エマ
なにがどうしてこんな女が俺のもとに嫁に来たものかと、ただ不思議に思う夜がある。
いつだったか、それが口に出ていたらしい。隣の布団で髪を解かしていた女は、少し目を丸めて「それって」と唇を小さく震わせた。ひやりとしたものが胸を撫でたのは一瞬、女はことりと首をかしげてこんなことを言う。
「今日のお夕飯のきんぴら、お砂糖とお塩を間違えたの、気付いていらしたんですか」
女は、ひどく暢気で頓珍漢だ。
「やたらと辛いと思ったらそういうことか」
「あら、やっぱり気付いていらっしゃらなかったのね。言わなきゃよかった」
「だからあれほど壺に紙でも貼っておけと言っただろう」
「手に紙と鉛筆のある時に言ってくださらないと。私、明日になれば忘れますよ」
「そんな変な自信を持つな、阿保」
呆れながら隣に目をやれば、女は楽しそうに笑っている。
「あなたが私を嫁にとったこと、後悔したことは幾度となくありましょうが、それでも私はあなたが好きですよ」
女はそう言いながら静かに俺の髪を撫でた。
「後悔や不満で凸凹になった道を、平にならして歩んでゆくのが夫婦というものでしょう」
不意に女を抱き締めてやりたくなった。抱き締めて、お前が大事だと、後悔どころかお前に不平も不満も持ったことなどないと、そう叫んでやりたくなった。けれどそれもうまくできないから、ただ、女の名前を呼んだ。
エマ。
第二次世界大戦が終戦したばかりの秋だった。エマとの見合い話が持ち上がったのは。
葛木恵麻。見合の釣書を貰ったときは、えらく珍妙な名だと思ったが、女の写真を見て得心した。女の顔だちはアジア人のそれとはおおいに違っていたためだ。
エマはアメリカとの戦争が始まる前、日本に訪れた学者のヨーロピアンの娘だった。母親はヨーロピアンが教鞭をとった女学校の出だという。
「岡本さんの息子さんじゃったらと思うてなぁ。気立ての良い、賢い娘さんなんじゃけんども、いかんせんその容姿なもんで、なかなか嫁入り先も見つからんでなぁ」
岡山の田舎からわざわざに東京までやってきた父の昔の友人は、しかめっつらの顔でそんなことを言った。
見合い写真を見た瞬間に、美しい娘だと思った。これほど美しい娘が、何故容姿を理由に嫁入りを断念せねばならぬのかと思い話を聞けば、どうも恋慕する男はいても家族の反対に合い、ことごとく破談となったのだと。
白人の娘だ。ヨーロッパとアメリカ、いくら違う国だといえども、戦争時の排他的な社会では、さぞや生きづらかったことだろう。終戦してアメリカ軍が国に入ってくるようになった今、緩やかに社会が変わってゆくのを待つしかない。
その点、父の友人が自分を相手にと選んだのは良い判断だった。
母は昔クリスチャンの女学校に通っていたことから、英語に関心が強く、人種の差別意識はまずない。父はとうに戦火に倒れていたが、そのことで闇雲にアメリカを憎むほど、理性のない女でもなかった。
そして自分はと言えば、水軍の訓練中の事故で両足が麻痺し、仕事らしい仕事も今はできる体ではなく、嫁のとりようもなかった。
うまいこと、行き先のないもの同士が当てはまるような、そんな見合いだった。だが、どこかでこんな美しい娘が自分のもとへ嫁へ来ても構わないのかと、そんな不安が強くあった。
だからだと思う。
「俺に嫁いだところで苦労をさせると思う。貴方はそれでも構わないのか」
見合い当日、開口一番そう尋ねた。聞いていた母は頭を抱え、エマの付き添いをした父の友人は慌てふためいた。しかしエマはと言えば、きょとんとした顔で、ことりと首をかしげてみせた。
「嫁入りに当たっての条件は苦労だけですか?」
忠告のつもりで発した言葉を、エマは嫁入りの条件だと捉えたらしかった。 一瞬の静寂、後、「まあそうか」「そうですねえ」と母と顔を見合わせてうなずけば、エマは大口をあけてからからと笑った。儚げな白人の容姿からはほど遠い、こちらがぱっと明るくなるような大輪の笑顔だった。
「良かった。そんなことなら私、今日にでもここへ嫁いできたいくらいだわ」
