1.ハリ星系の惑星ミントでの怠惰な生活

「おはようございます」


 窓一杯の日差しと、女の声で目が覚めた。

 顔を黒い布で隠した女は、やはり身体の線をもたっぷりとした黒い服で隠したまま、銀色のワゴンを押して入ってくる。

 彼はのそり、と身体を起こす。女は部屋の真ん中にワゴンを置くと、軽く頭を下げ、手を額にかざすと、黙って部屋から出ていった。

 ワゴンの上には、ふたが大きく、底が広い、鮮やかな藍色のポットと、同じ色のジョッキ、それに果物と、薄焼きのパンが置かれていた。

 彼は気だるい身体をゆるゆると動かすと、寝台の上で足を伸ばし、大きく両腕を上に上げた。いつもの通りの、朝だった。この惑星に来てから、幾度となく、繰り返された。

 ハリ星系の惑星ミントの朝は、長い。

 正確に言えば、一日が、長い。共通標準時における、36時間が一日であるこの惑星においては、太陽が空の真ん中に浮かぶまでの時間もまた長い。

 人々は、その長い朝を、ゆったりと楽しみ、それから活動に入る。

 気温が高いが、乾いた空気のこの地は、最初の移民団の中でも、近い気候の出身の人々が、生活基盤を形作ってきた。居住できる土地は、決してこのミント全体の中では多くは無い。赤道近い場所は、幾つか存在する大陸のいずれにおいても、砂漠地帯である。

 しかし極近い部分には、大陸は無い。大小の島が点在するだけである。広範囲に人間が快適に居住できるのは、アワイーブ大陸の、北東と南西の、海と川に面した広い平地だけであった。移民した人々も、やがてその二つの地域に都市を作り始めた。

 それが、現在のミントの二大勢力都市、アウヴァールとワッシャードの始まりである。

 とはいえ、さしあたり、彼の朝にはさほどそれは関係無い。

 寝台の脇に掛けてある、この地特有の、長い上着を取ると、彼は身体に引っかけた。ゆったりとしたこの服を彼は嫌いではない。

 ボタンはかけずに、彼はワゴンに近づくと、ポットの中身をジョッキに空ける。白い、とろりとした冷たい液体が、藍色の中に溜まっていく。口に含むと、それはひどく甘いのに、意外にもさっぱりとした口当たりである。身体の中が、その酸味で刺激され、目覚める。


「何か、あった?」


 彼はそれを口にしながら、不意に言葉を飛ばした。


「別に、何も」


 問われた相手は、似たようなゆったりとした服をつけ、ニュースペイパーを手に、ゆっくりと彼の側まで歩み寄る。呑む? と彼は相手に訊ねた。ありがとう、と相手は答え、ペイパーと自分自身を床の上に置いた。

 広げたニュースペイパーを片立て膝で読む相手に、彼は自分と同じ色のジョッキに液体を注ぎ、手渡す。


「何か、あるじゃない」


 彼もまた、かがみ込むと、ニュースペイパーを反対側からのぞき込む。


「さしあたりは、無い、ということさ」

「ふうん。あんたの目にはそう見えるの、イェ・ホウ」

「君の目には、どう見える?」


 優しいが、試す様な口調に、彼は顔を上げる。


「別に、何も」


 彼はうっすらと微笑む。相手は、その表情に誘われる様に、彼の顎を軽く捕らえると、つやつやとしたその唇を軽く盗む。彼はそのまま、ニュースペイパーの上にぐっと身体を乗り出すと、相手の首に手を回す。膝の下には、ワッシャード中央議会での混乱があった。

 何も無い。少なくとも今の自分の目には。Gはそう思う。今は休暇なのだ。誰か、が自分の行方を探り当て、次の仕事を命じるまでは、自分はあくまで休暇なのだ、と彼は思う。

 その時の自分は、誰でもない。

 少なくとも、全星域最大の反帝都政府組織「MM」の幹部構成員のGでは―――彼はそう思いたかった。

 そして相手が、「反MM」組織である「Seraphセラフ」の幹部であることなど。そんなこと、考えたくない。

 だから彼はつぶやく、今は休暇なのだ。

 あの連絡員が、自分を見つけるまでは、あくまで、休暇なのだ。たとえこの、今自分を抱きしめている相手が、自分の正体を知っていようが、おそらくは、未来の自分に会っているのだとしても、それは今この瞬間の、自分には、どうでもいいことなのだ。

 その時間は、いつまで続くか判らない。だからその間だけは、足元で火がつこうが、そんなことはどうでもいいのだ。危険は承知だった。


「でも、気になる?」


 唇を離し、彼はイェ・ホウと名乗る相手に訊ねた。それが本名である保証は無い。自分の本当の名は、知られているというのに、相手のそれは知らない。

 イェ・ホウはそうだね、とつぶやく。


「無粋かな?」

「さあ」


 彼は首を傾げる。膝の動きでよれたニュースペイパーに再び視線を落とすと、そこには、爆発の後の惨状が生々しい写真がある。


「これは、日常茶飯事かな。俺は聞いたことないけど」

「俺も、この地に関しては、君達の組織がどうこうした、という情報は掴んでいないよ」

「あんたが言うなら、そうなんだろう」

「君は聞いてないんだろう?」


 涼しげな視線が、彼に投げられる。彼は首を横に振る。


「俺が知っていることなんて、微々たるものだよ」

「そう?」

「そうさ」


 そうだろうか。彼は首を傾げる。そうかもしれない。そうでないかもしれない。どちらでもいい。考えるのが、億劫になっていた。


 この地で何があろうが、俺には関係ない。


 ただ今の、この怠惰な生活が、少しでも長引くことになればいい、と考えていた。

 それはそう長くは続かないことを、彼も知っていたのだ。


 イェ・ホウがこの地で彼と自分自身を住まわせていたのは、大陸の南西のワッシャードの勢力範囲内である、港湾都市アガシャイドである。

 ワッシャードの中心街ロゥベヤーガの午後のカッフェーでGを見つけたその男は、そのまま彼を陸用車の助手席に乗せて、アガシャイドの、海近くに建てられた、白い、四角い石造りの家へと連れてきた。

 出会った時には中華の店で料理人をしていた男と、この邸宅が、Gにとってはなかなか上手く頭の中で絡み合わなかったが、すぐにその違和感は抜けた。何処にどの様な格好をしていようが、この男の態度は基本的には変わらなかったのだ。

 伸ばされた腕は、あくまで彼を求めている。少し強引なまでなその腕は、ややもすれば、今現在ここに居る理由をあれこれと考えてしまう彼にとって、ひどく心地よいものだった。

 ただ、その時間は限られていることも、彼はよく知っていた。

 やがてやって来る。あの男が。

    

 そして、やってきた。

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