テレるふたり
λμ
キミら、テレワークしてくれ
緊急事態宣言から十五分後に放たれた室長の一言で、おれたちの在宅勤務が決まった。
のだが。
昨日までテレワークのテの字もなかったのだ。当然、誰も準備できてない。
「……いや、明日からは無理ですよね?」
おれの同期の『チベットスナギツネに目を逸らさせた女』ことミサキさんの意見は正しい。
室長は目をそらしながら、つづけた。
「とりあえず若いキミらで始めてみて」
「……は?」
ミサキさんの冷たい単音に、室長は怯まなかった。
「いや、キミらふたりが一番若いしさ。若いのがコロナなんでしょ?」
「……はぁ?」
やばい、とおれは思った。昨年の忘年会、ミサキさんは室長の頭に酌をした前科がある。
「あ、あぁぁぁぁぁっと! じゃあ! ちょっと! 試してみますね!?」
おれは大声で言った。ミサキさんのキツい視線が飛んできた。あの夜と同じだ。
瓶ビールを振りまくって室長の顔面にぶっかけ
そして。
「……テレワークって、なにすんの?」
翌日、おれは自宅で困り果てていた。
在宅勤務が嫌だというのではない――いや、パソコンとカメラを用意して、画角に変なものが映らないように確認し、自分が凄まじく不細工に見えてきてやめたくはなったが。
問題はそれらでなくて、業務だ。
個々人の仕事が独立しすぎていて、成果物を送る以外に、室長の想像するようなテレワークらしい活動がない。テレワークの可能性について報告するように言われているが、だいたい仕事のチェックをするのも室長なのに、
「……ミサキさんと、なにを話せと?」
同じ部屋で働いている同期――接点はそれしかない。この機会に親睦を深めるのもありかと思いはしたが、果たしてそれがテレワークといえるのだろうか。
そんなふうに悶々としていたら、ミサキさんから『テスト』用のアドレスが届いた。
「……ええい、ままよ!」
意味はわからないが言ってみたかった。
おれはURLを叩いた。画面に窓が開いて四角い黒縁メガネの――
「――えっ? 誰?」
「――えっ?」
画面の向こうの女性はメガネの奥で眉を寄せ、カメラに顔を近づけた。
ダボッっとしたニットの襟ぐりが垂れて下着がチラっと――
「ちょ、ちょっと待って」
おれは手をカメラと画面にかざして言った。
「え? ミサキさん? です?」
「えっ、あ、そうデス……けど……えっ? なんでスーツ……?」
「えっ?」
おれは画面に顔を戻した。ミサキさんを名乗る女性の、見慣れない黒縁メガネと顔の下半分を覆い隠すマスク越しでもわかる呆れ顔に、おれはシャツの襟を引っ張った。
「えっと……いや、仕事だし……?」
「や……それはそうデスけど……いやでも自宅でネクタイまでしマス? フツー」
「うっ……いや、えーと、まぁ、いいじゃないですか」
おれはタイを緩めて後ろに放った。
ミサキさんは両手でマスクを押さえて肩を揺らしていた。袖で手が半分かくれている。いわゆる萌え袖だ。
ぐっときた自分に恥ずかしくなり、おれは言った。
「いや、そっちはそっちユルすぎません? なんスか? そのニット」
「えっ? ああ、いや……えっ、服装の話はいいじゃないデスか」
「えっ? いやそっちが振ってきたんじゃ――」
「セクハラ……それセクハラ発言なのでは?」
「あー……えっ? いや、ちょっと待って」
おれは目を伏せ、両手でこめかみを揉んだ。動揺していた。当たり前だ。普段はパリッとした服を着ていて、コンタクトで、チベットスナギツネも目をそらしてしまうようなジト目を得意とする同期が、家ではダボっとゆるふわスタイルとかどうなん?
「いや、どうなん!?」
「えっ!?」
「いやごめん、待って」
思わず口にした非礼を侘びつつ、おれは手をかざして間をとった。
画面では、見慣れない姿のミサキさんがきょとんとしていた。可愛いなクソが。
んん! と、時節柄あまりよろしくないのを承知で咳を払っておれは言った。
「あのさ、なんかこう、ちょっと化粧も違う?」
「えっ?」
なにを聞いてんだおれは、と思ったときにはすでに、ミサキさんは照れたような仕草で髪の毛をくしゃくしゃしていた。
「あ、や、なん――っいうか、ちょっと、まぁいっかなー的な? 油断してたッスね」
「なんかちょっとチークとか強めにしてるよね」
「えっ? いやそこまで見ます? ちょっとそれは――」
「あ、いや、うん。それはほんとにそうで……って、あれ? なんかピンぼけしてる?」
「えっ? 自分のほうッスか?」
ミサキさんって家だと一人称『自分』なんだと思いながら、おれは画面に顔を寄せた。
「うん、なんか、なんだろ、ぼやっと……」
「えー?」
ミサキさんは眼鏡をおしあげて画面を睨み、マウスをカチカチ動かして、
「あ、申し訳ないッス。フィルターッスね」
ふっと画面のモヤがなくなり、チークが薄まり、こころなしか目が小さくなった。
なんだ、フィルターだったのかー、ハハハ……ハ?
