第1章 雨のシュトゥットガルト (後編)
日付が変わる頃に雨は止んだが。服は朝になっても乾かなかった。それは家に帰っていたとしても同じことだった。濡れた服を脱いで、薄っぺらい汚れた毛布にもぐり込んで、朝まで寝ながら待っていても、どうせ乾かないのだ。
夜明けと共にエリーゼは町をさまよい歩いた。希望はたった一つしかなかった。昨日の男を見つけることだ。アジア系の
ホテルを回った。顔見知りのベルボーイやベルガールに訊いた。タクシーの運転手に訊いた。
レストランへ訊きに行こう。駅前のアルンウルフ・クレット
靴を探した。カフェのテーブルの下に転がり込んでいた。テーブルの下に潜って、靴を拾い上げた。やっぱり紐が切れていた。でも、もう結び合わせることができないほど短くなっている。履きにくくても、我慢して履くしかない。しかし、もう走れないだろう。
ため息をついて、顔を上げたら、そこに座っていた男と目が合った。あの
「ハロー、
朝の光で見ても、やはり冷たい目をしていた。
「こんなところにいたんだ」
「お前が俺のことを探し回ってたのは知ってるよ。ホテルでお前の匂いがしたからな」
また匂いという言葉が出た。彼はそんなに嗅覚がいいのだろうか。
「私の服、そんなに匂うのかな」
「心配するな。服はたいしたことない」
「じゃあ、何の匂いなの」
「お前の体臭だ」
そうするとやはりこの男は嗅覚がいいのだろうか。それこそ犬のように。エリーゼは自分の手の臭いをかいでみたが、さっき拾った靴の匂いがこびりついているだけだった。
「それで、何の用だ」
「私、仕事がしたい。仕事ちょうだい。何でもするから」
「そういや、昨夜は
男がポケットに手を入れてから、何かを放り投げた。慌てて手を顔にかざしたら、吸い込まれるように掌の中に入ってきた。コインだった。1ユーロ硬貨。
「1000ユーロももらったのに」
「あれは財布の代金だ。お前の仕事に払ったんじゃない」
「じゃあ、私の仕事代が1ユーロ……」
「その程度だよ」
いい腕だったと褒めてくれたはずなのに、1ユーロなのか。がっかりした。掏摸の腕を買ってくれたと思っていたのに。
急に、腹が鳴った。男が新聞を読みながらブレートヒェンを食べるのを見ていたからだろう。男はそれをかじった後で、「座れ」という手振りをした。横の椅子に座る。男がウェイターを呼んだ。口の中の物をコーヒーで喉に流し込んでから「ブレートヒェン二つと、
「ありがとう……」
「自分で払え。1000ユーロ持ってるんだろ」
ポケットに手を入れた。もちろん、そこに1000ユーロはあったが、ぐっしょり湿ったままだった。
「それとも親に取られたのか」
「
先にミルクだけが運ばれてきた。なぜコーヒーを頼んでくれなかったのだろう。子供だと思われているからか。喉が渇いているが、食べ物が来るまで我慢することにした。
男を見ると、すごい速さで新聞を読んでいる。いや、とても読んでいるとは思えない。開いて、上から下まで目で舐めたら次のページ、それを繰り返してどんどんページをめくっていく。瞬く間に4紙読み終えた。それが終わったら雑誌のページをめくって……
「何してるの」
「新聞と雑誌を見てる」
「そんなに早く読めるわけない。それとも、特別な
そういうものがあるのだけは知っていた。目に入る全ての文字を一瞬で読んでしまう技……
「読んでるんじゃない。見て憶える。必要になったら後で頭の中で読むんだ」
それはエリーゼの理解を超えていた。
「
「名前で呼べよ。ダイシュウって言っただろ。呼びにくかったらダイスでいい」
「じゃあ、ダイス、仕事は何?」
「
「嘘だよ、そんなの」
「なら、何に見える」
答えられなかった。困ったので、違うことを訊いてみる。
「昨日の財布は、落とした人に返せたの」
「もちろん。ただし、俺の友人が返しに行ったがな」
ようやく注文した食べ物が運ばれてきた。ダイスが注文したので彼の前に置かれたが、それらを次々とエリーゼの前に押しやってきた。エリーゼが濡れた100ユーロ札を差し出すと、ウェイターは変な顔をしたが受け取ってくれた。
「
ダイスが鞄と傘を持って立ち上がった。
「待ってよ!」
慌ててエリーゼも立ち上がってダイスの傘を掴んだ。
「自分で払えって言ったろ」
「仕事ちょうだいよ!」
「あんな仕事が毎日あるわけない」
「何でもするから!」
