イミテーションズブルー
霜月ミツカ
1
こんなに近くにいるのにわたしたちはとても遠い。その感傷に浸るのがとても好きだ。
小学生から高校生になったいままで、わたしたちは一緒に居すぎなかった。クラスで一番陽のあたるところにいるあすかと、一番陽のあたらないところにいるわたしでは不釣り合いなのは承知していて、わたしたちが付き合っていることを誰かに明かしたことはない。ふたりだけの秘密。
あすかがほかのひとに笑いかけているのを見ると胸が苦しくなる。その針が刺さったような痛みがいつも嬉しい。でも最近は、むかしみたいにあすかのことを男扱いするひとはいなくなった。
変わらないでと願う。だけどあすかは年々、わたしがびっくりするほど美しい女性になっていっている。
クローゼットを開いてイーゼルを取り出した。服なんて数枚しかないから、空洞になっているそこは、半分物置状態だ。だから、イーゼルとキャンバスをしまうにはちょうどいい。
しばらく美術部には行っていない。長いスランプに陥り、六月の文化祭では適当に描いた静物画のデッサンを一枚提出したっきり。美術部には幽霊部員がたくさんいるから展示を出しただけわたしはまだましなほう。絵を描くのが嫌になったわけじゃないし、部員のひとと揉めるなんてことはなかった。わたしはむかしから、あすか以外のひとと薄い関わりを持ち、波風立てたくなかった。部室に行っても何も描けないのには別の理由があった。
五時に家に帰ってきて、イーゼルにキャンパスを立て、その前に座り、一時間くらい眺める。わたしが線や色で絵としておさめたあすかは確かに似ているはずなんだけど、決してあすかではないものだった。どこをどう直せばいいのかわからない。結局これも処分するしかないのかもしれない。クローゼットの左側のスペースには既に四枚の没作品が、捨てられず安置してある。覚悟を決めてそのキャンバスも処分所に放り込み、しばらくベッドに寝転んだ。母に呼ばれ夕飯を食べ、八時を過ぎて自室に戻るとあすかから着信があった。窓を開けると普段通り、あすかが立っていた。
「おう」
夜風で少しだけあすかの短い髪が逆立つ。
「いま帰り?」
「うん」
「ごはんは?」
「美姫とかと駅前のマックで食べた」
もうこれ以上刺さる部分なんてないのに、また小さい針が心臓めがけて飛んでくる。
「そっか。部屋入る?」
「きょうはいいよ。顔見たかっただけから」
あすかが笑ってじゃあ、と手をあげる。わたしは小さく手を振ることしかできなかった。あすかが見えなくなるまで窓から顔を出して見ていた。深呼吸すると少し冷たい空気の中、喜びの感情がキラキラとした粉になって混ざってくる。一度もあすかにはあすかの絵を描いていることを見せたこともないし、話したことさえない。
わたしの通っている高校は電車で二十分、そこから歩いて十五分のところにある。駅前はそれなりに盛っているのに学校の周りは田んぼしかない。
登校時間帯は同じ学校の生徒たちが帯状になって歩いている。いろんな声の中でわたしはいつもひとりで歩いていた。
あすかは同じ街に住んでいるが一緒に学校には行かない。寝坊だからいつもわたしより来るのが遅い。
二年生のクラスは四階建ての校舎の三階にあった。学年があがるごとに階が下がるので三年生になると二階になる。いつも、わたしが教室に来る時間には誰も居ない。その時間帯は、だいたいのひとが早い時間に部活動の朝練習をしている。まだ空気に温められていない木の匂いがする机はひんやりとして気持ちがいい。寝不足というわけではないけれど、机に突っ伏すのが好きでいつもやってしまう。
しばらくそうしていると教室の中に声が増してくる。
「梓」
顔をあげると夏実が笑っていた。
「おはよう」
「おはよう。また寝てんの?」
仕方なく笑って、横目で窓辺を見た。加茂野さんと坂井さんとあすかが喋っていた。加茂野さんと坂井さんはクラスの中で飛びぬけて垢抜けていて、ふたりともモデルみたいだった。そこに男の子みたいなあすかがいるのが不思議だ。あすかもふたりと同じようにスカートを規定の丈よりも短くしているが、その下に黒いハーフパツを履いている。それは中学のときから変わらない。
夏実と宿題のこととかきのうのテレビ番組のことを話す。わたしが観ていないものを夏実が一方的に話してくれるから楽だった。じぶんであれこれ話題を探すことよりずっと、こういうひとの話をきいているほうが、からっぽのじぶんの中に何かが入ってきて、浸される感覚がしていい。話をききながら頭の中ではいつもあすかのことを考えていた。騒がしい女子二人の声と、その間に入る少し低いアルトの笑い声。
橋爪くんと沼井くんがあすかたちのところに行く。いつもその五人でつるんでいた。中学のときは女子は女子、男子は男子のグループで分かれていたはずなのにいまは男女混合グループが当たり前になっている。あすかは思っていることをほとんど話さないのでほんとうは彼らのことをどう思っているのか教えてくれない。わたしがひとつ気になっていることといえば前に沼井くんが「榎木っていいよな」とほかの男子に言っているのをきいたことがあること。それは、あすかを女の子として見ているのか、ひととして好きなのかわからないがやはり男があすかを好きだというのは、女子があすかを好きと言うよりも気持ちが悪いものがある。
