第2話 最先端の未亡人

 クツクツと音を立てるケトルの持ち手をミトンを嵌めた手で持ってティーポットとカップにお湯を注いでトリベットに置き、ティーセットが温まるのを待ってお湯を捨てる。傍らにおいた紅茶の缶の蓋を開けて香りを確かめてから、スプーンで二杯をポットに入れ、再びケトルのお湯を勢い良く注ぎ込むと、湯の中で茶葉が踊り、葉を開きながら透明の中に琥珀色を滲ませる。そして、ポットに蓋をし、ティーコジーを被せ、スコーンが二切れ乗った皿とティーセットをトレイに乗せる。ミラー家の娘として挨拶と言葉遣い、立ち居振る舞いの次に覚え、それから毎日変わらず行う朝の儀式でもある。


 トレイを片手に持ち、執務室の扉をノックし、返事を待たずに音を立てないように扉を開けて入室し、静かに扉を閉じる。正面に据えられている磨かれた紫檀の執務机の向こうには、瀟洒な黒のドレスを身に纏いウェーブの掛かった銀髪を肩の上辺りで切り揃えたブルーグレーの瞳を持つ美貌の貴婦人が朝日の射し込む窓を背に、こちらを一瞥することもなく大きな紙にペンを走らせている。


「おはようございます。奥様、朝食をお持ちいたしました」


 返事はないのはいつものことだ。執務室には長く、短く、ペンを走らせる軽快な音だけが響く。


 エドワーズ家当主サラ・エドワーズ、旧姓サラ・バーネットが初めてこの家に来たのは十七年前、私が五歳で、エドワーズ家の当主アーサー・エドワーズ男爵がまだご存命の頃だった。

 最初はモード・ファッションのアトリエ兼ブティックとして、この邸宅を間借りしたいと訪れたことに始まり、ほぼもぬけの殻の状態だった邸宅が収入になるのであれば願ったり叶ったりだということで二階建ての邸宅の一階の殆どをサラ奥様に貸し出すことになった。

 その後、奥様はこの邸宅に住み付くようになり、両親を従業員として雇ってブティックを経営する傍らで病の床に伏せるアーサー卿に献身し、ついには倍ほども歳の離れたアーサー卿と結ばれることになった。

 貴族と平民の婚姻は禁忌ではなくなったものの、批判的に見る人は圧倒的に多く、「爵位と結婚した」「金と身体で男爵を籠絡した」などと揶揄されながらも、サラ奥様はそれを気にすることもなく夫婦として暮らし、社交界に出入りするようになり、親族との交渉の末に手放した領地を取り戻し、誰からも男爵婦人として認められるようになった頃、突如アーサー卿が他界される。

 奥様は泣き腫らした目を黒いヴェールで隠しながら、葬送の一切の手続きを滞りなく済ませ、結果、生前誰からも見放される没落貴族であったアーサー卿は、多くの貴族や領民に見送られる中で男爵としてふさわしい最期の時を迎えられた。

 そして、サラ奥様はその場でアーサー卿のお子を身籠っておられることを発表し、名実ともにエドワーズ家の当主となった。


 ペンの走る音が止まり、サラ奥様は描き上げた図面を暫く見つめて深く静かに息を吐き、丸めて執務机の横の図面立てに放り込む。


「おはよう、ルーシー。待たせたな」

「いいえ、奥様」


 執務机の図面が敷かれていた場所を布巾で拭き、トレイを置いてティーカップにお茶を注ぐ。奥様はナフキンを膝に広げた後スコーンを無造作に掴み、紅茶に漬けて齧り、マーマレードを塗ってまた齧る。紅茶味とマーマレード味を交互に味わい、二切れのスコーンをあっという間に平らげて残った紅茶を飲み干し、ティーポットに残ったもう一杯をカップに注ぎ切る。


「新作が完成した。それだ」


 サラ奥様の視線が机のそばに置かれたトルソーを示す。のっぺらぼうの頭部には大きな鍔の付いた小さなハットが被せられ、胴体に着せられたドレスは背中と胸元が大きく開いてウェストからヒップにかけてボディラインに沿うシンプルで優美なカーブを描き、継ぎ目なく続くスカートは花の蕾を思わせる豊かなラインが広がって裾の方で慎ましく窄まる。深い青の一色で統一されたそのドレスは窓から差し込む朝日を受け、息を呑むような存在感を放っている。


