第5章 最後のピース (前編)

 ドクター・アーネストが来るとエリーゼは「ミスター・エルマンが心配していましたよ」と言った。

「何のことです?」とドクターは愛想のいい笑顔で訊いてくる。

「メモが盗まれたら残りの半金が支払われないのではないかと」

「ああ、そのことですか。しかし鑑定の結果偽物ということになれば既に支払った半金も返してもらうことになっていたのですよ。ただし借料しゃくりょうがあるので全額ではなく80%程度を」

「ちなみに半金というのは落札額より高いんですか、低いんですか」

「低いでしょう。もし高かったら、我々は落札額の倍以上の値段をふっかけられたことになる。それはさすがに容認できません」

「なるほど。私ならせいぜい1.5倍でしょうね」

「それくらいなら、まあ何とか」

「ところでニュートンの文献の管理方法について教えてもらえますか。番号か何かを付けているのでしょう?」

「ええ、昔のカード目録を電子化したものを作っています。まず昔と同様、文献の名称、ページ数、概要、外見的特徴を記載します。それから少し後の時代になって写真が何枚か付けるようになったのですが、それも踏襲して、外見と、全ページの画像データを付けます」

「全ての文献に対してそれをするんですか。なかなか大変そうですね」

「そのとおりで、実は画像データについてはまだ付けていないものもあるのですよ。優先度の高いものから進めています」

「メモのようなものは優先度が低いんですか」

「そうですね。しかし外見と、表紙やいくつかのページは、全ての文献に対して既にありますよ。もちろんメモについても。昔の写真をスキャナーで取り込んだんです」

「では今回盗まれたメモは、既にそれらの電子目録と照合して、内容が重複していないのを確認済みなんですね」

「もちろん、そのとおりです」

 ドクター・アーネストは得意気な顔で言った。俳優の演技のようにわかりやすい。しかしこれでグレンジャー嬢の疑いは晴れた、ということになろうか。

「ところで入手するときに、オークションで落札するか、あるいは出品者と直接交渉して買い付けなかったのはなぜです?」

 エリーゼが訊くと、ドクターは“肩をすくめるシュラッグ”ジェスチャーを見せた。

「この国にどれくらいの数の私設オークションがあるか、ご存じでしょう? 全てに目を光らすわけにはいかないし、招待状がなければ出品物もわからない」

「このケンブリッジシャーだけでも大変ですか?」

「もちろん。すぐ南のグランドチェスターで開催されてたってわかりませんよ」

「なるほど。ところでミスター・エルマンはメモの寄贈についてあなたに連絡してきたんですか?」

「私じゃありません。“図書館宛て”の手紙です。"Dear librarian"だからアーキビスト宛てでもない。まあたぶんミスター・ケインズの入れ知恵でしょう」

 ドクターは苦笑しながら言った。

「ミスター・ケインズのことはご存じだったんですね。その手紙をミスター・アンバリーが読んで、あなたに相談してきた、ということですか」

「そのとおり」

「では私たちに鑑定を依頼したのは?」

「もちろんアンバリーですよ。彼はあなたにそう言わなかったんですか?」

「誰に依頼するか、あなたに相談しなかったんですか」

「ケンブリッジシャー以外の鑑定家で、世間に名が通っているのなら誰でも、というのが私の出した条件です」

 アンバリー氏にアキラを紹介した人物は誰かわかっている。ドクター・アーネストは関与していなかったということだ。

「では最後に一つ。このままメモが見つからなかったらどうなります?」

「メモの研究ができませんね。まあ当分予定はなかったですが」

「金銭的なことについては」

「何も動きはないですよ。ミスター・エルマンへの支払いは発生しないし、返金も要求しない」

「警察はあなたに捜査の進捗を知らせてくるんですか?」

「ははは、まさか。たぶん盗んだ犯人を見つけたときだけでしょう。いつになることか」

 ドクター・アーネストは俳優さながらに快活に笑った。エリーゼは別れの挨拶をして、図書館を出た。


 6時を回った。夏時間だが、既に日が暮れかかっている。今から列車に飛び乗れば、夕食時にロンドンに帰れるかもしれない。しかしそんなことをしてもエリーゼはアキラを喜ばせることができない。少なくとも、事件の解決の目処を立てなければ。

 パブにでも入って、考えをまとめようか、とエリーゼが歩き始めると、黒塗りの車がやって来て、図書館の前に停まった。二人の男が降りてきた。デクスター警部とコリンズ巡査だった。警部はエリーゼを無視するかと思ったが、意外にも「これはこれはウェル・ウェル」と声をかけてきた。

「帰っていいと言ったのに、何をしていたんだね?」

 小馬鹿にするような言い方は午前中と同じだが、どこか勝ち誇ったような響きも感じられる。

「ケンブリッジシャーの自然を楽しんでいたんですよ」

「もう日が暮れるよ。ロンドンに引き上げたまえ」

「そうします」

 警部は足早に図書館の方へ去った。コリンズ巡査が取り残されている。いや、もしかしたらエリーゼをまた話をしたいと思って?

