やわらかいてのひら

やわらかいてのひら


つかさの体は柔らかい。

誤解しないでほしい。柔らかいって言ったって、バレリーナや体操選手がもつような柔軟性を指しているわけではなく、文字通り、「やわらかい」のだ。


「あっ」


だから、たまにこういうことがある。


「ありゃ。みぃくん珍しいね」


力をこめてつかさの腕を握ったばっかりに、彼女の体をちぎってしまうというようなことが、ある。


ぶつり。手の中であっけなくちぎれた腕が、ぼとりとアスファルトに落ちる。分断された右腕と、片腕のない女子高生。初夏の朝の空気に似つかわしくないスプラッタだ。そのスプラッタをつくりだしている張本人と言えば、のんびり笑いながら落ちた腕を拾い上げ、もう一度自分の体にくっつけた。そしてくっついたことを確認するため軽く背伸びをし、それから手を動かす。ぐっぱ、ぐっぱ。


「うん、今日も良好」


どこがだよ。


なんで、どうして、ということはよくわからないんだけど、つかさの体はいうなればスライムだ。柔らかくて、弾力があって、力をこめれば簡単にちぎれる。ちぎれた腕はもう一度くっつければ元通りになる。血は流れない。彼女の体に液体はない。ゼリー状のぶよぶよした物体が体内を漂っているだけ。痛覚や触覚も鈍く、痛みや熱さ、寒さもあまり感じないらしい。

幼稚園の時分は、よく力加減を間違えて、つかさの腕やら手やらをちぎっては泣いた。一方ちぎられた側は平然としており、「だいじょうぶだよぉ、でも頭がちぎれたらどうなるかはわかんない」だとか暢気なことを言う。そうじゃない、と何度思ったことか。

高校生になってからは早々力加減を間違えることもなく、そもそも男の僕が女のつかさに触れることはほとんどなくなっていたのだけど、今朝は、少し違った。


「つかさ、なんで僕のこと避けてんの」


そう。最近、つかさは僕を避けている。

家が近所だからと通学も一緒、下校も一緒だった。付き合っているのかと何度かからかわれたが、お互いにもう好きだ嫌いだ、惚れた腫れたを通り越して、「一緒にいるのが当たり前」になっていた。なっていたはずだった。

にもかかわらず、この一週間、つかさは僕を避けている。登校も下校も時間をずらし、学校でも僕に合わないように逃げ回っている。

今日こそはその理由が聞きたかった。だから、わざわざ朝からつかさの家の前で待ち構えていたのに、彼女ときたら僕の顔を見るなり逃げ出そうとするから。

追いすがって、とっさに腕を掴んで――その力が強すぎた。


「……腕をちぎったのは、ごめん」

「いいよぉ。今に始まったことじゃないじゃん」

「そうだな、むしろ謝るべきはつかさだな」

「えっ、そう来る?」


学校に向かってふらふら歩きながら、僕は幼馴染を問い詰めた。


「なんで避けんの。僕、なんかした?」

「んーん。なんにもしてないよ」

「じゃあ、なんで」


つかさは首をふっとかしげた。そして、つかみどころのない笑みを浮かべてこう言った。




「わたしたち、もう子供じゃないんだなぁと思って」




は?と、思わず低い声が出た。そんな僕を見て彼女はさらにけらけら笑う。


「それがわからないとはみぃくんはまだまだこどもですな」

「なにいってんの」

「高校生の付き合ってもない男女がべったり一緒にいるのはおかしいってこと」


何故そんなことをいまさら言うのか。

今度は僕が首をかしげる。同時に胸の奥から苦いものがせりあがってくるように感じて、顔をしかめる。けれどそんなことは知らないつかさは、おかまいなしにこう言った。


「ね、みぃくん。私たち、そろそろ大人になる練習しなくっちゃ。だからさ、登下校は別にしよ」

「つかさ」

「ほら、女の子が嫌って言ったら引き下がる!しつこい男はモテないぞ」

「つかさってば!」


全く話を聞かないつかさの手首をもう一度握る。今回はもう少し力加減に気を付けて。にも、関わらず。

ぶつり。


「えっ」

「あ」


僕の間抜けな声も一緒に地面に落下した。足元にはつかさの手首。さすがにおかしいと、思う。いつもなら、このくらいの力じゃつかさの体はちぎれない。この力でダメならつかさは中高の体育なんかできていない。


