第12話 アルファメール

 錚々たるメンバーが揃った懇親会もお開きとなり、静寂が戻った夕日の差し込む客室で二人きり、軽めの夕食を摂って準備を整え、少々古風な正装に身を包んだヴィクター様の後についてボールルームへ向かう。今夜がヴィクター様が今回のロンドンに滞在される最後の舞踏会だ。

 巨大なシャンデリアが煌めく下で華やかな衣装に身を包んだ紳士淑女たちが集い、独特な熱気と賑わいに包まれる中、ヴィクター様は最初にお見かけした日とは打って変わって背筋を伸ばしてフロアを見渡し、その存在を誇示するようにゆったりとボールルームの中央を縦断する。普段でも目立つ長身のヴィクター様は更に注目を集め、背後にぴったりと付き従う私にも視線が注がれる。

 主催者と貴賓にご挨拶された後、フロア全体が見渡せる一番の貴賓席に陣取られると、たちまちのうちにご挨拶の行列が長く伸びていく。


「このような振る舞いで宜しかったかな? 我が侍女殿」

「はい。このようにあられてこそです。グレンタレット辺境伯、ヴィクター・クロムウェル閣下」


 舞踏会が始まり、最初の曲目のカドリールを主催者のご夫妻とそのご令嬢とともに踊られたヴィクター様は私に次の曲目とお目についたご令嬢の出自を尋ねられる。

 最初は一際目を引く美貌のご令嬢、次は有力な名家の深窓のご令嬢、今度はデビュタント間もない幼さの残るご令嬢…… 機会をうかがう若い紳士たちを軽くあしらい、皆がチャンスを伺うご令嬢に次々と声をかけてダンスに誘い、たどたどしい足取りのパートナーを見事にリードして複雑なステップを優雅に舞う。

 そうして、ヴィクター様はひとときのロマンスを夢見るご令嬢からの羨望の眼差しを集め、若い紳士たちは負けじと瞳に情熱の炎を燃やす。そうしてフロアは今までにない熱狂に包まれ、あっという間に時が過ぎてゆく。


「次はヴェニーズ・ワルツ、本日最後の曲目になります。今度はどなたを誘われますか?」

「最後のワルツか、そうだな……」


 ヴィクター様がラストダンスに誰を誘うのか、フロアにいる全員の興味がその一点に集まり、その一挙手一投足が固唾を呑んで見守られる中、ヴィクター様は何も言わずに向き直って琥珀色の瞳に私を映す。


「ご主人様。それは、いけません」

「いや、何の問題もない。そうだろう?」


 穏やかに問いかけるヴィクター様の獲物を狙う獣のような鋭い眼光に射竦められ、背筋が凍りつき、心臓が早鐘を打つ。

 ヴィクター様はこの場の支配者で、私に拒否権はない。


「……はい、何も、問題ありません」

「ならば」


 ゆっくりと大きな動作で片膝を付き、跪いて手を取り、再び私の目を見つめる。


 ダメです。ヴィクター様。


 祈るように見つめ返す私の思いに気づきながら、ヴィクター様はそれを無視するように優しく微笑まれ、息が詰まるほどに胸が締め付けられる。


「ルーシー嬢、このヴィクター・クロムウェルとラストダンスをともにしていただけませんか?」


 ヴィクター様は言い終わると私の手を軽く引いて手の甲にキスをされる。

 ダンスの誘いは断ってはならない。

 唇の触れた手の甲から電流が走るようなしびれが伝わり、背筋にゾクリと寒気が走る。

 先日とは訳が違う。辺境伯が侍女に跪き、手を取って口づける。あってはならない光景にボールルームが緊張感で静まり返る。

 自分の鼓動の音だけがはっきりと聞こえる中、静かに深呼吸をしてヴィクター様の瞳を見つめ返し、覚悟を決める。


「……はい、ヴィクター・クロムウェル閣下。喜んでお受けします」


 悲鳴に似た歓声が沸き起こり、ヴィクター様のエスコートに従ってフロアの中央に進み出る。


「やはり、君でなくてはダメなようだ。迷惑はかけないつもりだったのだがな」

「……お気になさらず」

「まぁ、そう怒るな」

「怒ってなど、おりません」


 正直に言えば迷惑どころの話ではないけれど、こうなっては仕方ない。侍女のエプロンを着けたままのドレスの裾を持ち上げて一礼し、ヴィクター様の手を取って寄り添い、背中に添えられた大きな手に体重を預ける。

