あした僕は旅にでる

メトメ

第1話 出発前日

2020年8月11日(火) 午後10時32分 大阪市内某所


「やっと終わった」


誰もいなくなったオフィスに声が響く。

発した声はすぐに静寂の中に溶け、何事もなかったかのような空間に戻る。

白く縁取りされたシンプルな壁掛け時計がせわしく秒針を運んでいた。

そっと耳を澄ますと、「カチッ、カチッ」と音が聞こえてきそうだった。


この時計を見るたび、なぜだか、幼い頃に走り回った母校の校庭を思い出す。

あれからもう18年がたった。


いつもは、この時間でも同僚や上司を含め10人ほどは残業をしているのだが、今日は違う。


明日からお盆休みにはいることから、彼らは早々に退社した。

なんでも皆、お盆は家族で実家に帰省するそうだ。北は北海道、南は鹿児島と、

日本全国津々浦々、おのおのの地元へと向かうらしい。


両親とも同じ地元出身だった僕からすれば、彼らのこどもたちがとても羨ましい。

なぜなら、帰省=旅行のような感覚なのだから。


幼い頃、友達から


「明日から熊本のお母さんの実家に遊びに行くんだぁ!」


なんて聞いた時には心底羨ましかった。車で片道20分ほどしか離れていない

実家に行ったところで、たいして景色も変わらず、やることもなかった。せいぜい近所の公園でおにごっこや鉄棒をしたりするくらいだった。唯一の楽しみは、おじいちゃんがくれるお年玉。


「お義母さんにとっても気をつかうから、旦那の実家に行くの嫌なんだよね~」


なんて愚痴を言う同僚もいた。彼女は今頃、精一杯の作り笑顔で旦那の実家へ向かう準備でもしているのだろうか?


「そろそろ帰るか」


ぽつりと呟いたのち、帰り支度をはじめた。

おそらくどこの会社もそうだろうが、うちは最後に退社する人が、戸締り・消灯をする決まりになっている。


「戸締りよし、電気よし」


声にだして指差しをしながらひとつひとつ確認していった。

特に問題がないことを確かめたあと、いまだぽつぽつと明かりがもれているビルをあとにした。


会社へはいつも歩いて通っている。片道20分の、近くもなく遠くもない絶妙な距離だ、と僕は思う。毎朝8時20分に家をでる。大通りぞいの歩道をひたすらまっすぐ歩くのをかれこれ2年はつづけている。すれ違う人たちもだいぶ見慣れた顔ぶれだ。話したことはおろか、挨拶も全くしたことがないが、妙な親近感を覚えるようになる。「会社という戦地へ向かう、戦友」とでも言おうか。


そんな歩きなれた道をゆっくりと帰る。朝方とうってかわり、人影はほとんどみあたらず、寂しさが募る。煌々とあたりを照らす街灯が闇の陰影を際立たせた。かえってそれが寂しさを増長させたので、逃れるように足どりを速めた。


ガチャリ・・・パチン


白熱電球の暖色に染められた、小さな部屋が浮かびあがる。


JR大阪環状線 森ノ宮駅から徒歩10分。築32年の5階だてマンションの最上階にある8畳ワンルーム。家賃は4万円と、この界隈では抜群に安い。


気になることと言えば、「エレベーターがない」ことくらいだった。引っ越した当初は昇り降りがきつく、


「なんでエレベーターがないんだよ――」


なんて悪態をついていたものだが、じきに慣れた。脚もだいぶ太くなった気がする。家賃が安いのはこのためかもしれない。


お世辞にも広いとはいえない部屋には、ありとあらゆるものが所狭しと雑多に詰め込まれている。


アコースティックギター、釣り竿、熱帯魚の入った水槽、キャンプ道具、ダンベル、山積みになった小説・・・。


そう、これが僕だ。趣味に傾倒してきた男の部屋だ。


10歳で釣りにはまり、以後あれやこれやと手を広げるうち、気づけば世間で言われる「多趣味な人」になっていた。ただ、そのどれもを投げ出さず続けているのは我ながら立派だと思う。


趣味に情熱を注ぎすぎる性格がゆえに、最近まで付き合っていた彼女には、


「――あなたとの未来が見えない――」


などといった、テンプレートをそのまま貼り付けたような別れ文句と共に、3か月でフラれてしまった。笑顔がとてもキュートで、愛嬌たっぷりの子だった。今でもふと、あの子の笑顔を思い出す時がある。


そんな僕は明日、ここ大阪を発ち、高校卒業までの18年間を過ごした故郷の秋田へ帰省する。青春18きっぷをつかった鈍行列車の乗り継ぎだ。学生の頃から、青春18きっぷを使って秋田へ帰っていた。


それは単にお金の節約になるからというだけではない。流れゆく景色を眺めながら物思いにふけるのが好きなのだ。風景が、そして人々が移り変わるのを眺めているだけで、不思議と心が落ち着く。


社会人になってもその嗜好は変わらず、いい大人になった今でも、相変わらず青春18きっぷを使い続けている。確かに心はいまだに18歳、いや、まだ下の毛も生え揃っていない10歳くらいか。


ただ、今回の帰省は今までとは一味違う。ロードバイクを担いで、鈍行列車を乗り継いで帰るのだ。いわゆる輪行だ。


ロードバイクを初めて4か月と、まだまだ日が浅い。友達に誘われ、何の気なしにやってみたら、おもしろいのなんの。


風を切って高速で走り抜ける爽快感、そして何より、流れる景色をより身近に感じられるのに一瞬で心を鷲掴みにされた。その後すぐにロードバイクを購入し、暇を見つけては遠出をしていた。最近では、1周約150㎞の淡路島を2日間かけて走破した。


風を感じながら、ここよりもっと遠くの景色を眺めてみたい。

そんな思いから、今回はロードバイクを担いで帰ることにしたわけだ。


まだ感じぬ風、まだ見ぬ風景を思い浮かべるだけで、心が浮き足だつのがはっきりとわかった。


これは旅だ。


かつて自分が憧れた、帰省という名の旅だ!


あした僕は旅にでる。




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