「……つかさ、今日、体がやわらかすぎない?」


そう言った僕に、つかさは拾い上げた手首をぶらぶらと振って見せた。


「みぃくんの馬鹿力のせいだと思いまーす」

「はっ?」

「女の子の体を朝から二回もちぎっちゃうような男の子とは通学しません!じゃあ、またね」

「つかさ!」


どんな逃げ方だよ。

紺色のブレザーが朝日の中を駆け抜けていく。その背中を目で追いながら、僕は呆然とその場に立ち尽くしていた。




「小川先輩」


その日の昼休み、知らない女子に声を掛けられた。どこかで見た覚えがあったな、と首を傾げれば、彼女は一つ年下の一年生だという。これ、とハンカチを見せられてああと納得する。

先々週、たまたまつかさが委員会で、僕が一人で先に帰ることになった。その時、海沿いの道で同じ高校の制服の少女がうずくまっているのを見かけた。何事かと声を掛ければ、どうやら蹴躓いた拍子にコンタクトを落とし、それを探していたのだという。ほとんど今は目が見えていない、という彼女のスマホを使って母親に自宅の最寄り駅まで迎えに来るよう連絡し、学校から駅までの道のりは僕が手を引いて歩いた。その時、少女の手のひらから血が出ていることに気が付いた。躓いた時に慌てて、海沿いのフェンスの有刺鉄線を掴んでしまったらしい。仕方がないなぁ、とハンカチを貸してあげた。

つかさに誕生日にもらったものだったから、貸すのは躊躇われたけれど、ティッシュは持っていなかったし、仕方がなかった。クラスを伝えて、また返しに来てほしいとは言っていたのだけれど、なかなか来ないから少女の顔はすっかりおぼろげになっていた。


「本当に、ありがとうございました」


深々と頭を下げる少女は、今日は眼鏡姿だ。


「眼鏡にしたんだ」

「コンタクト、怖くなっちゃって」

「まあ、それもそうか」


そう言いながら、少女の手のひらにある傷跡に気が付く。


「手のひら、もう大丈夫なの?」

「はい、だいじょうぶです。かなり痛かったですけど、親切にしていただいてありがとうございました」


少女は少し笑って、それから差し出そうとしたハンカチをぎゅっと握りしめて、こちらを見上げた。


「あの、先輩っ」

「何?」

「このハンカチって……」


何かを言おうと、していた。

その時、彼女の向こう側を見て、目を見開いた。



つかさが、今にも泣きだしそうな顔で立ちすくんでいた。



「つかさ?」


言葉が転がり落ちた瞬間、つかさが焦ったようにこちらに背を向けた。


「つかさ!」

「先輩、あの」

「ごめん、またあとで。ハンカチは僕の机に置いといて」

「先輩っ」


クラスの誰かに聞けば僕の机はわかるだろう。迷わずその瞬間、僕はつかさを優先した。

けれどどこかへ隠れてしまったのか、つかさには追い付けず。クラスに帰っても、僕のハンカチはどこにも置かれていなかった。



わからないことばかりだ。

僕はつかさの側にいて、つかさも僕の側にいて、みぃくんとふざけて笑う、あの声や空気が好きで。春の陽だまりの中にいるようなあの時間が、突然、ぼろぼろと手の中から崩れていく。



放課後、さっき聞いたばかりの少女の名前を思い出しながら、ハンカチを貸した少女の教室まで、もらい損ねたハンカチを受け取りに行った。すると少女はとっくのとうに帰ったという。僕のハンカチはいつ帰って来るんだと顔をしかめながら、海沿いの道をたどって歩いていく。

有刺鉄線は肩の高さ。向こう側は切り立った小さな崖になっていて、落ちると危ないからとコンクリートの衝立の上に更に有刺鉄線のフェンスができた。有刺鉄線越しの夕暮れが、僕は結構好きだった。

