第1章 雨のシュトゥットガルト (後編)

 日付が変わる頃に雨は止んだが。服は朝になっても乾かなかった。それは家に帰っていたとしても同じことだった。濡れた服を脱いで、薄っぺらい汚れた毛布にもぐり込んで、朝まで寝ながら待っていても、どうせ乾かないのだ。

 夜明けと共にエリーゼは町をさまよい歩いた。希望はたった一つしかなかった。昨日の男を見つけることだ。アジア系の異邦人アウスレンダー。中年で、穏やかな顔つきで、冷たい目の男。その男に会えば、道が開ける気がした。何の根拠もなくエリーゼはそう思った。

 ホテルを回った。顔見知りのベルボーイやベルガールに訊いた。タクシーの運転手に訊いた。近郊鉄道Sバーンの駅員に訊いた。シュトゥットガルト中央駅の駅員に訊いた。しかし誰もその異邦人アウスレンダーを知らなかった。

 レストランへ訊きに行こう。駅前のアルンウルフ・クレット広場プラッツを横切って、ラウテンシュラーガー通りシュトラーセへ。息せき切って、歩道のカフェを走り抜けようとしたら、派手に転んだ。足が滑ったのかと思ったら、靴が脱げたのだった。たぶん、靴紐が切れたのだろう。もうボロボロだったから。

 靴を探した。カフェのテーブルの下に転がり込んでいた。テーブルの下に潜って、靴を拾い上げた。やっぱり紐が切れていた。でも、もう結び合わせることができないほど短くなっている。履きにくくても、我慢して履くしかない。しかし、もう走れないだろう。

 ため息をついて、顔を上げたら、そこに座っていた男と目が合った。あの異邦人アウスレンダーだった。

「ハロー、お嬢ちゃんメッチェン。何か用か」

 朝の光で見ても、やはり冷たい目をしていた。

「こんなところにいたんだ」

「お前が俺のことを探し回ってたのは知ってるよ。ホテルでお前の匂いがしたからな」

 また匂いという言葉が出た。彼はそんなに嗅覚がいいのだろうか。

「私の服、そんなに匂うのかな」

「心配するな。服はたいしたことない」

「じゃあ、何の匂いなの」

「お前の体臭だ」

 そうするとやはりこの男は嗅覚がいいのだろうか。それこそ犬のように。エリーゼは自分の手の臭いをかいでみたが、さっき拾った靴の匂いがこびりついているだけだった。

「それで、何の用だ」

「私、仕事がしたい。仕事ちょうだい。何でもするから」

「そういや、昨夜は駄賃トリンクゲルトを渡すのを忘れてたな。取っとけよ」

 男がポケットに手を入れてから、何かを放り投げた。慌てて手を顔にかざしたら、吸い込まれるように掌の中に入ってきた。コインだった。1ユーロ硬貨。

「1000ユーロももらったのに」

「あれは財布の代金だ。お前の仕事に払ったんじゃない」

「じゃあ、私の仕事代が1ユーロ……」

「その程度だよ」

 いい腕だったと褒めてくれたはずなのに、1ユーロなのか。がっかりした。掏摸の腕を買ってくれたと思っていたのに。

 急に、腹が鳴った。男が新聞を読みながらブレートヒェンを食べるのを見ていたからだろう。男はそれをかじった後で、「座れ」という手振りをした。横の椅子に座る。男がウェイターを呼んだ。口の中の物をコーヒーで喉に流し込んでから「ブレートヒェン二つと、ハムシンケンチーズケーゼゆで卵ゲコホテス・アイ。それからミルクミルヒ」。

「ありがとう……」

「自分で払え。1000ユーロ持ってるんだろ」

 ポケットに手を入れた。もちろん、そこに1000ユーロはあったが、ぐっしょり湿ったままだった。

「それとも親に取られたのか」

ううんナイン、持ってる」

 先にミルクだけが運ばれてきた。なぜコーヒーを頼んでくれなかったのだろう。子供だと思われているからか。喉が渇いているが、食べ物が来るまで我慢することにした。

 男を見ると、すごい速さで新聞を読んでいる。いや、とても読んでいるとは思えない。開いて、上から下まで目で舐めたら次のページ、それを繰り返してどんどんページをめくっていく。瞬く間に4紙読み終えた。それが終わったら雑誌のページをめくって……

「何してるの」

「新聞と雑誌を見てる」

「そんなに早く読めるわけない。それとも、特別な速読術シュネルレーゼンなの?」

 そういうものがあるのだけは知っていた。目に入る全ての文字を一瞬で読んでしまう技……

「読んでるんじゃない。見て憶える。必要になったら後で頭の中で読むんだ」

 それはエリーゼの理解を超えていた。写真のように記憶フォトグラフィシェス・ゲデヒトネスする! 想像はできるが、一体何枚の写真を頭の中で記憶できるというのだろう? そして、それを後で読む? そんなに細かく憶えられるのだろうか。

おじさんマイン・ヘル、仕事は何なの?」

「名前で呼べよ。ダイシュウって言っただろ。呼びにくかったらダイスでいい」

「じゃあ、ダイス、仕事は何?」

車のセールスマンアウトフェルコイファー

「嘘だよ、そんなの」

「なら、何に見える」

 答えられなかった。困ったので、違うことを訊いてみる。

「昨日の財布は、人に返せたの」

「もちろん。ただし、俺の友人が返しに行ったがな」

 ようやく注文した食べ物が運ばれてきた。ダイスが注文したので彼の前に置かれたが、それらを次々とエリーゼの前に押しやってきた。エリーゼが濡れた100ユーロ札を差し出すと、ウェイターは変な顔をしたが受け取ってくれた。