「お前の目がいいのはわかってるんだが、他に何ができるのかなあ」
目がいい、というのはどういうことだろう。掏摸のテクニックは評価してくれないのだろうか。1ユーロ程度だからだろうか。
「……
本当はできない。ずっと以前にほんの少し練習しただけだ。簡単な南京錠すら開けたことがなかった。
「そいつは間に合ってる」
「盗み聞き」
「間に合ってる」
「男の人を油断させる」
「お前じゃ無理だよ」
やはり子供だと思われているらしい。胸はこれから大きくなると思っているのだが。
「見張り」
「泥棒じゃないんだ。必要ない」
「……
「それだけは絶対するな。そこのもさっさと食っちまえ」
皿の上のハムとチーズを手で取って口に突っ込んだ。ゆで卵はポケットに入るし、ブレートヒェンは手で持っていればいい。ミルクはどうしようか。ウェイターがお釣りを持って来てテーブルに置いた。あれもポケットに入れなければならない。
「連れて行ってやってもいいが、誘拐になるな」
「……家出してきた……」
口の中がいっぱいでちゃんとしゃべれなかった。飲み込んだら、チーズの塊が喉に引っかかって苦しかった。
「……もう帰りたくない」
「お前の親が警察に届けたら捕まるんだよ」
「捕まらない。絶対捕まらないから」
「さあ、どうかな。しかし、その格好のまま連れ回すのは無理だ。もっとましなものを着てこい」
エリーゼは自分の姿を見た。グレーのプルオーヴァーはあちこち黒ずんで
「でも、他にいい服持ってない」
「買ってこいよ。金持ってるだろ」
「待っててくれるの?」
「ああ」
ミルクを飲み、お釣りをポケットに入れて走り出した。いや、走れなかった。靴のせいだ。
早足で歩き回り、服屋を探すが、どこも開いていない。10時から開く店が多いのだ。まだ朝が早い。
それでも歩いて、小さな店が開いているのをようやく見つけた。入ると店主が嫌そうな顔をした。試着もせず――どうせさせてもらえない――シンプルな白いブラウスと黒いレギンスを買った。それから靴屋を探して、黒いスニーカーを買った。建物の陰で着替え、古い服を持って駆け出した。古い靴だけその場に置いてきた。
しかしカフェに戻って来たら、ダイスはいなかった。座っていたテーブルには、別の客がいた。辺りを見回してもいない。近くを探しても見つからなかった。やっぱり連れて行ってくれないのか。
諦めきれずにカフェに戻って、日本人の客を憶えてないかウェイターに訊いてみた。
「君、リースヒェン・ミュラー?」
「……そう」
いきなり名前を訊かれた。そうだと答えるしかない。ウェイターは「ちょっと待って」と言うと、店の中に入ってすぐに戻って来た。
「これを渡せって言われた」
新聞だった。確か、ダイスが読んでいたものだ。どういうことだろう。ウェイターはまだ目の前に立っている。
それより、なぜ新聞を渡されたのだろう。これを読んで勉強してから出直せということなのだろうか。それまでは仕事なんてまだ早いということだろうか。あるいは新聞スタンドで働けということか。
「家に帰りたくないのに……」
悲しくなった。新聞なんて、破って捨ててしまいたかった。売ったら1ユーロ以上になるかもしれないが……
中央駅に向かって歩き始めた。ダイスはそこにいるかもしれない。そこで列車を待っているかもしれない。駅前のカフェにいたということは、これから別の町へ行こうとしていたのではないか。自分だって、ポケットにあるお金を使えば、どこにでも行けるはずだ。ドイツ鉄道だって、Sバーンだって……
道路を渡ろうとして、ふと手に持った新聞を見た。たたんであったが、そこは1面ではなかった。ポルシェの広告だった。
(何、これ……)
ポルシェの
(何、これ……)
もう一度思った。メモにしてはおかしい。これだけでは意味を為さない気がする。丸の下のが十字ではなくプラスなら、その下に数字なり文字なりが書かれていているものだろう。そうすると、これはエリーゼへのメッセージではないだろうか。この意味がわかったら、連れて行ってくれるということではないか。
エリーゼは急に胸がドキドキしてきた……
(続く)
註:ポルシェのワッペンは以下をご参照ください。
<https://de.wikipedia.org/wiki/Porsche>
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