 高鳴る鼓動も、震える手足も、こわばる身体も、全てヴィクター様の手の内だ。


「何の心配もない。私がついている」

「はい……」


 通奏低音のように心地よい囁きとともに力強く抱き支えられ、一瞬で緊張が溶けてふわりと身体が浮く。

 そして、曲が始まり、ヴィクター様のリードに合わせて大きな一歩を踏み出すと、操られるようにステップとターンを繰り返し、華やかに加速していくヴェニーズワルツとともに、きらびやかなボールルームの景色が流れ、シャンデリアの光がキラキラと軌跡を描いて回る。

 幻想的な光景に魅せられて何も考えられなくなり、陶酔の世界でヴィクター様に身を任せ、ただひたすらに夢の中を舞う。

 瞬く間に曲が終わりに近づいて、なんとか侍女としての意識を取り戻し、蝶が花に止まるようにフィニッシュのステップを揃える。


「残念。今度は倒れなかったか」

「今回ばかりは、皆様の面前でご主人様に抱きかかえられる訳にはまいりません」

「ははは、気の強い娘だ」


 拍手と歓声にフロアが沸く中、手を取り合ったまま席に戻ると、主催者がヴィクター様と私に感謝の言葉を述べられ、舞踏会はそのまま盛況のうちに閉会を迎えた。


 この状態で一緒に客室に戻ることはできないので、ヴィクター様がボールルームに残って皆様と交流されている間にこっそりと先に客室へ戻り、明日ロンドンこちらを発たれるヴィクター様の荷物を整理し、就寝の準備を整えるうちにヴィクター様が戻ってこられ、ふらふらと一目散にソファに座り込まれる。


「おかえりなさいませ。ご主人様。お飲み物をご用意いたします」

「ああ、ありがとう。ルーシー。休んでいてもらって良かったのだが、明日の準備までしてくれていたのか」

「はい、勝手ながら」

「全く、君には頭が上がらないな」

「ダメです。ご主人様。相手は侍女なのですから、しっかり頭を上げて、もう二度と私の前で跪くようなことはなさらないでくださいませ」

「む、その通りだ。違いない。……約束はできないがな」


 お話をする間にスコッチ・ウイスキーとチェイサー、お昼に用意していたスコットランドの伝統料理であるハギスをお出しする。


「おお、ハギスか! こんなものまで用意してくれたのか!」

「初めて作りますのでお口に合うかどうか……」


 ハギスというのは羊の内臓と玉ねぎとハーブを刻んでオーツ麦と混ぜたものを羊の胃袋に詰めて蒸した料理なのだけど、一つ逸話があって……


「さてどうか、私はこれにはうるさいぞ」


 目を細めて嬉しそうに言いながらウィスキーを豪快に回し掛け、付け合わせのポテトと一緒にフォークですくって大きな一口を召し上がられる。


「うむ、美味い! 文句を言うなら、少々上品過ぎるというくらいだな」

「ありがとうございます」


 スコットランドにはハギスという生き物が住んでいて、それを料理したものがハギスだという民間伝承フォークロアだ。


「ふふふ、市場で活きの良い野生のハギスが売られていたので締めていただいたのですよ」


 そう言った瞬間、ヴィクター様が愉快げに目を細め、声を上げて笑われる。


「ははは、そうか。私も子供の頃はよくハギスを狩りに馬に乗って野山に出かけたものだ。とうとう大人になるまで出くわすことは無かったがな」


 それから、少年時代を過ごされた故郷の話、ネス湖の怪物を探しに行った話、奥様との恋の話などを懐かしそうに話され、そのうちにグラスを空にしてチェイサーを飲み干される。


「ルーシー、今夜は、側にいてくれないか?」

「……はい、仰せのままに」


 私の答えに黙って頷いて寝室に向かわれるヴィクター様の背中を見送り、食器を片付けた後、身だしなみを整えて、深呼吸をする。

 もしもヴィクター様がその気になられたら、抵抗できずに貞操を許すことになる。それはあってはならない事、だけど私の身体は、きっと、心も、それを望んでいる。

 服を脱いで肌着だけを身にまとい、覚悟を決めて息を整えて再び寝室のドアをノックし、返事を待たずにドアを開けた。

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