それらをぼんやりと見ていると、ふと、目の前に二人、制服姿が見えた。

ハンカチを貸した少女と、もう片方は、つかさだ。



ふたりがもみ合っていると気が付いた瞬間、衝動的に、僕は駆けだしていた。



もみ合った勢いではじき出された少女が、コンクリートの衝立に乗り上げる。有刺鉄線にぶつかりそうになる。その瞬間、少女を突き飛ばしてつかさが少女の立ち位置に立った。その勢いで有刺鉄線にぶつかって、体ごと、フェンスが、海の方へ、


「つかさっ!」


落ちて行くつかさの手が、有刺鉄線を掴んだ。その瞬間、目を見開いた。

つかさの手で力をこめて、有刺鉄線なんてワイヤー上のものを掴めば、簡単に手は千切れてしまう。最悪、ちぎれた手やつかさの体の一部が海に落ちれば、ないものはもう繋ぐことができない。



でも、そうはならなかった。

有刺鉄線を力強く掴んだつかさの手のひらからは、一筋、血が零れ落ちた。



迷っている暇はなかった。半分海の向こうに投げ出された体を抱きしめる。やっぱり、やわらかい。ぐずりと指が彼女の体に沈んでいく感覚がする。

ちぎらないように。傷つけないように。それでも彼女が落ちていかないように。

抱きしめた体を、半分無理やり背中へそらして、つかさの体を引き戻す。体が歩道に転がる。

荒い息をしていた。歩道にへたり込んだ少女が泣きじゃくっていた。大人が叫んでいる。でも、今は何もかも、よくわからなかった。

なにもかも、わからなかった。






「うらやましかったんだ」


その後、警察署までとりあえず事情聴取に連れていかれた僕たちは、喧嘩の末の事故ということで保護者の迎え次第で帰れることになった。待合室で並んで親を待ちながら、つかさがそんなことを言った。


「見てたの。あの子とみぃくんが手をつないでるとこ。私のあげたハンカチを、手に巻いてあげるとこ。遠目からでも、わかったの」


あの子、と呼ばれた一年生の少女は、泣きじゃくりながら親に連れられて帰っていった。彼女の持っていたハンカチは、今、僕の手の中にある。

あの子はクラスで浮いていて、友達がまだ一人もいなかった。そんな時コンタクトを落として、でも誰にも助けてもらえなくて、そんな時に声をかけたのが僕だった。

僕のことが好きだったらしい。僕のクラスメイトから、あのハンカチが幼馴染の女の子からもらったものだと聞いて、悔しくなって、帰り道、あの海に投げ捨ててやろうとして、それを止めたのがつかさだった。


「私があげたものかそうでないかは関係ないの。善意で貸してあげたものがこんな風に捨てられたら、みぃくんは、悲しむよ」


そう言ったつかさに反抗して、もみ合いになって、そうしてあの事故が起きた。


「うらやましかった」


もう一度繰り返して、つかさが手のひらに巻かれた包帯をなぞる。


「みぃくんは私の手が千切れるのを怖がって、私に触らなくなってた。私もときどきみぃくんと触れ合う時、千切れた腕をみぃくんが気持ち悪がっていないか、そんなことばっかり気になってた」

「うん」

「だから、練習してたの」


力を込めた腕や足が筋肉で硬くなるように、うまく力をこめれば、つかさの手も少しは固くなるのではないか。そう思って、つかさはずっと練習をしていたらしい。その結果体のバランスが崩れて、他の部分が柔らかくなりすぎてしまったのだけれど。


「ね、みぃくん。手をつないでもいいかな」


つかさが震える声で、そう言った。


「わたし、簡単にちぎれちゃうけど。頼りないけど。気持ち悪いかも、しれないけど。でも今日奇跡が起きたみたいに、普通の女の子みたいに、もしかしたらみぃくんの手を握れるかもしれないから、だから、いいかな」


言い切る前に、包帯まみれの手を取った。恐る恐る、でも少しずつ、力をこめて、握った。



痛いよ、と。



痛覚のないはずのつかさが、泣き声交じりの笑い声を零した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る