あすかは男の子なのに。でももう、そう思っているのはもうわたしだけかもしれない。
担任の松澤先生が入ってきて、生徒たちは一斉にじぶんの席に戻る。窓際の一番前に座るあすかを眺める。
きょうも部活動に行かず掃除を終えたら帰るつもりだった。夏実は陸上部に所属していて毎日真面目に部活動に出ている。こんな風に毎日何も生産せず“いま”という時間をすり減らすだけでいいのか。そのことについては少し焦燥感があった。
昇降口に向っている途中でスマートフォンのバイブレーションが震えた。取り出すとあすかからのメッセージだった。わたしは家へ帰り、あすかが来るのを待った。
あすかが会いにきてくれるのは加茂野さんたちに用事があるときだった。ほかの誰かで塞がっていないときわたしは会うチャンスをもらえる。
五時半を過ぎた頃、スマートフォンにワンコールがあった。これが家をあける合図だ。階段をおりて扉を開けた。
「おう」
あすかがこんな風に手をあげて笑うだけで目の前で奇跡が起きているような錯覚に陥った。
「どうぞ」
「おう」
あすかはいつもミントのような匂いがする。鼻腔を通る度、心が浄化される。
部屋に入って、ベッドに隣同士で座る。あすかはわたしの手を握る。
「やっぱここがいちばん落ち着くなぁ」
そういってわたしの肩に頭をのせる。
ほかの女の子にもこういうことをしているのかとときどき不安になる。そう訊いて怒らせたり嫌な気持ちにさせたりしたくはなかった。
「学校、楽しい?」
「うん。楽しいよ。だけどやっぱり俺には梓がいないと」
中学二年生頃まで誰の前でもじぶんのことを「俺」と言っていたのにいまとなってはわたしの前でしか「俺」と言わなくなっていた。あすかの周りにはいつもひとがいるのに、そんな風に言われるなんて嬉しいようで、少し寂しくなる。わたしなんかで埋められる穴ならきっとほかの誰かで埋めれてしまうだろう。
あすかがわたしのうなじを指でなぞる。薄く刻まれた瞼の二重線や白くて小高い鼻や桃色の唇を見る。小学生の頃から素材は変わっていないはずなのにあすかは年々垢抜けていって、ただかっこいいだけではなく美しくなっていた。そのことにわたしも気づいていないわけではなかった。あすかのことを「女の子」としていいと言う男の子が出てきてもおかしいことではない。ショートカットで、男の子みたいな振る舞いをしているけれどあすかはやっぱり女の子なのかもしれない。このまま、あすかがどんどん女の子になってしまったらどうしよう。その不安に煽られるようになったのとほぼ同時期にわたしは絵が描けなくなってしまった。
「そんなに見るなよ」
いま、あすかはわたしのためだけに笑って、あすかの声はわたしのためだけに発されている。
体を抱き寄せられ、唇を重ねられた。キスは何度もしているのに未だに頬の筋肉が突っ張る。最初は下手くそなキスしかできなかったのに、だんだんとうまくなっていった。頭のてっぺんが痺れ、それから体が一気に熱くなって全身がお湯になる感覚。あすかはわたしの胸を触りながら徐々に押し倒していく。スカートを捲られ、あすかの指がわたしのショーツに触れる。ショーツを横から捲り、指を滑り込ませてきて、性器を撫でられる。いつものキスをしながら、あすかはわたしを弄び、昇天へ導く。こんなみっともない姿見られたくないのにわたしはあすかに触られるのが嬉しくてされるがままになってしまう。
わたしが一回絶頂に達してしまったあと、あすかはティッシュで指先を拭いて横に寝転んだ。あすかの性器を触らせてもらったことがないのでいつも気持ち良くなるのはわたしだけだ。
「あーぁ、男だったらよかった。ほんと」
笑っているあすかの顔には悲しみがいつもない。いつも混じりけのないカラッカラの顔で笑う。
あすかはわたしの胸に顔を埋めた。
「好きだよ、梓」
あすかの髪を撫でる。無駄に伸ばしていないから傷んでいない。頭の油分が均等に渡っていていつも輝いている。
あすかの好きということばは胸に溜まるのにすぐに零れ落ちてしまう。信じるという力がどうしても弱い。
「わたしも好きだよ」
嘘じゃないけど嘘くさい。わたしの胸の中で、あすかはどんな顔をしているんだろう。いつまであすかはわたしのことを好きでいてくれるんだろう。それよりもわたしがあすかをずっと好きでいられるか。このことの方が不安だった。
壁にかけてある時計が六時半をさした。そろそろ母が帰ってくるなぁと思いながら、わたしはあすかの頭を撫でるだけで何も言わなかった。このまま学校にも行かず、こうしていていたい。液状になってひとつに溶け合ってしまえたら、なんて幸せなんだろう。
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