カンダタ、生前 3

体力は底尽きており、瓦屋根に着地する。いや、着地とも言えない。強打した身体は瓦の上を滑っていき、地面へと落下する。背中を打ちつけて、今までにない衝撃が骨の奥にまで響く。傷口に泥水が染み込む。

悲鳴を上げそうになった声を胃の底まで戻し、中途半端に開いた口は秋の冷気と曇天の雨を吸い込んで噎せる。

塀の外側で俺を探す人の怒声が聞こえ、近くなったかと思えばすぐに遠ざかる。一先ず、逃げきったようだ。

なんとか寝返りを打ち、身体を起こそうとするも望み通りに動いてくれない。

腕は上がらず、脚は立とうとしない。 頭さえ上がらない。顔を地面に擦りつけ、味のしない泥を口内で噛みしめる。

視界の角で縁框があった。何とかしてあそこに入ろう。雨風を凌ぐだけで良い。そこで身体を丸めて寝ていれば傷も癒えるはずなんだ。

俺の人生と言うのは大抵それで生き延びた。殴られて逃げ、逃げた先で独り凍えては受けた傷を眠って癒す。

今もそれと同じだ。少しだけ休めば。ただ体温を奪う雨風から身体を守ければ。

身体を引きずってても平家のもとへと向かおうとした。しかし、鉛となったこの身体はもがき、足掻くことすらできない。

痛覚や触覚、視界が鈍くなり、現実が遠のいていくような感覚に陥る。冷たい温度が全身に伝わり、独りで死を待つ孤独と出会う。

人は死に際に走馬灯を見ると聞く。死神が確実に近づいているというのに俺がそれを見ないのはやはり、俺の人生と言うのはその日その日の命を意味もなくだらだらと繋いでいるだけの何も成せない人生だったのだ。

俺が見捨てた母親も遊女から受け継いだ知恵も無意味となった。その事実が心を抉る。

そうした絶望の末でも、何も成されていない人生にしがみつこうとしている。ここで生き延びたとしても俺は変わらず、何も成し遂げられない俺のままだろう。それをわかっていながら生に執着するのは死という未知の領域を恐れているからだ。

あぁ、死にたくない死ぬのは嫌だ嫌だ死にたくない。

ただただ心の中で繰り返しては独り駄々を捏ねる。

俺が見つめる縁框の戸は雨から家内を守る。そんな沈黙を守る戸が静かに開いた。

全ての五感が遮断される寸前の出来事だった。縁框の内側は1つの暗闇があり、その中に浮かんで現れたのは、あれは、赤い衣だろうか。それほど離れていないのに人相がはっきりと映らない。

鬼か妖かは判断できないが、人の形はしているらしい。赤い衣を身に纏ったその人は縁側から降りると俺のもとへと近づいてきた。

近づけば近づくほど、肩が細く、長い黒髪をさらりと揺らして垂らす女性だとわかる。

彼女は俺の目前で膝をつき、肩を揺さぶる。声でもかけてくれているのか、甲高い声が僅かに聞こえる。だが、触れられたても彼女の声も全てが遠く感じる。

俺が俺として消え去ってゆく中ではっきりと捉えたのは季節外れの花の香り、そして。

雨粒が滴る濡烏色の髪が顔の輪郭を描き、不安げな表情をしている。純粋な色をした眼差しが綺麗だと思った。

その後の記憶ははっきりとしていない。感覚的に覚えているのは内側から燃える熱に苛まれる思考。そして、奥深くに仕舞った幼い過去の記憶、夜の洞窟と焚き火、羽交い締めにされる俺と母親と母親を囲む悪漢たち。

何度も忘れようとして、捨てようとした悪夢が脳内で再開される。それが終わると始めまで巻き戻されてまた悪夢が蘇る。堂々巡りした悪夢によって熱は加速されて、高熱に魘される。

灯りのない黒い炎に焼かれる熱。熱と悪夢を表現するならばこれが正しいだろう。身体を焼く炎から逃れようと暗闇の中に手を伸ばしても堂々巡りする悪夢に脱出口は無い。

何度も焼かれ繰り返す夢に歯を食いしばり、耐える。終わりのない生き地獄に涙を流す。

夢現の俺に一糸の細い光ようなものが俺の頬に触れて涙を拭った。

どこからか、春の香りがした。

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