「……言葉になりません。ただ、ただ、美しい」


 新作をこうして披露される度に胸が疼き、前世の記憶がよみがえる。このデザインが持つ美の哲学はおそらく、この時代よりも前世の記憶の時代に近いものだろう。


「当然だ。だが、この美しさを理解できるものはまだ少ない。まったく、貴族の連中ときたら、埃を被ったお婆様のお下がりのドレスを未だに有難がる。なんと滑稽なことか」


 サラ奥様は涼し気な切れ長の目を細めてドレスを見つめ、頬に手を添えて愉快そうに笑われる。


「それはお言葉が過ぎます。奥様も、今は貴族であるエドワーズ家の当主なのですよ」

「ははは、その通りだ。君のご両親から学んだ貴族としての心得をないがしろにしてはいけないな」

「恐れ入ります」

「君は時に、没落貴族の使用人の娘だったとは思えない事がある。その頭の良さもそうだが、メイドとして振る舞う裏で何か特別な感性を隠し持っているようだ」


 妖艶な笑顔をこちらに向け、ブルーグレーの瞳に私を映す。


「それは、使用人として奥様に学んだ結果で、学問と知識はアーサー卿から教えを賜ったものです」

「……そうか。君がそういうのなら、そういうことにしておこう」


 首を傾げてニヤリと笑った後、すっかり冷めた二杯目の紅茶を一気に飲み干される。


「それでは、試着してもらおうか」

「畏まりました」


 トルソーの側に歩を進め、壁際に立てかけられた大きな姿見に身体を向ける。姿見には朝日が差し込む執務室、深い青で統一されたモード・スタイルのドレスを着たトルソー、その後ろに立つサラ奥様と鏡越しに視線を合わせる。


「失礼致します」


 エプロンのリボンを解いて肩を抜き、手早く畳んで傍らのチェストの上に置き、ドレスを脱いでその上に重ね、ヘッドドレスを外し、靴と靴下を脱いで肌着だけの姿になる。その間にもサラ奥様はトルソーのドレスを脱がせている。このドレスのデザインでは肌着は着られない。シュミーズを脱ぎドロワースを降ろして足から抜くと、ひんやりとした空気が敏感な素肌に触れる。改めて正面を向くと姿見には一糸纏わぬ姿の自分と、ぴったりと後ろに立って鏡越しに私の身体をじっくりと観察するサラ奥様が映っている。


「また少し、女らしくなったな。いくつになる?」

「二十二です」


 白く細い指先が肩に触れ、肩甲骨を伝い、ウェストのラインをなぞり、ヒップラインを確認する。冷たい指がもたらす甘い刺激に身体が敏感に反応し、胸の先端がきゅっと固くなるのを感じる。気づかれないように少し俯き、吐息を漏らす。


「男にこうして触れられたことは?」

「……ありません」

「艶やかな黒髪ブルネット、夜空を映すダークブルーの瞳、大きな目、筋の通った慎ましやかな鼻と華奢な顎のライン…… 君ほど美しい娘がもったいない」


 私の頬に触れながら再び鏡越しに視線を合わせ、首を傾げてため息混じりに言う。


「私としては早いうちに良いお相手を見つけて欲しいものだ。そのために手を尽くしてカレッジに入れ、社交界にも出入りさせているわけだしな」


「奥様のご配慮には感謝しておりますが、まだ、そのようなことは……」

「少し、真面目すぎるな。君が自分の幸せを追うというのなら、私もやぶさかではない。ミラー夫妻には恩があるし、あの人からも君の将来を託されているからな」

「いいえ、奥様。エドワーズ家に仕えることが、私の幸せです」

「そうか。ふふ、その意志が変わる日を楽しみにしている」


 渡されたドレスの上部から足を入れ、絞られたウェスト部分にヒップを通してバストの部分を胸に当てると、サラ奥様が背中のリボンを結んでハットを斜めに被せてくれる。


「回って」

「はい」


 姿見に映る自分を確認し、ドレスの形態に合うよう指を揃えて両腕を軽く開き、その場でゆっくりと回る。試着の際の作法はサラ奥様の新作の試着モデルをするようになり、多くの注文に応えるために前世の記憶を頼って身につけたものだ。