これ、生意気なと父の友人が小声で叱るが、エマはやっぱりにこにこと笑ったままだった。そんなエマを母も気に入ったらしく、それなら話は早い方がいいととんとん拍子に見合いは進み、秋の終わりにはもうエマは東京へとやってきた。
結婚式は、見合いと大差なかった。エマの父親は帰国し連絡もつかず、母は亡くなり、親戚はエマを厄介者扱いしていた。だから当日エマをつれてやってきたのはやっぱり父の友人だけだったし、こちらも母と母の姉家族、そして立会人の坊主がいるだけだった。
そうしてエマは、岡本恵麻になった。
嫁に来てわかったが、エマは少々抜けている。少しぼんやりしたところがあって、料理や裁縫の失敗はしょっちゅうだった。下手くそというわけではなく、何かと気が逸れやすいのだ。
しかしこれが彼女の不思議なところで、どうも許してしまうような愛嬌があるのである。仕方がないなぁ、と笑ってしまうような空気が、彼女の持ち味だった。
そんなわけで、今日もきんぴらを失敗したとからりと笑う女を前に、俺も怒る気がさっぱり失せてしまったわけだけれども。
「明日は胡瓜の酢の物にしましょうか」
「三杯酢の配分はわかるのか」
「帳面が見つかればわかります」
「なくしたのか」
「暇をやったんですよ」
「なくしたんだな」
「うふふ」
エマは楽しそうに笑って、おやすみなさいとぱちんと電気を消した。うふふじゃないぞお前、帳面は探せ。
ため息をつくも、明日のエマがどんな酢の物を作るのか少し面白がっている自分もいる。
エマと暮らしはじめて、毎日が淡い蜜柑色の光に包まれているようだった。
例えば女に車椅子を押されて近所へ散歩へ出ると、やれドクダミだの、やれ西洋蒲公英だの、野草に詳しい女があれやこれやと地面の隅を指差す。そちらを必死で目で追う内に、とっくにエマの注意は他所へゆき、今度はやれ紋白蝶だ、やれ七星天道だのと騒ぐ。そのどれもが今まで日常の中にあって、それでいて自分が素通りしてきたものだった。
「不思議でしょう」
紋白蝶を目で追いかけながらエマは笑う。
「こんなに小さな生き物でも、きちんと意思をもって花の方へと飛んでいくんだわ」
エマはどんな小さな虫も殺さない。平気で蚊にも噛まれるし、風呂場にカマドウマが出ようとも、平然とつまんで外へと投げる。決して命を粗末にしない。そんなエマとだから、結婚という社会に当たり前に並べ立てられた幸せの一端に触れることができた。
終戦後、仕事を足が動かなくてもできる事務に変えた。役立たずだ、役立たずだと己を追い詰めていた俺を笑い飛ばし、今まで見落としてきたものをひょいひょいと拾って投げつけてきたのはエマだ。
エマ越しに見る世界は、いつも柔らかく暖かな光の中にある。エマが世界に、無条件に優しいからだ。
そんな女にも、ふいに薄暗いものがふわりと漂うことがある。
それは雨の日の朝だったり、花火の音のする夜だったり、台所で西瓜を切る昼下がりだったりと、ちっとも一貫性はない。
ただ、女の顔から、体から、沸き立つように寂しさが溢れ、ぐるりと部屋を支配することがある。
ある春の夕暮れだった。
買い物から戻ったエマが、ろくに片づけもしないで自室へ引っ込むものだから、体調でも悪いのかと心配して後を追った。
車椅子をぎいぎい言わせながらエマにとあてがった部屋へ入れば、途端に薬特有の匂いが鼻をついた。エマが、救急箱から湿布を取り出したのだった。
「どうした」
こちらを振り向かないエマに、尋ねる。
「何をされた」
いささか乱暴に肩をつかめば、ぱっと腫れ上がった頬が目についた。
「買い物に出たら転んだだけです」
「阿保。こんな転びかたするか!」
「転んだんです」
「エマ」
「転びました」
エマは意地でも転んだと言い張ったが、原因はお隣の奥さんから聞けた。なんでも白人差別意識の強い飲んだくれに、通りすがりにぶん殴られたらしかった。
「エマちゃん、平気っていうから」
「平気なわけがあるか!」
聞いた瞬間かっと頭に血がのぼった。知らない酔っぱらいについでのごとく殴られて、平気な女がこの世のどこにいるというのか。
「どこのどいつだ」
「近所の人じゃなかったからどうにも」
「顔は?服は?どちらからきた」
「岡本さん、落ち着いて」
「俺の配偶者だ」
