第5話 龍の伝承
──昔々、まだこの地が奥の地と呼ばれていた時代に若い男がこの土地に住んでいた。
「あなたは一体何者だ」
男は水を汲みに井戸に向かおうとした途中で立ち止まった。この世の者とは思えない美しい女性が立っていることに気がついたからだ。思わず持っていた桶を落としてしまう。
「あなたこそ誰?」
咲いたばかりの桜の木に立つ女性はまだ肌寒い早朝だというのに薄着だった。透けるような肌の白さと、それを際立たせる黒い衣が印象的な女性。雪のような白さもそうだが、何より彼女の整った顔立ちはまるで、この世の者とは思えぬ雰囲気を醸し出していた。男をまっすぐ見つめる深い黒い瞳。
「俺は武黒だ」
二人は見つめあった。ふいに風が吹く。咲いたばかりだというのに散っていく桜の儚さがなぜかこの女性の雰囲気と合っていた。
──私は人間ではありません。
──それでも共にいたいのだ。
二人は恋に落ちた。しかし、この女性が奇妙だったのは雰囲気だけではなかった。彼女はなんと自らを龍の化身だという。だが、二人にとってそんなことは問題ではなかった。二人はやがて子を成し平和に暮らしいていた。
──そんなある時、若者が戦にかり出されることになった。
「俺は行く」
そう決めた若者の両足に、まだ幼い子ども達がまとわりついて泣いていた。若者の母親も泣き晴らした目で若者を見つめている。まだ戦火は遠い山の向こう。嵐の前の静けさとも言うべきか。やけに静かな夜で、子どもの泣き声と囲炉裏の火がパチパチ燃える音だけが響いていた。
「大陸から海を渡ってきた大軍なんだよ。勝てるわけなかろう。武黒や。逃げよう。まだ子どもも幼いのにあんたが死んだら」
若者の母親も告げた。死ぬという言葉を聞いて子ども達はいっそう激しく泣き出す。血気盛んな若者だが自ら志願するともなれば当然止めるのが家族というもの。だが妻もまた、愛する者を守りたい気持ちは一緒だった。
「武黒が行くというなら私も行きます。お義母様、子ども達を頼みます」
女性が口を開いた。予想外な言葉に母親も子どもも驚いた顔で女性を見ている。
「心配には及びません。私は龍なのですから」
覚悟を決めた女性の目を見て夫はうなづいた。涙目で見つめる子どもたちを女性はかがんで抱き寄せる。
「だからって……」
母親はやっとのことで口を開いた。
「龍である私をこの村の人は優しく受け入れてくれた。だから私も子どもたちをこの村を守りたいのです」
女性の決意は固かった。周囲は誰も止められなかったという。
それからしばらくたってのことだった。この国の北の地は、強く美しい龍が守っていると語り継がれるようになったのは。鳳凰と呼ばれる美しい鳥のような翼をもった龍であったことから
──しかし、この世に生を受けた者はいつか必ず死ぬ。
凰龍は龍ではあったと同時に、人間でもあった。女性は若くして病気で死んでしまう。妻の死を嘆き悲しんだ領主は凰龍の牙から刀を作り、領主が命つきるまで刀とともに領地を守ったという。いつしか龍の力を持ったこの刀自体が凰龍とよばれるようになった。刀は領主の強い想いと意志を守り続けるように、代々の領主の命を守り続けた。領主になった者もまた武黒の名と意志を継ぎ、巫女達と力を合わせて奥美の地と刀を守っているそうな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます