第34話 次の拠点へ 終 その5

 現在の敵との距離は、大体50メートル前後。俺は腰に携えていた剣を鞘から引き抜き、背負っていた盾を左腕に備えた。


 さすがに遠すぎる。構えるのはまだ早い。


 そんなことは分かっている。


 しかしこれくらいの距離になってだんだんと敵の姿、その異様さがはっきりと理解できるようになり、俺は構えずにはいられなかった。


 黒みを帯びた白色のうねうねと動く細い何かの集合体。その中の数本を伸ばして地を掴み、頭から被ったボロボロに引き裂かれたかのような黒い布を翻しながらこちらに近づいてくる。


 身体のバランスが悪いのか、時折その細長い身体が倒れ込むように地面に接近するも、その度に更に別の細長い何か数本が地面へと伸びて身体を支え、体勢を立て直す。


 奴が俺を見た。そんな気がした。


 全身の毛が逆立つような感覚と言い知れぬ不快感。


 あれに近づいてはいけない。近づいてくる。


 全身が悲鳴を上げるように震え始め止まらない。近づいてくる。


 腹の奥底から鉛のような寒気がじわじわと染み出してくる心地がする。止めろ、それ以上は。


 前へ進むことも、後退することも、横に身体をずらすこともできない。来るな。


 動けない。動けない。動けない。頼むから来ないでくれ。


 濁流の如き白い何かが目の前に迫る。


「春風!」


 どこかから誰かが俺を呼ぶ声がする。


 直後、暴風が俺の身体を撫でつけながら目の前を通過した。


 目の前のたくさんの白が遠く吹き飛ばされていくと同時に、俺も抗いきれず後方へ飛ばされ尻もちをつく。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ!」


 俺はひたすら酸素を求めて呼吸を繰り返した。


「何やってんだ!死ぬ気か!?」


 珍しく激昂する玄治の声が聞こえる。気づけば目の前にはあのスキンヘッドの男が立ち、敵を見据えていた。


 彼が助けてくれたのだろうか。


「春風!」


 後ろからも仲間の声が届く。拓海たちが駆け寄ってきた。


「大丈夫か?」


「ああ、とりあえずは」


「今のなんだったか分かるか?お前も動けなくなったんだろ?」


「分からない。あれは一体…?」


「お前ら、しゃべってる暇なんかねぇぞ」


 玄治が俺たちの会話に割って入って来た。


 彼の視線の先には既に体勢を立て直してこちらへと向かってくる敵の姿があった。


 身体が動かなくなる。


 震えと発汗が止まらくなり、あの怪物以外のものが視界から消えていく。


 再び暴風が吹き荒れた。


「うっ!」


 大きく後方に吹き飛ばされ、それと同時に身体の異変から立ち直る。


「拓海…大丈夫か」


「あ、ああ」


 俺の隣で俺と同じように荒い呼吸を繰り返す拓海。


 金縛りにも似たような今のが、あの敵の能力ということだろうか。


 この世界のことだ。何があっても不思議ではない。


「くっそ、見るだけでアウトとかふざけるにもほどがあんだろ…!」


 拓海の言う通りだった。これでは戦いにならない。


 逃げるしかないのか。


 今はちょうど敵から目を離しているが、あの金縛りは起こっていない。


 視界の外では、何度も風吹き荒れる音が聞こえてくる。あのスキンヘッドの男が戦ってくれているのだろう。


 どうしてあの人は動けるのか。この世界の人間が特別なのか。


 そういえば。


 あの敵を迎え撃つように、俺の横に並んでいた玄治はどうだったのか。


 俺と同じような金縛りに遭ったのか、そうでなかったのか。


 もしや今まさに、あのスキンヘッドの男と一緒に戦ってくれているのではないか。


「どうする春風。俺らじゃまともに戦えないし、多分他の連中も同じだ。せめて何人かは逃がしてやるべきなんじゃないのか」


「…一度みんなのところに戻ろう。なんとか奴を視界に入れないように」


 俺たちは顔伏せながら、なんとか仲間たちのいる場所へと向かう。


 敵から目を離していることに僅かな恐怖を覚えつつも、今はあのスキンヘッドの男のことを信頼するしかない。


「春風!まどかが!」


 仲間の元へ辿り着いた俺たちを迎えたのは、今にも不安と恐怖に押し潰されそうな表情をした優奈だった。


「どうした!?」


 慌てて千尋に抱き抱えられたまどかに駆け寄る。


「まどか…?」


 彼女の見開かれた目から零れた涙がこめかみのあたりへと伝い、開かれたままの口から涎が垂れている。顔も青白く、まるでゾンビのような形相だった。


「春風君!まどかが息をしてない!」


 目尻に涙を浮かべる千尋の悲痛な叫び。


「どけ!」


 周囲に群がっていた人たちを押し退けてまどか傍まで駆け寄り、しゃがみ込む。


 耳を彼女の口元へと持っていくが、呼吸の音が聞こえず、胸の上下運動もない。


 続いて首元へと指を当てた。


「脈はある!」


「ほんと!?」


 千尋も俺に続いて首元に自信の指を添えた。俺も念のため今度は、彼女の手首にうっすらと浮き上がる血管に指を当ててみると、指に返ってくる確かな感触があった。


「生きてる!まどかちゃん!」


 必死にまどかの身体を揺する千尋。


「千尋!人工呼吸は!?」


「やってみる!」


 千尋はまどかの顎を上げて鼻をつまみ、大きく息を吸った。そのまま自身の唇でまどかの口全体をしっかりと覆うようにして息を吹き込む。


 突然電流が走ったみたいにまどかの身体が大きく跳ねた。驚く千尋。


「千尋ちゃん…?」


「まどかちゃん!」


 涙を流し、まどかを勢いよく抱きしめる千尋。そんな彼女をまどかの瞳は確かに捉えていた。

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