「何か進展があったんですか」

 エリーゼは魅惑的な(少なくとも彼にはそう見えるような)笑みを湛えて尋ねた。

「ええ、実はヴァネッサが見つかりまして」

「あら、こんなに早く! さすがケンブリッジシャーの警察は優秀ですね」

「ですが、彼女は例のメモを持っていなかったんです」

「どこかへ隠してきたか、誰かに預けてきたか」

「警部もそう考えて、アンバリーを問い詰めに来たんです。二人で示し合わせてのことではないかと」

「喧嘩はフェイクということかしら」

はあヤー

 しかしエリーゼが見るところ、アンバリー氏は演技のできないタイプだ。逆に、その他の誰もが演技のできそうなタイプだった。ドクター・アーネスト、グレンジャー嬢、エルマン氏、ケインズ氏、ミクス・ウルフ……

「コリンズ巡査、あなたはどう考えているの?」

「自分は……いえ、もう行かなければなりませんので。お気を付けてテイク・ケア!」

 既にデクスター警部の姿がないので、コリンズ巡査は慌てて飛んで行った。強引な警部に振り回される部下の巡査なんて、まるでテレビのミステリードラマのようだ。

 エリーゼは駅まで歩くことにした。パブに入って腰を落ち着けてしまったら、帰るのがどんどん遅くなってしまう。少し肌寒くなってきたが、歩けば身体も温まる。

 さて、これまでに各自の行動と考え方を聞き取ってきた。それを元に“動機”について考えることにする。ニュートンのメモが盗まれることで、得をする人が(盗んだ犯人以外に)いるだろうか?


 アンバリー …………NO

 グレンジャー ………EVEN(評価が変わらない)

 アーネスト …………EVEN(評価が変わらない)

 エルマン ……………NO

 ケインズ ……………EVEN(評価が変わらない)

 ウルフ ………………EVEN(評価が変わらない)


おやおやマイ・グッドネス、これじゃいけないわ」

 エリーゼはつい口に出してしまった。誰も得をしないのなら、考える必要がないじゃないの。

 なぜこんなことになったのだろう? 条件が足りないからだ。ニュートンのメモが本物か偽物かを鑑定する話だったのだから、それを考慮する必要がある。本物と偽物の場合の損得は?


 ニュートンのメモが、本物  :偽物

 アンバリー …………UP  :DOWN

 グレンジャー ………DOWN:UP

 アーネスト …………EVEN (評価が変わらない)

 エルマン ……………得   :損(ただし盗まれると残り半金がもらえず、損)

 ケインズ ……………UP  :DOWN(エルマンからの評価)

 ウルフ ………………UP  :DOWN(オークショニアとしての評価)


 当然のことながら、“ニュートンのメモが本物であること”に否定的だったグレンジャー嬢が怪しいということになってしまう。

 しかしこれにはちょっとした問題もある。メモが盗まれたのは、真贋が判別される前なのだ。その場合、「エルマンからメモを買い取るべきではない」とした彼女の立場が通ることになる。

 やはりまだ何かがおかしい。仮定が間違っているのだろうか?

 考えながら歩いているうちに日は落ちて、ところどころに街灯がともるだけの薄暗い歩道を行く。広い道だが、ときどき車が通り過ぎるだけで、大学町の夜だけに長閑のどかなものだ。前方にパブの灯りが見えてきたが、やはり入らないことにする。ロンドンに早く帰りたい。アキラと長い夜を過ごしたい……

 しかし事件の真相がわからないまま帰るわけにはいかない。そんなことをしたら……

 “わからないまま”?

 一つ、エリーゼは思い付いた。ニュートンのメモの真贋がはっきりしない方がいい、という場合があったはず。ミクス・ウルフがそう言っていた。


 アンバリー …………EVEN(評価が変わらない)

 グレンジャー ………EVEN(評価が変わらない)

 アーネスト …………EVEN(評価が変わらない)

 エルマン ……………得   (ただし盗まれると残り半金がもらえず、損)

 ケインズ ……………EVEN(評価が変わらない)

 ウルフ ………………UP  (オークショニアとしての評価)


 言葉どおり、ミクス・ウルフは得をした。盗まれても評価は変わらないだろう。むしろ「盗まれたのは本物だからだ」ということになり、さらに上がるかもしれない。

 エルマン氏は「盗まれると損」ということにしたが、果たしてそうだろうか。訴えを起こせば、少なくとも「オークションで落札した際の金額を、図書館側は払え」ということになるだろう。盗まれたのは図書館の手落ちであって、エルマン氏は元の持ち主として“投資した金額”を保証されるのが当然だ。

 ではミクス・ウルフらがヴァネッサに依頼して、メモを盗ませたのだろうか。エリーゼはヴァネッサのことはよくわかっていないが、つながりが薄いように思える。少なくとも一人仲介者が必要だろう。直接的にはアンバリーだが、彼はメモを本物と信じており、盗まれることは望まないのだ。そうすると……

 こういう場合、中立と考えられている立場の人物を、疑う必要がある。エリーゼの経験則に基づく考え方だ。

 どの条件においても“EVEN(評価が変わらない)”とされた人物。つまりドクター・アーネストということになる。彼が得をする場合が、果たして存在するのだろうか?

 エリーゼはため息をついた。ようやく最後のヒントを、アキラからもらう時が来たようだ。


(続く)

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