「こっちへ来なさい」


 指を頬に当てて私を見つめて少し口角を上げ、執務机の向こう側に回って机の上のジュエリーケースからネックレスとブレスレットを、机の下からヒールを取り出して「着けて」と無造作に渡す。それらを身に着けて再び鏡の前に立つと、先程までの自分とは違う、まるで現実とは思えない存在がそこに映る。


「歩いて」


 スカートの裾に合わせて歩幅を決め、背筋を伸ばして上半身を固定し、細いライン上を歩くように歩を進め、ドアの前でターンして再び鏡の前に戻る。


「ふふ、良いな。美しい」

「ありがとうございます」


 その後、サラ奥様は暫くの間、近くから遠くから、角度やポージングを変えてドレスのフォルムを観察し、「ご苦労だった」と言って満足気にハットを取って背中のリボンを解かれる。


「今日はサマーホリデーが始まる祝いの舞踏会に行く。フィリップの卒業祝いでエドワーズ家嫡男としての社交界デビューだ。君はこれを着ていきなさい」

「フィリップ様のお祝いを、このドレスで、ですか?」

「そうだ。君は今このドレスを美しいと言っただろう。文句はないな」

「……はい、奥様」


 この三年の間に花の都で成功を収められたサラ奥様は、格式ある社交界のドレスコードを無視したデザインのファッションを次々に発表し、去年あたりから私に着させて半ば強引に舞踏会や晩餐会に出るようになった。

 海の向こうで名を馳せたサラ奥様はこちらでも一躍有名になり、今では型破りなドレスで社交界に出入りすることも黙認されるようになっている。


「君はフィリップをどう思う?」

「素晴らしいお子様だと思います。アーサー卿に似て、とても頭が良く、心優しい子です」

「そうか。私に似なくて良かった。これでエドワーズ家も安泰だな」

「決してそのようなつもりで申し上げたわけでは……」

「この間卒業の手続きで会いに行ったが、見違えるほど立派に成長していた。君の言うとおり、あの人にそっくりだ。早く会いたがっていたよ。今でも君と結婚する気なのかまでは聞いていないが」


 意地悪そうに笑うサラ奥様と話をしながらドレスを脱ぎ、先ほど脱いだ仕事着に着替えて身だしなみを整える。


「あの時のフィリップ様はまだ幼かったですから」

「そうかな? 今のフィリップに会えば君の心も揺らぐかもしれんぞ。フィリップと君の子なら、さぞかし美しい子になるだろう」

「奥様、ご冗談が過ぎます」

「ふふ、あながち冗談でもないのだがな」


 ヘッドドレスを着けながら言う私を見て愉快げに笑い、ふぅと溜め息を吐かれる。


「フィリップはもう十四になる。爵位を継ぐのはまだ先だが、この家の中では当主として振る舞ってもらう。そこで、これから君はエドワーズ家の使用人ではなく、フィリップの侍女として働いてもらうことにする」

「はい、喜んで承ります」

「一つ注意がある。あの子の顔と性格は、放っておけば悪い女が寄り付いて間違いが起きかねないだろう。君には、その、なんだ、フィリップの男の部分をしっかり躾けて管理して欲しい。できるか?」


 このように曖昧な指示を口籠りながら言うのはサラ奥様にしては珍しい。その真意を思慮し、すぐに思い当たる。女と間違いが起きないように男の部分の躾と管理するというのは、つまり、性教育とお夜伽のことだ。


「それは…… 善処いたします」

「その過程で君と間違いが起こっても、それは許そう」

「奥様、やはりご冗談が過ぎます」


 それ以上はサラ奥様の表情を見ることなく、手早くティーセットを片付けて「失礼します」と奥様の執務室を後にした。

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