第3話 小野から実忠を引っ張り出す兄達

「……と言うことだ」


 小野に向かった実頼は、相変わらず引きこもったままの弟に向かって父の言葉を残らず伝えた。


「聞いているのか? 実忠」


 黙って実忠はうなづく。


「父上がご病気だということは私も耳にして結構経ちます。何とかしてお見舞いにあがりたいと思ってはいたのですが、未練がましくこの世に生きていると、人に見られるのも恥ずかしく」


 何を情けないことを、と実頼は内心思う。


「それにもう私は以前の自分とはずいぶん変わっています。軽蔑されないだろうか、と心配で」

「父上にか?」

「そうです、いえ、……それだけではありません。世間が、兄上も、皆怖いのです。……ですが、こんなにご病気がひどくなっていたなんて…… どうして伺わないでいられましょう」


 そうか、と実頼はほっとする。言い分はともかく、小野から発つことには同意してくれたようだ。



 善は急げとばかりに夜の間に小野を発つ。

 既に邸には事情を実正から聞いた右大臣正頼もやって来ていた。脇息にもたれかかった季明は二人を招き入れ、しばらく何からと話をする。

 やがて実頼がやってきて「実忠が戻りました」と告げた。


「こっちへ呼んでくれ」


 季明は息子達に頼む。だが実忠は正頼が居るのに気付き、兄達が幾ら呼んでも一向に出て来ようとしない。屏風の後にそっと控えているばかりだった。

 しばらくすると昭陽殿の君もやってきて、季明の側について何かれと世話をし始める。

 やがて季明は正頼に向かい、あらたまった口調で切り出した。


「気がついたらこんなに病も重くなってしまい、もう長くないと思う。……まあ私はいい。もう歳も歳だし。人が惜しむ様なことも無い…… 自分でもそう思う。七十を越えて太政大臣などという大役を仰せつかり、お勤めしてきた。私はそれで満足だ。それだけに、心にかかるのはこの二人のことだけなのだ」


 ああ、と正頼は重々しくうなづく。


「実頼もまだ官位が高いとは言えず、心配ではあるのですが」


 そこでじっと弟を見る。婿としてきちんと後見を、ということを無言で訴えている様に正頼には感じ取れた。元々望みがある青年だったから婿に取ったのだ。その点は問題無い。


「昭陽殿も、心配ではあるのだが……」


 心配の一つであるが、その種が正頼の娘にもあるが故、季明は口を濁した。


「……それよりもっと問題は、心配なのは、実忠のことなのだ。あれのことを思うと死んでも死にきれない。勝手に世捨て人になったのだから、放っておけばいいとも思うのだが、出来の悪い子程可愛いとでも言うのだろうか…… どうしてもあれが可哀想で仕方がない。頼む、どうか折りにつけ気にしてやって欲しいのだ」


 そう言いながら正頼の手を取る季明の目からは知らず、涙があふれ出していた。


「世を捨てたなどと自分で思いこんでいる様だが、いつかその様な物思いの中から救い出してやって欲しいのだ」


 正頼はちら、と実忠が近くに居るのを確かめてから、声を強めて言った。


「実忠どの、珍しくも戻られたというなら、何故父君の元に顔を出さない!」


 それから兄に向かい、


「実忠どのについてはずっと昔より深い心の持ち主だと思っております。我が家に住み着いていた頃はずいぶんと仲良くしたものです。ですがここ数年山籠りの日々を送っていた様で。何か世を厭う様なことがあったのでしょう。うちの末の娘を勧めた時にそれも受けられなかったので、他の娘に思いをかけていたのかと疑いました。……心当たりが無い訳でもなかったのですが」


 屏風の裏の実忠の気配が少し変わる。


「今の藤壺で仕えている娘のことですが。あの子はまず先に帝から『涼に』と宣旨がありました。しかしそれを耳にされた東宮様から私はひどく叱られました。それで入内に踏み切ったのです」


 あえて自分達の思惑ではなく、東宮の無理強いに近い―――少なくとも自分達はそういう立場なのだ、ということを正頼は強調する。

 はっきり告げておかないと、屏風の裏で身を縮こませている青年は納得もあきらめもできないだろう。


「実忠どのについてもっと、その気持ちや何やら、私に直接言って下さることがあったなら、私も彼にあの頃のあて宮を差し上げたことでしょう。元々良い若者と思っておりました。下手な男よりはずっと、と。うちの不肖の息子達よりずっとこれからも大事にしたいと思っております」


 すると季明はぼそぼそとつぶやきだした。


「実忠よ…… やっとのことで戻ってきたならば、どうしてこの父の元に来ないのか! この父には顔も合わせたくないと思うのか!」


 正頼は兄をひどく哀れに感じた。それでも「不肖の息子」は出てこようとしないのだ。


「……出てきたくないならそれでもいい。実正、形見分けをしたいと思うから、文にしておくれ」


 はい、と返事をし、実正はすぐに筆を用意する。

 その内容は実にきっぱりとしたものだった。

 まず、所有する大殿三つのうち、現在住んでいる場所と、次に大きな所をその中に納められている荘園からの品や由緒ある宝を含め、昭陽殿の君に。そして三つ目を実忠の妻に、と。


「何かしら使えそうな手回りの品があるだろう。それを含めて与える様に」


 耳にしていた実忠は、半ばぼんやりとしている頭で何故妻に、と訝しむ。  


「実忠には娘を儲けた妻が一人居ただろう。娘もずいぶん大きくなっただろう。あれが浅ましい過ちを冒したせいで、可哀想なことをしてしまった。世間の評判も良かった女なのに。罪滅ぼしと思って欲しい」


 実際にはそれだけではないだろう、と正頼は思う。何と言っても、この血筋には貴重な存在であるはずの娘が少ない。本当に譲りたいのは妻の方ではなく、姫の方だろう、と正頼は考える。

 実正と実頼にはあちこちの領地を、それぞれ全く同じ様に分けてやる。そして家と領地以外のものを昭陽殿と実忠に、と記させ、署名と花押をする。

 出来上がった文を正頼に目を通してもらい、何か問題はないか、これからの心配は、等と話し合う。その都度この兄弟は涙する。陰から聞いている実忠も、さすがにここまで来ると、涙を抑えきれない。……なのに、顔を出すことができない。

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