ゆっくり食えよグーテン・アペティートじゃあなゼーエン

 ダイスが鞄と傘を持って立ち上がった。

「待ってよ!」

 慌ててエリーゼも立ち上がってダイスの傘を掴んだ。

「自分で払えって言ったろ」

「仕事ちょうだいよ!」

「あんな仕事が毎日あるわけない」

「何でもするから!」

「お前の目がいいのはわかってるんだが、他に何ができるのかなあ」

 目がいい、というのはどういうことだろう。掏摸のテクニックは評価してくれないのだろうか。1ユーロ程度だからだろうか。

「……錠開けエントシュペレン

 本当はできない。ずっと以前にほんの少し練習しただけだ。簡単な南京錠すら開けたことがなかった。

「そいつは間に合ってる」

「盗み聞き」

「間に合ってる」

「男の人を油断させる」

「お前じゃ無理だよ」

 やはり子供だと思われているらしい。胸はこれから大きくなると思っているのだが。

「見張り」

「泥棒じゃないんだ。必要ない」

「……食い逃げゼッヒプレレライ

「それだけは絶対するな。そこのもさっさと食っちまえ」

 皿の上のハムとチーズを手で取って口に突っ込んだ。ゆで卵はポケットに入るし、ブレートヒェンは手で持っていればいい。ミルクはどうしようか。ウェイターがお釣りを持って来てテーブルに置いた。あれもポケットに入れなければならない。

「連れて行ってやってもいいが、誘拐になるな」

「……家出してきた……」

 口の中がいっぱいでちゃんとしゃべれなかった。飲み込んだら、チーズの塊が喉に引っかかって苦しかった。

「……もう帰りたくない」

「お前の親が警察に届けたら捕まるんだよ」

「捕まらない。絶対捕まらないから」

「さあ、どうかな。しかし、その格好のまま連れ回すのは無理だ。もっとましなものを着てこい」

 エリーゼは自分の姿を見た。グレーのプルオーヴァーはあちこち黒ずんでり切れているし、ジーンズは穴だらけ。靴も買い換えないといけない。

「でも、他にいい服持ってない」

「買ってこいよ。金持ってるだろ」

「待っててくれるの?」

「ああ」

 ミルクを飲み、お釣りをポケットに入れて走り出した。いや、走れなかった。靴のせいだ。

 早足で歩き回り、服屋を探すが、どこも開いていない。10時から開く店が多いのだ。まだ朝が早い。

 それでも歩いて、小さな店が開いているのをようやく見つけた。入ると店主が嫌そうな顔をした。試着もせず――どうせさせてもらえない――シンプルな白いブラウスと黒いレギンスを買った。それから靴屋を探して、黒いスニーカーを買った。建物の陰で着替え、古い服を持って駆け出した。古い靴だけその場に置いてきた。

 しかしカフェに戻って来たら、ダイスはいなかった。座っていたテーブルには、別の客がいた。辺りを見回してもいない。近くを探しても見つからなかった。やっぱり連れて行ってくれないのか。

 諦めきれずにカフェに戻って、日本人の客を憶えてないかウェイターに訊いてみた。

「君、リースヒェン・ミュラー?」

「……そう」

 いきなり名前を訊かれた。そうだと答えるしかない。ウェイターは「ちょっと待って」と言うと、店の中に入ってすぐに戻って来た。

「これを渡せって言われた」

 新聞だった。確か、ダイスが読んでいたものだ。どういうことだろう。ウェイターはまだ目の前に立っている。チップトリンクゲルトを待っているのだろうか。1ユーロを渡すと「ありがとうダンケ」と笑顔で言って店に戻っていった。初めてチップを払った。しかし、掏摸の駄賃もこの程度なのか。

 それより、なぜ新聞を渡されたのだろう。これを読んで勉強してから出直せということなのだろうか。それまでは仕事なんてまだ早いということだろうか。あるいは新聞スタンドで働けということか。

「家に帰りたくないのに……」

 悲しくなった。新聞なんて、破って捨ててしまいたかった。売ったら1ユーロ以上になるかもしれないが……

 中央駅に向かって歩き始めた。ダイスはそこにいるかもしれない。そこで列車を待っているかもしれない。駅前のカフェにいたということは、これから別の町へ行こうとしていたのではないか。自分だって、ポケットにあるお金を使えば、どこにでも行けるはずだ。ドイツ鉄道だって、Sバーンだって……

 道路を渡ろうとして、ふと手に持った新聞を見た。たたんであったが、そこは1面ではなかった。ポルシェの広告だった。

(何、これ……)

 ポルシェの紋章ワッペンの左上に、赤い丸が付けられていた。紋章ワッペンは盾の形の中央に「前足を上げた馬」。その周囲は四つに分かれていて、左上と右下が「三本の鹿の角」、右上と左下が「黒と赤の横縞」。そのうちの「三本の鹿の角」に丸。そしてその下に十字が書かれている。

(何、これ……)

 もう一度思った。メモにしてはおかしい。これだけでは意味を為さない気がする。丸の下のが十字ではなくプラスなら、その下に数字なり文字なりが書かれていているものだろう。そうすると、これはエリーゼへのメッセージではないだろうか。この意味がわかったら、連れて行ってくれるということではないか。

 エリーゼは急に胸がドキドキしてきた……


(続く)


註:ポルシェのワッペンは以下をご参照ください。

<https://de.wikipedia.org/wiki/Porsche>

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