祝の花守

薄井氷(旧名:雨野愁也)

序章

第0話

 ――それは、恐ろしいほどに冷たい目をした、身の丈は天を衝こうかというほどに巨大な「人」だった。

 男は自分の見たものが信じられず、幾度も目をこすった。しかし、「それ」は悠然とそこに佇み、絶えず凍てつくような視線を男に投げかけてくる。


「あ……、……な」


 あんたは誰だ、何者だと問おうとしたその口が、恐怖のためにこわばって動かない。視線を逸らすこともままならず、男は「それ」に釘付けになっていることしかできなかった。


 そもそも男が「それ」に遭遇したのは、数刻前まで遡る。山奥にひっそりとある、寂れた神社の境内で、男は「神石しんせき」と呼ばれるものを探していた。それは、噂によれば、一辺が十尺を超えるような巨大な石で、それを前にして祈りを捧げると、たちまちに願いが叶うのだという伝説が、男の住む村ではまことしやかに語り継がれていた。ただし、その代わりに莫大な代償を求められるのだともいわれていた。それに、その神社までの道はひどく危険なもので、道は整備されておらず、大きな川や吹きさらす風が行く手を阻み、さらに神社自体が険しく高い山の上に建っており、そのことも人々の気持ちを挫いた。


 近頃、男の住む村では雨が降らない日々が長く続き、田はすっかり干上がり、川の水も涸れてしまっていた。顔なじみたちも一様に疲れ果て、ただでさえ楽ではない生活がさらに苦しくなってしまっていたのである。そんな状況を何とかすべく、男は周囲の制止を振り切って「神石」探しの旅に出たのだった。代償を恐れていないわけではないが、男は天涯孤独で、家族などいなかったため、ほかの人よりは失うものが少ないと考えたのだ。


 神社までの道のりは非常に長く、想定よりも遥かに厳しいものだった。普段誰も立ち入らないような山々に分け入り、鬱蒼とした草木をかいくぐり、その頂上にある目的地を目指した。手にした小さな鎌で道なき道を切り開き、何度も滑落しそうになりながら岩をよじ登った。幾度と迫った危機を乗り越え、身体中傷だらけになりつつも、ようやく神社にたどり着いたのだ。日の光の差さない薄暗い中を懸命に探したが、それらしいものはなかなか見つからなかった。それほどまでに巨大な石であればすぐに見つかるだろうと考えていたが、甘かったようだ。


 もう無理かと諦めかけ、一休みしようかとその場に腰かけた時、まさに自分が座っている石が巨石であることに気づいたのである。男は嬉々として跪き、雨が降るようにと石に願いをかけた。


 そして、時は冒頭に戻る。


 男は祈ったが、一向に何も変わらない。やはり噂に過ぎなかったのかと肩を落とし、男が帰ろうとしたその時だった。


「我の縄張りを荒らすのは、いったい誰だ?」


 大地を揺るがすような声が辺りに響いた。男は驚いて声の主を探したが、それらしい人影は見当たらない。


「……汝か?」


 再び雷鳴のような声がこだまする。男が恐る恐る上を見ると、そこには巨大な「人」が立っていたのだ。あまりに大きいため全身を見ることはかなわないが、見える部分から察するに、どうやら女のようだ。


「恐れを知らぬ人間め、よくも我の領域を汚したな。さあて、どうしてくれようか」

「ひっ……い、命だげはお助げを!! おら、こごがあんだの縄張りどは知らねがったんだ!」


 生命の危機を悟り、男は訛りの強い言葉で、やっとのことで叫んだ。


「ふん、それは我の気分次第だ……ん?」


 次の瞬間、巨大な女はゆっくりと膝を折り、ずいと男に顔を近づけた。女が動いた衝撃で、周囲の木々がざわめき、女の足元に生えていた巨木がいともたやすく折れてしまった。


「汝、よく見るとなかなか美しい顔をしておるな。……よし、こうしよう。命は助けてやる。その代わり……」

「その代わり?」


 男はただおうむ返しをすることしかできなかった。


「汝の全てを貰おう」

「……はあっ!?」


 男の出せる限りの大声が森中に響いた。


「全で、って……具体的には何を?」

「汝の人生全てを、だ」


 女がそう言うや否や、辺りはたちまちまばゆい光に包まれた。


「うっ……」


 男はあまりの眩しさに目をかたく瞑った。


 しばらくして、男は片方ずつゆっくりと目を開けた。光は既に収まっていた。何が起きたのか確かめようと、男はきょろきょろと周囲を見回した。すると、遠くに誰かが立っているのが見えた。肉眼では白い服を纏っているらしいことしか確認できず、男はその者に声をかけてみることにした。


「おーい、そごのあんだぁ、さっぎの光を見だが……ん?」


 走って近寄ってみると、それは女のようだった。身の丈は男よりもやや低い。彼女は振り向き、男を見据えた。


「あ、あんだ、もしかしで……!」


 ……凍り付くような目をしたその女は、うっすらと妖艶な笑みを浮かべて男を見ていた。

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