第3話
「五つ年の離れた姉がいました。でも、姉は四年前に、交通事故で亡くなって」
公園のベンチに座りながら、僕は春川の話を聞いた。春川はぽつりぽつりと、何とか言葉にするように話した。
「出来の良い姉でした。勉強もできたし、運動神経も良かったし。しっかりしてたから、ママにもパパにもよく頼られて」
春川は涙声だった。語らせるにはあまりにつらい過去。止めてやろうかと思いながら、僕は聞くことしかできなかった。
「お姉ちゃんが、死んで。ママもパパもすごく悲しいんだと思います。お姉ちゃんのこと、ずっと追いかけてる感じで」
お姉ちゃんは、これくらいやってくれたのに。
お姉ちゃんは、これくらいできたのに。
何でお姉ちゃんみたいにできないの。
「そんなこと言われたって。わたしはお姉ちゃんみたいにできない」
春川が顔を上げた。朱音にそっくりなその顔を。
「私とお姉ちゃん、顔は似てるんです。年だって、お姉ちゃんが死んじゃった時と同い年になった。でも、私はお姉ちゃんじゃない!私はお姉ちゃんと違う人間なの!なんでおんなじ風に見るの?私は私なのに!」
春川の痛切な訴えに、胸が痛んだ。
そうだ。この子は春川桜子であって。
他の誰でもない。
「パパもママも、なんで私を見てくれないの?私はお姉ちゃんのクローンじゃないもん!そんなにお姉ちゃんが恋しいなら、臍の緒を使うでも、墓を暴くでも何でもして、お姉ちゃんのクローンでも作ればいいじゃない!」
そのまま春川は泣き出した。膝に抱えたスクールバックに突っ伏して、わんわんと泣いた。
背をさすることも、言葉をかけることもできなかった。
僕にはそんな資格はなかった。
だって、僕は。
君にかつての恋人の面影を見たのだから。
「ねえ先生、私、どうすればいいの」
手の甲で涙を拭って、春川は顔を上げた。ぐしゃぐしゃになった顔は、助けを求めて僕を見つめていた。
僕は答えることができない。
「……先生の大切な人って、誰だったの。家族?友達?」
「……恋人」
思わず素直に答えてしまう。僕は春川に対してあまりに不誠実な気がして、隠しごとをするということがひどく後ろめたく感じられた。
あまりに、後ろめたかったから。
「春川は、僕の大切な人に、似てる」
隠しておけばいいことを、言ってしまった。
その言葉に、春川は憤ったように目を見開いて。
「先生なんか、大っ嫌い!」
そう吐き捨てて、公園を走り去って行った。
心の一部が壊死したような。
吐き出してしまいたい煩わしさがいつも胸に巣食ってるような、そういう状態に久々に陥ってしまった。
それでも日々は前に進んでいくし、数十人という生徒に責任を抱えているし、僕は何でもないような顔をして毎日を過ごさねばならなかった。
教室で春川を視界に入れるたび――彼女は僕と目を合わそうともしなかったけれど――喉元まで圧迫感がせり上がってきた。時々、春川が指定のブレザー姿ではなくて、時代遅れのセーラー服姿に見えるときがあって、そういう時の自分はきっと朱音の幻に憑りつかれていたのだろう。
せめて学校にいるときは朱音に消えていてほしいと願う。そのうち、早く平穏な心を取り戻したいと思うと同時に、それが朱音の記憶を疎ましく感じていることと同等なのだということに気づいて、ショックを受けた。
あんなに好きだった朱音のことを、僕の人生においての障害物のように感じてしまったことに絶望する。
そしてこんなにも乱れた心で一人の生徒と向き合うのは、あまりにも難儀だった。
「ねえ先生ー。どの本にすればいいかわかりませーん」
「っていうか、読書感想文なしにしません?」
夏休みが目前に迫った、国語の授業の後。
夏休みに読書感想文を課題に出した僕は、生徒からの相談……というか、愚痴に付き合っていた。
「国語の便覧、あるだろ。それの後半ページに作家と作品の一覧あるから、なんか興味ある作品探しなさい」
入学時に教科書と一緒に配布した国語の便覧は、教科書に掲載された作品背景や時代背景をよく理解するための資料集だ。解説と写真、図説を収録していて、なんなら教科書よりも面白い。けれど授業では時間の制約上ほとんど使われず、大半の生徒が三年間ぴかぴかのままで、ただ重たいのを鞄に入れて持ち運んでいるだけだった。
「えー、なんか難しそうな本ばっかり」
「あ、でもこの現代作家一覧は?ドラマとか映画になったのとかあるよ。漫画家とかも、超有名な人はいるよ」
「漫画はやめろよー」
「あ、ねえこの作家ちょっとかっこいい」
「えー、おじさんじゃん。なんか気取ってる」
生徒たちは文学とは別のことで盛り上がりを見せている。まあ、作家の肖像写真に妙に興味を惹かれるのは否定しないけれど。
「あ、ねえこの作家さん」
「おお、美人だね」
「この人、ちょっと春川さんに似てない?」
その言葉に、僕は生徒の手元の便覧に目を落とす。
掲載されていたのは、朱音が時々似ていると言われていた例の美人作家だった。
「はーるかーわさあーん」
生徒の一人が、教室の後方の席にいた春川を呼んだ。止める間もなく、春川がやって来てしまう。
「なに?」
「ねえこの人。春川さんに似てない?」
一瞬にして春川の顔が凍り付く。
「……似てないよ」
誰かに似ている、それがひどく彼女の心を傷つけることを知らないクラスメイト達は、無邪気に言い募った。
「えー、似てるよお。ねえ先生、似てるよね」
僕の心も相当掻き乱れていることを知らない子どもたちは、僕にも容赦なく同意を求めた。やっとのことで、僕も声を発する。
「似てないんじゃ、ないかな」
「えー」
不服そうな女子たちの間から、一つ、声が上がる。
「あ、でも、どっちかっていうとこの作家さん。桜子ちゃんより、
その言葉に、場が一瞬静まり返る。
「萌子ちゃんって?」
「桜子ちゃんの、お姉ちゃん。私、家が近所だから昔からよく遊んで……あ」
しまった、という顔で、女子生徒は口を塞いだ。
一同の視線が春川に集まる。
唇をかみしめて、小さく震えて。
「……いい加減にしてよ」
それだけ言って、春川は教室を飛び出した。
「春川」
追いかけなければ。
だけど、先日傷つけた僕が何を言う?
僕は逡巡したまま動けないでいた。
「どうしよう、桜子ちゃんに悪いことしちゃった」
「え、なんで」
「桜子ちゃんのお姉ちゃん、事故で亡くなってるんだよ」
「あちゃー。お姉さんの話題、地雷なんだ」
「地雷って、そんな言い方やめなよ。いや、私が悪いんだけどさあ」
春川の幼馴染である彼女は頭を抱えた。
「桜子ちゃんと萌子ちゃん、超仲良しだったんだよ。桜子ちゃん、萌子ちゃんのこと大好きでさ、いつもべったりでさあ。それなのに、もう萌子ちゃんの話しないの。きっと思い出すの、つらいんだよね。酷いことしちゃった」
その言葉に、僕は教卓をひっくり返す勢いで走り出した。
「春川を探してくる」
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