第20話 犬の血統書の謎

第1章 血統書鑑定 (前編)

 その日の2時。私が法律事務所の受付に座っていると、約束どおり叔母がやって来た。

 彼女にしては珍しく時間どおり。いつもはだいたい5分から10分くらい遅れてくる。もっとも、私は彼女と待ち合わせる機会はほとんどない。母と待ち合わせるときに遅れるそうだ。

 ただし母もたいがい時間にルーズなので、よく遅れる。そのくせ、叔母(母にとっては妹)が遅れてくると、その場では何でもないふりをしても、帰ってきて私に愚痴る。そういうのはやめてほしいと常々思っている。

「あら、伶ちゃん、まるで受付嬢みたいに座ってるやないの」

 叔母はいかにも意外そうに言った。そんな〝受付嬢〟という職業を見下すような目つきをしないでほしい。

「受付嬢です。バイトです」

 答えつつ、私は法律事務所に内線電話をいれた。短時間だが、受付を代わってもらうため。あらかじめ申し入れてある。去年入った新人の弁護士・須藤さん(女性)が代わってくれることになっている。

 須藤さんはすぐに出てきた。笑顔だが、吊り目で気が強そうなタイプの顔つき。そして実際に気が強い。ただし依頼人(と、ここのボスである天川先生)の前では猫を被っている。同僚(というか先輩弁護士)と話す時には強気な態度に出るらしい。まあ、私は実際に彼女と話したことがほとんどないから、真偽の程はわからへんけど。

「じゃあ、お願いします。30分くらいですから」

「はい、わかりました」

 私は須藤さんに一礼し、叔母を促してエレベーターに乗った。③のボタンを押す。

「本当にこんなところに探偵がいてるの?」

 エレベーターが動き出すと叔母が胡散臭そうに訊いてきた。

「いるよ。事務所の前に看板掛かってたよね?」

「見てへんかったわ」

 まあ『南港共同法律事務所』の方が大きくて目立つから仕方ないか。すぐ3階に着いて降りる。弁護士事務所の相談室が並ぶ廊下を奥へ行くと、そこに『湾岸探偵事務所』と書かれたまっさらなプレートが、麗々しく掲げられたドアがある。

 私はそのドアの前に立ち、二度ノック。中から「どちらさまです?」と涼やかな女性の声。以前の事務所なら、ドアを開けて返事してくれたんやけど。

「受付の麻生です。依頼人を連れて来ました」

「お入りなさい」

 ドアを開ける。普通のオフィスビルによくあるような、オフホワイトで飾り気がなく、顔の高さ辺りにりガラスが入ったもの。しかし開けて入ると、中は超豪華。

 壁はクリーム色で、カーペットはダークブラウン。奥の窓は広くて部屋の中は明るいが、間接照明が全体を柔らかに照らし出す。部屋の中央には黒革張りのソファーとアンティーク調ローテーブルの応接セット。その横には背の高い観葉植物。壁際にはしゃれた本棚に数十冊の本が並ぶが、あれは〝飾り物〟であるらしい。小さな鉢植えも載っている。

 この部屋に入った人は、ドアの外とのギャップに驚くのが常だ。現に振り返って叔母の顔を見ると、口をぽかんと開けて部屋の中を見回している。それだけでなく「あらまあ」などという呟きまで。

「半田スミコ様ですね。ようこそ湾岸探偵事務所へいらっしゃいました」

 その声と共に、窓際のデスクから背の高い女性がこちらへ歩いてくる。もちろん、この部屋の主である探偵事務所長・兼調査員の三浦エリことエリーゼ・ミュラーさん。彼女はついに、あの〝廃業した工場の事務所ビル〟からここへ引っ越しを果たしたのだ。

 詳しい事情はよく知らないけど、彼女は去年の秋頃から〝長期休暇〟と称して事務所を一時閉鎖し、ヨーロッパへ行っていたらしい。ロンドンへも行って仕事をしていたらしい。年明けに戻ってきてから引っ越し準備をして、2月の頭にここへ来た。以前の事務所の内装を、ほとんどそっくりそのままここへ移す、ということをして。

 どうせなら4階の鑑識事務所の隣の部屋にすればいいのに、と私は思ったのだけど、彼女に訊いたら「そんな畏れ多いことができますか」という答えだった。彼女が鑑識の渡利さんを神のようにいて(「敬う」という言葉では程度が足りないらしい。なぜ外国人がそんな感覚を持ってるんよ!)、横並びになるなんてできない、ということなのだろう。

 そのわりに、彼女は渡利さんより後にしてきて、渡利さんより先に退することが多い。まあこれは渡利さんが朝来るのが早すぎて(7時には来てるらしい)、帰るのが遅すぎる(夜7時より前に帰ることはまずない)という事情もあるけど。

