは……旦那様です。

 私は旦那様に向かって早足で近づこうとしますが――不意にその足が止まってしまいました。


 ……それは、突然頭の中に――先生が言っていた旦那様の昔の悪行、それに以前アルメリアに聞いていた旦那様の噂話が渦巻いてきたからです。


 旦那様のお顔は逆光のせいで黒く塗りつぶされております。

 私が旦那様に近づいて……そこに現れた彼の表情が、彼女たちの話から始めに想像していた、グラードル・アンデ・ルブレンの顔かもしれないとの思いがよぎったら……足がすくんでしまったのです。


 婚姻の儀の前、あのときの私でしたら、これまで代々続いてきた爵位を守るためだと、心を殺して受け入れることもできました。

 ですがいま、旦那様の優しさを知り、それを受け入れ、幸せを感じている私が……もしも、あの想像通りの男が目の前に現われたとして、耐えられるでしょうか……もしそうなったなら、私の心は砕け、永遠にこの世界から消え去ってしまうかもしれません。


「フローラ?」


 突然立ち止まった私を訝しく思ったのでしょう。旦那様が私の名を呼びます。

 ビクリッと、身体が動きます。


「どうした、フローラ。……もしかして疲れたのかい?」


 そう言いながら、旦那様が私の元へと歩いてきます。

 一歩、一歩――進んでくる旦那様から、少しでも離れようとでもするように、私の身体が後じさろうとします。私は心の中に突如渦巻いた不安をなんとか握りつぶして、その場で旦那様を待ちました。

 旦那様の顔が逆光になる場所から外れ、そのお顔が見えました。

 ……旦那様の優しい光を放つ瞳と視線が合います。

 彼がふわりと、いたわるような笑みを浮かべました。


 その瞬間――私は、はしたなくも旦那様に駆け寄ると、その厚い胸板に外聞もなく抱きついて、泣き出してしまいました。


「フッ、フローラ!? どっ、どうしたんだ?! いったい……」


 旦那様は突然自分の胸の中で泣き始めてしまった私を、どうしたら良いのか分からないように、オロオロとしています。


「だっ、旦那様……申し訳ございません。私――少々、情緒不安定になっているかもしれません」


 旦那様の胸の中で泣きながらも、なんとかそれだけは言うことができました。


「仕方がない。今日はいろいろありすぎた」


 旦那様は片方の腕で私をしっかりと抱き寄せると、もう片方の大きな手で私の頭をいたわるように優しく、ぽんぽんとあやしてくださいました。


 いまの私は、本当に情緒不安定ですね。

 自分で勝手に怯えて、勝手に安心して旦那様の胸の中で泣いているのですから。


 でも旦那様はそんな私に何を言うわけでもなく、落ち着くまでその体勢のまま待っていてくださいました。





 なんとか落ち着いた私と旦那様はいま、学園から屋敷への道を歩いております。

 旦那様が私を心配して馬車の手配をしようとしましたが、泣きはらしてしまった顔のまま屋敷に帰っては、お父様お母様を心配させてしまいます。

 旦那様をそう説得しました結果が、この状況となっております。

 私は、なんとも旦那様と離れがたく、未だに旦那様の袖口を掴んだままです。


「その、旦那様……先ほどは失礼いたしました。私……」


「まあ、そんなこともあるさ。俺だって今日は目が回りそうだったしな」


 そう言うと、明後日の方向に顔を向けて、お顔の傷痕を掻きます。

 そして、いつものように不思議な響きの言葉のつぶやきが漏れてきました。


「『なんなのウチの嫁……フローラの可愛いが止まらないんだけど!! 俺を萌え死にさせる気!? ウチの嫁、対グラードル最強の刺客じゃね!』」


 旦那様は、何故かパタパタと自分の顔を扇いでいます。まるで熱を冷まそうとでもしているようです。

 いまは土の月およそ四月。少しは暖かくなってきましたがまだそこまで暑くはないはずですが。


「ああそうだった。フローラにひとつ報告があったんだ」


「なんですか? 旦那様」


「ああ、寄宿舎の件なんだけど。学園長から提案があってね『寄宿舎』だと名前が兵士や平民が使う施設のようだから、『貴宿館きしゅくかん』にしなさいと言われたんだ。懐が厳しいとはいえ、使うのが貴族になるのだろうからそうした方が良いだろうと」