車椅子から反射的に立ち上がろうとした。足が動かないことを、その時怒りで全部忘れた。
「家族を傷つけられたんだ!」
しかし、当然足は動かず、怒鳴ると同時に体は前のめりに倒れた。悲鳴が上がる。無様に地に伏せる。こんちくしょう、と握りこぶしで地面を叩けば、
「納得してないと思ったんですよ、本当、仕方のない人」
そこへちょうどエマがやって来るものだから、無様なことこのうえない。
「エマちゃん、ごめんなぁ。昨日のことやっぱり岡本さんに言うたのよ」
「いいんです。きっとこの人は聞きに行くだろうと思っていたから」
エマは呆れ顔で肩をすくめると、俺の体を細い腕で車椅子へと押し上げた。そしてごめんなさいねとお隣の奥さんに一言謝り、さっさと自宅へ俺の体を運び始めた。納得していない俺はいらいらと車椅子の手すりを叩く。
「馬鹿な人」
するとそんな俺の頭上から、不満げな声がポツリと落ちた。
「阿保はお前だ」
反射的に言い返していた。しかしエマも大概反射でものをいう女である。
「いいえ、馬鹿はあなたです」
「なんだと」
「馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿」
「なっ、なっ」
「ばーか」
ぎい、ぎいと 生ぬるい春の空気を車椅子の錆びた音が切り裂いていく。夕暮れ、赤、春風。
「本当に、馬鹿だわ」
エマの声が、かすれた。
「こんなことくらいで怒ったところで仕方ないでしょう」
その言葉にかっとして、エマの方を振り向く。
「こんなことくらい、なんかじゃ!」
「こんなことくらい、ですよ」
春の空気の中、女の声だけがひどく冷えきっていた。声だけじゃない、見上げた顔もひどく白く、くしゃくしゃに歪められている。
「こんなことくらい、なんですよ」
その顔を見て、ふと、この女がこれまで生きてきた人生のことを思った。延々と傷つけられてきただろう、女のこれまでの人生を。
「慣れっこなんです、こんなこと」
諦めました、と。そんな声が聞こえたような気がした。
エマは命を粗末にしない。エマは無条件に世界に優しい。
にも関わらず人はエマの命をぞんざいに扱う。世界は無条件にエマに厳しい。
不公平だ。不条理だ。理不尽だ。馬鹿げている。
でもどんなに俺が怒ったところで、エマはやっぱりこれくらいなんてことないですよとぼんやり笑うのだ。
電気が消えた。寝室は夜の底に落ちて、失敗作のきんぴらを食べた今日が、静かに過去に押し流されてゆく。
こちらに背を向けた女の背中が、暗闇のなかでぼんやりと白い。呼吸に合わせて動く体の、その背中に静かに手を伸ばした。
そっとその背を撫でてやる。暖かい。とくんとくんと命の音がする。
エマは時折、夢を見ながら泣いている。ヨーロッパに帰ったっきり一度も会わない父を思ってか、早死にした母を思ってか。それともこれまで受けてきた差別の記憶の中にいるのか。
夢の中に何があるのかさっぱりわからないが、いつまでもいつまでも泣く夜がある。
だから今日も、あやすようにそっと女の背を叩く。
どうか。
どうか、怖い夢を見ませんように。
もう二度と怖い目に逢いませんように。
誰にも傷つけられませんように。
ひとりで夜に沈みませんように。
どうか辛いことが起きたとき、慣れたと笑わず怒りに震えてくれますように。
エマや俺の足への差別の一端に触れる度、いつも怒る俺のことを女は馬鹿だなぁと笑うけれど、俺はきっと一生怒り続けるだろう。ひとつも、仕方がないことなどないのだから。慣れて良いことなど、ひとつもないのだから。そんな言葉で自分を守らなくていけないような現実はあってはならないのだから。
だから、どうかーーどうか。
どうかエマが優しい夢を見れますように。差別や暴力に慣れてしまいませんように。淡い光の中で、柔らかく笑ってくれますように。
どうか世界がエマに優しくありますように。
女は静かな寝息をたてている。そっと背中から手を離そうとして、もうひとつおまけにぽんと叩いた。
明日の夕飯は調味料をひとつもまちがいませんように。
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