6章 盤上の外で蜘蛛喰い蝶は笑う
赤眼の少年、服を着る
肉とコンクリートが擦られ、何もない暗闇にずるずると音を鳴らす。それは不気味に歪で少年の心を静かに乱す。
身体が重いのは持っているこれらのせいだろうか。一歩進むほど脚が重くなっていく。
これが身体を持つということか。
それを実感すると共に煩わしくもなる。
赤眼の少年は長いとも思える廊下を重怠い脚で歩いていた。右手には白い刀を持ち、両の脇に黒猫と瑠璃の左腕、左手は人間の足首を掴んでいた。
その足首は清音のものだ。白目を向いた彼女は頭を擦られ、背中の皮膚は裂かれ露わになった肉と骨がコンクリートと接触し、不気味で嫌な音をたてていた。主に重いのはこいつのせいだった。
赤眼の少年はひと休みにしようと立ち止まり、大きく息を吐く。
廊下の奥からからころと歩いてくる下駄の音が聞こえてきた。
軽い足取りで真っ直ぐとこちらに向かってくる。奥から現れたのはすらりとした背の高い長髪の女性だった。
「蝶男」
名を呟けばルージュが乗った唇がわずかに上がる。
赤眼の少年が蝶男と出会った時、奴は男性の姿をしていた。それから女性の姿になった記憶はない。なので、いきなり女性として現れると例えようのない違和感があった。
蝶男の説明によると現世で使っていた男性の身体は事情により使えなくなったそうだ。法律というルールによる事情だそうだ。
なので、性別を変えたらしい。塊人は性別と言うものは曖昧で改造によっては性別も性格も変えれるのだという。
「お疲れ様。新しい身体は順調かな?」
女性らしい高い声で蝶男は聞いてくる。
気味が悪い。それが蝶男に対する第一印象だった。多分、顔に出ている。出たとしても蝶男は気にしない。相手の感情に関心がない。
「わからない。良いとか悪いとか」
赤眼の少年の始まりは死んだ胎児だった。母の腹の中で魂が宿り、すぐに死に胚羊水に流れ、そこから掬い出されたかと思えば、清音の中に閉じ込められた。
ずっと胎児だったのにいきなり16歳の少年の身体になり、何が悪くて何が良いのか判断ができない。
「瑠璃を逃した」
「知ってる」
蝶男が変わらない微笑で答える。表情の機微がない。やはり気味が悪い。
「刀と黒猫がいれば充分。瑠璃は自分で戻ってくるよ」
「わかるの?」
「わかるさ」
疑いをが向ければ確信したように即答した。
「清音は?どうするの?」
話を変え、清音の亡骸とも言えるものを見下ろす。
死者の魂が死んでも2度目の死は来ない。固まった氷が水に戻るように元の形に戻るだけだ。ただ、生者の魂が死ねば現世には戻れない。身体との縁が切れるから。
だから清音は、輝くような眩しい日常の日々に帰れない。
「修復するよ。まだ使い道があるからね。黒猫のほうも私が預かる」
やっとこの重りから解放される。
こうした喜びは後で清音に怒られるなと考え直し、顔を引き締めて清音と黒猫を蝶男に渡す。軽くなった腕を回して重さのない自由を味わう。
「それで、この後は?」
「修復した後は私と一緒に行動してもらうよ。その前に服を着ようか」
初めてされたその指摘に虚をつかれる。
改めて自分の身体を見つめる。つま先から指の先、髪の先まで清音の血液によって全身が染められている。赤眼の少年が身に纏っているのはこの液体だけだった。
蝶男は服を着ろ、と言っていた。しかし、その概念がない。「服を着る」と言う発想がどういうものかわからない。
言葉の使い方のものを知っても身体が16歳になっても魂は赤子だ。
蝶男は何も知らない子供に優しく教える母親の温かさを真似して語りかける。
「服を着るのは礼儀だよ。服は自己紹介みたいなものだからね。自分がどういう人間か、相手に伝えないと会話はできないよ」
優しく説明されても理解できない。ピンとこない。
服は自己紹介だと例えた。赤眼の少年には自己紹介するほどのものがない。自分の名前すら持っていない。
「一番身近なものを想像してごらん」
「みぢか、なもの」
「そう。清音の中に君はいたんだ。彼女の日常の中で、親近感あるものが何だった?」
目を瞑り、想像してみる。清音の家、朝食の風景、通学、勉強、教室、黒板、机、生徒。聞こえてくる談笑、流行のものとゲームの話、テストの話、先生の愚痴。ブレザーとパンツの制服を自由に着こなし、怒られる男子生徒たち。
「よく似合っているよ」
心にもない蝶男の台詞で赤眼の証言は瞑想から意識を起こした。今までなかった軽く締め付ける感触が全身に伝わってくる。
自分の身体を見つめ直せば、皺のない新品の制服に包んでいた。清音が通う学校の男子生徒の制服だ。
袖から肘まで慎重に指を滑らせる。初めて触れた布地は心地よく、また未知の感触にときめいて心が踊った。
これを着て廊下を走る自分を想像し、机の前に座る自分を想像し、友達と談笑する姿を想像した。そしてそれは永遠に訪れない未来なのだと思い至り、現実に戻った。
真新しい布地から手を離し、拳を作って強く握った。
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