カンダタ、生前 12

私はため息を吐くと重い腰を上げる。帯を解き、赤い着物を剥ぐ。たった一言、嘘を吐いた。悟られていないだろうか。不安で指先が震える。

彼がいた事実を蝶男が知れば黙ってはいない。ましてや生かして塀の外に出たとなれば、彼は捕らえられて黒蝶の苗床にされてしまう。

塀を越えてきたのは赤眼の彼だけではない。好奇心をくすぐらせて、金になるものを求めて、そういった輩が幾人かいた。蝶男はそんな愚か者を実験体・苗床の材料にしていた。

蝶男が私に命じていたのはその者たちの生け捕りだ。けど、力加減が下手な私はそれを苦手としていた。

何よりもここに訪れる輩は女が1人というだけで下心が揺すぶられるのだろう。私に向けた下衆な目が私に殺意を灯らせる。一度点いた火はなかなか消えない。跡として残るのは悪漢の亡骸と血で汚れた私だけ。

死にかけの状態できたのは彼だけなのだ。しかも、泣いていた。

例のように殺そうとしたけど戸惑ってしまった。泣きながら「死にたくない」と虚ろに繰り返されては人殺しに慣れてしまった私でも同情してしまう。

そして、あの赤い瞳。彼を初めて見た時、雨と涙って濡れた瞳に引き込まれていた。見惚れていたら、彼が呟いた。「綺麗だ」と。

初めて言われた言葉に舞い上がってたのは事実だが、そんな喜びはすぐに消えた。彼の純粋さが恐かった。

彼は虫一匹も殺せないような人だった。穢れた私とは真逆の人。深く関われば私は穢れた私と向き合うことになる。きっと後悔する。彼も私を受け入れられない。

だから、これで良かったのだ。

肌襦袢の姿で私は離れの小屋に入る。

小屋にあるのは人が入れそうな四角い檻、拘束具、蝶男の作業台。台の上には数種類の治療の器具がある。

蝶男は台の前に立っていた。蝋燭の火が揺らめいて蝶男の背中を妖しく照らす。

「いつもとは違う試行にする」

注射器を手にし、背を向けたまま淡々と話す。

「今回は脱いでもらおうか」

私は自らの手で肌襦袢を脱ぐ。白く滑らかな布地が足元に落ちる。冬が近い夜の冷気が肌に触れ、凍えて震える。

おいで、と蝶男は無言で手を差し伸べる。私は指示されるがままに蝶男へと近寄った。



胃の底から湧き出る熱を堪えきれず、私はどろりとした血の塊を吐き出した。

高座の台にうつ伏せになり、垂れ流された血反吐は地面に落ちて赤黒い染みを作る。

寒さは感じなくなっていた。身体は熱くなってはいたが、震えが止まらない。

「7、8、9」

蝶男は一定の律動で数を数えながら私の背中に浮かぶ黒蝶の模様を観察する。

体中に響く痛みが鈍くなってきた。また意識が途切れそうになる。その最中で蝶男が次の注射器を準備する。その気配を察した私は下唇を噛む。

あと何回、注射器の針を刺されるのだろうか。もうやめて欲しい。私の身体は好き勝手にしていいから意識を失わせてほしい。

細い針が項を刺し、骨の髄の奥に冷たい液が注入されるのを感じる。直後、閉じかけていた意識は再び開かれ、薄れていた痛覚が戻ってくる。吐き気が私を襲う。

「2、3、4」

蝶男は1から数え始めて私の肌をなぞる。

骨髄の内側から無数の芋虫が這いずり回っているような感覚がする。胃が震えて、胃液と混ざった血が吐き出される。

痛くて息苦しくて辛い。私の目から流れたのは澄んだ雫ではなく、赤く濁った血涙だった。

「止まないね。これ以上は危険かな。死なせるわけにはいかないしね」

注射器を置き、代わりに1枚の毛布を包ませる。自分の力で体勢を変えられればよかったが、私は小刻みに震えるばかりで指先ですら動かせない。

蝶男は私の上半身を起こし、体温を保たせる為に手足を折り畳ませて体勢を丸くさせる。

「模様の広がりも今一だ」

肩から胸までを観察しながら淡白なため息を吐く。

「やはり、心理的なものかな。紅柘榴が拒み続けている限り蝶化は難しいな」

当たり前だ。私がこの世で最も恨んでいるのは蝶男だ。彼の一部である黒蝶を受け入れられるわけがない。

なのに、私の身体は蝶男の腕に凭れて、頭は胸にうずくまる。

あぁ、また汚れた。

唾液と血で汚れた身体。誰かの血と自分の体液で汚れた私が醜く、目蓋の裏側に映る。そんな意識が虚ろな暗闇の中で赤い瞳が目を細める。

切なく笑う彼の名前を心の中で小さく呟く。自分で拒んでおきながらまた会いたいと願っている。

蝶男に身を預けた私は純粋な赤い瞳を想う。

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