「……えっ? フィルター? なんで?」
「――えっ? あっ……」
ミサキさんはマスクの上からさらに萌袖で口元を隠し、目を忙しく動かしていた。あきらかにうろたえている。その住所を特定されかけた配信者めいた反応に、おれはカマをかけた。
「……えっと、これ投げ銭って――」
「あ、まい……ど……」
ミサキさんは顔を覆った。耳まで赤くなっていた。
「えっ、マジすか」
「……や、黙っててもらっていいスか?」
「あ、うん、まぁえっと、別に誰かに話すようなことでもないし……?」
「えっと、なんスか? 自分もしかして脅されたりしマス?」
「えっ?」
「えっ?」
画面越しに目が合った。
ミサキさんは視線を外し、両手で顔を扇いだ。
「やっば……あっつ! うーわ……終わった……終わったし」
「や、え? 終わってないっていうか、うん、大丈夫、おれ言わないし……」
「うあー……マジかー……」
「えっ、あの? ミサキさん、聞いてる?」
「てか!」
ミサキさんは勢いよく顔をあげた。涙目になっていた。
「そっちも投げ銭とか! しょっちゅうやってる感じッスよね!? 痛み分けッスよね!?」
「えっ、あっ、いやでも投げ銭はほら――」
「どーうーでーすーかーねー? あーもう、あー……チェック? チェックしマス?」
「いやいやいや、ちょっと、ちょっと落ち着いて」
「誰? どこ? JD? JD狙ったりとかしてたりしマス?」
「ミ、ミサキさん?」
ミサキさんは、うー、とか、あー、とか唸りながら躰を左右に揺すり、頭を抱えた。パタパタ動く手が猫のしっぽのようで少し可愛らしく――
「ん?」
おれはそのとき初めてミサキさんの背景が気になった。ちゃぶ台ないしローテーブルにパソコンとカメラを置き、後ろにソファーがあるのだと思い込んでいた。それはベッドだった。そして猫耳ふうのヘッドセット(?)が転がっていた。
「え、あの、それ……」
「なんスか? 今度はなんスか?」
「その猫耳、つけてもらってもいいですか?」
「――ッッッッ!?」
ミサキさんは弾かれたように顔をあげ、首を振り――素早く立ち上がると大慌てで猫耳を掴んで、んにゃー! と画面の外に放り投げた。
そして、再び突っ伏した。頭から湯気ででてきそうなくらい、耳が赤くなっていた。
「あの、マジ、見なかったことにしてもらってもいいスか……?」
「いいけど……いいんだけどさ。なんなら、ちょっと嬉しいくらいなんだけどさ」
「なんスか? ドン引きなのは――」
「いや、引かない。引いてない。引いてないんだけどさ」
「なんスか……?」
言っていいものかどうか、おれは迷った。ミサキさんは気づいていない。あるいは忘れているようだった。黙っていれば何ごともなく終わるのだろう――が、それではいつかミサキさんはやらかしてしまうだろう。
「あの、下、ちゃんと穿いてます?」
「……えっ?」
画面の向こうで、ミサキさんが固まった。
「いやその、さっき立ったとき、チラっと……」
「えっ」
「いや黙ってようかなーって思ったんだけど」
「……えっ?」
「えっ?」
「あのそれって」
「いや違うの待って待って待って。やり直す。えっと、だからミサキさんが下を穿いてないのは分かってたんだけど」
「分か……?」
「えっ、あ、違う。待って」
なんとも気まずい沈黙だった。
おれは同期として、関係を修復・維持しなければと思った。そのためには条件を揃えるしかない。ミサキさんはおれに秘密を握られたと思っている。恥ずかしい思いをさせられた、と。
だから、おれは意を決して顔をあげた。マスクで直接は見えなかったが、ミサキさんも口を開こうとしているのが分かった。言わせない。それよりも早く言ってやる。ええい、ままよ。
「とりあえず、
「えっ」
やらかした――。
ミサキさんの眼鏡が内側から真っ白に曇った。
「――マジすか。じゃ、じゃあお願いしマス」
「えっ」
「えっ!? だ、だっていま自分で――」
「いやうん、脱ぐ。脱ぐけど」
「えっ?」
「えっ!?」
沈黙。
おれは喉を鳴らした。
「わかった。おれも脱ごう」
「う、ウス……」
妙な緊張があった。
「ただしミサキさんも穿かないように」
「えっ!?」
ボン! とミサキさんも真っ赤になった。
「ま、まじスか……? やばいッスね……」
「えーと……じゃあ、脱ぐから」
「えっ!? あ、えと、な、投げ銭……っ」
「やめろ」
おれは脱いだ。
室長には、テレワークは難しそうだと報告しておいた。
とてもじゃないが仕事にならない。
ただ、およそ二週間の在宅勤務、暇はしなそうだ。
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