「確かに……そうですね。そのように細かいところまで気を配ってくださりますとは、さすがは大賢者ファーラム様です。齢八〇歳を越えていらっしゃるのに、未だに矍鑠かくしゃくとしておられて、頭の下がる思いです」


 ファーラム様は、ファーラム・オースティス・ブランダークが正式なお名前です。

 亡くなられた前国王オルトロス様と同じ歳で、幼少時にその明晰さを見いだされ、オルトロス様のご学友として王宮へと召し出され、それよりオルトロス様が、その王位をアンドリウス様にお譲りになるその日まで傍らに控え、王の執政を支えたのです。


 アンドリウス様の代になり、古き者が新しき者たちの道を塞いではいけないと、王宮を退きました。

 その後、ご自身が提案したファーラム学園の学園長として、王国を支える後進の育成に力を注いでいるのです。


 そんな話をしておりますと、少し離れた場所からキンキンとした金切り声が響いてきました。この声には聞き覚えがございます。それも、少しばかり前……。


「なんなんですの! 私たちは二ヶ月も前から予約してあったのですよ!」


「そうですわ、そうですわ! いきなり今日になってお店をたたみましたなんて、理不尽ではございませんか!」


「いッ、いや、お嬢様方落ち着いてください。……私にそう言われましても。私だって今日の昼になって突然店を閉めるから賃貸の契約を解除してほしいと言われたのですから」


 貴族御用達の高級店が並ぶ店舗の前で、ふくふくとした初老の男性が、メイベル嬢たちの猛抗議をうけてオロオロとしております。

 彼女たち以外にも、予約をしていた客様もいるようですが、メイベル嬢たちの勢いに、皆少し引いた感じで周りを囲んでおります。


「なんてことですの! 中央大陸美食協会から三つ星をいただくほどの名店『メルゾン・カーレム』が、予約を受けた客がいるにもかかわらず、何の説明もなく姿を消すなんて。責任者はどうしているのですか!!」


「私も話を聞いたあと、急いでやって来たのですが、いや、これは、まったくもう、建物の中からは椅子やテーブル、厨房の機材に至るまですべて片付けられておりました」


「なんですの――なんなんですのそれは!」


 メイベル嬢は、悔しそうに手に持っていた手巾の端を嚙んで、怒りを押さえようとしています。


「ああ――ただ……、そういえば店の中に……」


 初老の男性が店の奥に入って行き、少ししてから出てきました。


「店内にこんなものが置いてございました。ひい、ふう、みい、皆様の分ございますね」


 男性の手にあったのは、両の手で持たなければならないくらいの見事な装飾がなされた箱です。

 その箱を見た途端、メイベル様を含む周りを囲んだ予約客から歓喜の声が上がりました。


「まあ――これは! 『メルゾン・カーレム』のプティ・ガトーの詰め合わせ!」


「ええ!? あの、王家御用達のプティ・ガトーの詰め合わせですか!?」


「あの予約をしても、いつ手に入るかも分からない幻の……」


「箱の上にこのようなカードが――『ご予約いただきましたお客様には失礼いたしました。お詫びの印といたしましてこちらをお収めください』と書いてありますね」


 メイベル様は、先ほどまでの怒りなど忘れてしまったように、得意気な顔になりました。


「ふっ、フン。ま……まあ良いですわ。今回だけは大目に見てさし上げましょう。本当でしたら大叔父様に言いつけて、地の果てまで追いかけて後悔させてやるところですけど」


「メイベル様、これは急いで帰って家族に自慢いたしませんと」


「あ、あのメイベル様……私たちにも、その、いただけるのですよね」


「あら、こちらの料金は私が払う予定だったのです。これまでも私が払っていましたから私が」


 と、彼女が話しているうちに、取り巻きの令嬢たちの表情は、それは沈痛としたものになりました。

 メイベル嬢は、彼女たちのその表情を満足そうに見回して続けます。


「……と言いたいところですが――ふふん、そうですわね。あなたたちがこれからも私の役にたってくださると約束してくださ……」


「「「もちろんですわ!」」」


 取り巻きのご令嬢たちの返事は、メイベル嬢の言葉が言い終わるのを待てないほどに力がこもっておりました。

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