「あら、外人さんやないの」

 ソファーのところまで来たエリさんを見て、叔母が言った。ほんまに失礼な言い方で。

 それはともかく、エリさんは白いブラウスの上にダークグレーのベスト、ダークグレーのパンツという、定番の姿。足が長いので、パンツの仕立てがとても良く見える。しかしベストは……胸が大きいせいで、きつきつで、ボタンが飛びそう。

「いかにも私は外国人でございますが、何か不都合がございますでしょうか。聞けば、ご依頼は外国が原産の犬に関するものとのこと。ならば探偵が外国人でも何ら差し支えございませんでしょう」

 エリさんはいつもの得意気な笑顔を崩さず、完璧な日本語(しかも最上級の敬語)で言い返した。

 彼女がここへ越してきてから、私はそれほど話す機会がなかったものの、彼女の日本語が以前よりうまくなったのは気付いていた。たぶん、電話で会話すれば誰だって彼女が日本人と思うだろう。ただし〝必要があれば〟外国人風に若干の訛りを入れて話すこともあるらしい。容姿とマッチしている方がいい場合もある、ということに違いない。

「それはまあ、そうかもしらんけど」

「とにかくお座りください。すぐにコーヒーを淹れて参ります」

 何となく〝納得がいかない〟という顔つきの叔母と私にソファーを勧め、エリさんは部屋の片隅のミニキッチンへ。彼女の愛用のコーヒーメーカーがそこにある。

「伶ちゃん、探偵が外人さんやて、なんで先に言うてくれへんかったんよ」

 座った叔母が、小声で私に話しかけてくる。ほんま失礼な言い草やわ。

「探偵さんが言うたとおりやんか。それにさっき聞いたように、日本語ペラペラなんやから、何も問題ないやん」

「そやけど外人やと何となく話しにくいわ」

 これも失礼な考え方やと思う。話が通じにくい外国人ならともかく、日本語がうますぎても信用しにくい、というのはいったいどういうことなのか。

「でも他の探偵事務所では受けてくれへんかったんやろ? ここは受けてくれるんやから」

「それはそうやけどなあ」

「概略は私から話すから、寿美子おばさんは補足で説明してくれたらいいから」

「ああ、そうしてもらえると助かるわ」

「それと、写真とかちゃんと持って来た?」

「それは大丈夫。常に持ち歩いてるから」

 叔母はハンドバッグからスマホを取り出してきた。それで写真を撮っているということやろう。

 そこへエリさんがコーヒーカップの載った皿を持って戻ってきた。叔母の前、私の前、そして自分が座る向かい側のソファーの前にカップ、スティックシュガー、フレッシュなどを置く。

 以前ならこのタイミングで〝正真正銘の探偵であることの自己主張〟をするらしいのだけど(私は弁護士の先生たちから噂だけ聞いていて、実際に見たことがない)ここに越してからはやらなくなったらしい。あの〝本当に探偵事務所か疑わしいところ〟だから必要だったパフォーマンスで、ここならやるまでもない、ということかもしれない。何しろ法律事務所と同居しているのだから、信用度は折り紙付きと言っていい。

 とにかくエリさんは向かい側のソファーにかけた。両膝をきちんと揃えている。前の事務所へ私が依頼(というか相談)に行ったときは、脚を組んでとても偉そうな態度を取っていた。今日は私の叔母が依頼人だからやらないのかな、と思う。

「さて、依頼は行方不明になった犬を探すことだそうですが、詳しい話をお聞かせくださいますか。まず行方不明になった状況から」

 エリさんは叔母を見ながら言ったが、私が「私の方から説明します」と口を出す。

「おや、伶ちゃんの方から」と探偵さんが私を見る。この笑顔、以前より美人度が上がってると思う。大人の女性の色気が増したような……

「はい、細かいところだけ叔母に補足してもらいますから」

「ええ、もちろんそれで構いませんとも」

「いなくなったのは先週の土曜日のことで」

 叔母は住吉区の帝塚山(高級住宅地)に住んでいて、犬を運動させるために(あるいは見せびらかすために)家から西に2キロほどのところにある、住之江公園のドッグランに連れて行ったらしい。週に3度くらいはそこへ行くが、土曜日は毎週。お金持ちの男性に嫁いだから暇なのだろう。しかも、家で雇っている運転手が車で送り迎えしてくれるそうだ。

 そういう事情はともかく、公園のドッグランで犬を走らせつつ(勝手に遊ばせつつ?)そこでよく会う知り合いと雑談をしていた。ほんの数分間、目を離している隙に(本当は何分なのか知らんけど)犬はいなくなってしまった。

 もちろん叔母は探した。他の人も一緒に1時間ほど探したけど、見つからなかったらしい。迷子ではなく連れ去られたのかもしれないけど、怪しい人は誰も見かけなかった、とのこと。


(続く)

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