精神病棟日記

喜多條マグロ

第1話:初日

 糞便移植(便微生物移植)で自閉症やうつ病やアレルギー等が改善されたという記事を見て、わたしは治った当人の意識は治る前と後とでどのくらい違うのだろうか?と考えていた。

 客観的にうつ病患者や自閉症患者が改善された状態というのは分かる。わたしや他の健常者から見て、その患者が健常者側に近づいた状態のことを指すのだろう。

 しかし、アレルギーや糖尿病と違い、うつ病や自閉症は自身の人格に関わってくる病気だ。

 そこでもし自分がうつ病や自閉症だったとして、糞便移植をうけた次の日に「治りました」と他人から言われて納得できるのだろうか?

 うつ病の場合は納得できる。というのも、うつ病になる前の自分と、現在うつ病である自分とを比較できるからだ。

 しかし、自閉症の場合はどうだろう?後天的な自閉症というのは存在しないから、うつ病と同じように自閉症前の自分と、自閉症後の自分というふうには比較できない。

 よく聞く「酒を知らないなんて人生の半分を損してる」という文句で例えてみよう。

 この場合酒が好きな人と酒が嫌いな人と2通りあるわけだが、もしこれを比較しようとするなら、人生が3度あると仮定すれば比較できる。つまり1度目の人生では酒を覚えた生活を送り、2度目の人生では酒を知らない生活を送り、3度目の人生でどちらの人生が楽しかったか?と結論を出せばいい。

 もちろん、人生は一度きりだからそんなことはできないのだが、それと同じように、自閉症が治る前と後との当人の意識の差というのは、わたしたちが自閉症であろうがなかろうが想像すらできないだろう。(もっと話を進めると、いま話題の「テセウスの船」のような問題になってくる。昨日の自分と今日の自分の人格が糞便移植によってそっくりい変わっても、同じ自分であり続けるだろうか?)

 しかし、障害者が健常者になるといった改善例の逆を見せることはたやすい。この物語の主人公、健常者で高校生である海藤を通じて、糞便移植や精神医学と逆のプロセスを辿っていき、うつ状態や自閉症的状態になっていくという改悪例。

 いったいどういう状況下において、の人間がうつ病になったり、自意識過剰になったり、感傷的になったり、自閉症的に他者との接触を恐れたり、挙句には自殺を考えるまでになるのか?

 自伝的小説としたのは、ここに起こったことや精神病院の現状も含め、この物語の主人公である海藤(15歳)とほぼ同じ事態を当時の筆者(17歳)が体験したからだ。

 

 目が覚めたとき、白い天井と規則正しく動く看護師風の人たちが見えた。

 自分の身体に目を移すと、腕には大量に刺さった点滴、下半身は布に覆われている。

 ああ、バッドトリップだな...こういうときの現実への戻り方はよく知っている。身体を思いっきり動かすと脳が刺激をうけるのかバッドから抜け出せるんだ。

 身体を思いっきり左に動かす、足がつったときのような麻痺を数十倍にした痛みがかえってきた。今度は右に動かしたが、まるで同じだ。

 そもそも自分の身体がまぶた以外に動かせないことに気づいた。だいぶ酷いバッドに入ったらしい。

 記憶を辿ってみる、たしか今回は100錠以上も市販の幻覚剤を飲んだはずだ...

 高校の始業式が終わったばかりでストレスが溜まっていた?いやそんなことはない。それよりも第一志望校に落ちた事がショックだった。

 市販薬遊びはこれまで2度あった。1度目は中学の第一志望校に落ちたとき。ぼくは現実が直視できず自暴自棄になっていた。いや、いまあの頃を思うと救いを求めていたのかもしれない。未成年で酒もタバコも買えない以上、ネットで未成年にでも買えて合法的にトリップできる市販薬を探し出し、貯金で買った。この遊びは事実いくらかの現実逃避をもたらしてくれた。しかし、その市販薬遊びも中学に馴染むにつれ辞めていったが。

 そして2度目が今回だが、その性質は全然違う。

 ぼく以外の高校生がよく市販薬遊びなりで現実逃避せずに頑張っているのが不思議でしょうがない。いやいや、分かっている。きっとほかの高校生はぼくの家みたいな旧世代的亭主関白はないのだろう。

 親父が会社の重役だからだろうか?令和になっても時代錯誤な亭主関白が存在するのは?

 平気で息子に手をあげ、テレビを壊し茶碗を投げつけ、夜中に家からぼくを放り出し鍵を閉めたあの親父を何度殺してやりたいと思ったことか分からない。

 子供の頃こそ抗議のために家のドアを蹴り、さらには泣いたり叫んだりしてみたが、すべてが虚しい徒労に終わった事を思い出すといまでも憎しみに襲われる。

 そして翌日には、決まってクラスメイトに「おまえまた家の外に出されたんだろ?泣き声がうちまできこえてたぜ」とからかわれる。これほどの屈辱はなかった!

 もし人生を小学生や中学生の頃からやり直せたら?というよく聞く質問、あれにぼくははっきりとごめんだと答えられる。2度も人生の苦痛を繰り返すのはごめんだ!

 論理の通じない親父を見返すには、殺すよりも偏差値の高い高校に入り順調に人生を進め親父より成功することだけに思えた。

 それが遊ぶ暇なく塾に通い朝から深夜まで勉強しても勉強しても、努力だけでは超えられない自分の限界を見たとき、なにかふっきれた気がした。中学のときにやった市販薬遊びに再び手を出した。

 段々と耐性がつき、結果100錠を超える量になったが、しかしこんなのは中学の時と同じですぐ辞められるのだ。

 看護師風の男がやってきて、目に光を当てた。

「海藤さーん、まぶたは動かせますか?」

 同意するようにまぶたを動かしてみる。

「大丈夫そうです」

「呼吸器のマスクを外してください」

 口を覆っていたものが外された。息が出来ないことに気づいた。

 息ができず苦しんでいると、どうやら息苦しさの限界が訪れて、次第に肺のあたりが燃えるように熱くなるのを感じた。

 もはや耐えがたくなったときやっとマスクと呼ばれた呼吸器を付けられ息が出来た。けれど息が出来ると、再び外され息ができなくなった。これの繰り返しだった。

「まぶたを動かしてください」

 うるさいなあと思いまぶたを閉じた。ずっと眠っていたかった。

「まぶたを動かしてください」

 さっきより強い口調で言うと指でまぶたを無理矢理こじ開けようとしてきた。絶対にいやだと思いぎゅっとまぶたを閉じた。

 まぶたの攻防戦を諦めたのか、看護師風の男はどこかへ消えた。

 こいつはよっぽどタチの悪いバッドらしい。

 遠くの方で看護師風の男の声が聞こえた。

「まるでダウン症児」

 その言葉に応じて女性たちの笑い声が聞こえた。

 ──数時間か半日か、どのくらい経ったのだろうか?全身が動かせるようになり、呼吸もできるようになった。鼻に繋がれたチューブも外された。

「ちょっと変な感じがしますよ」

 女性看護師はそう言うと尿道に刺さっていたチューブを抜いた。変な感じどころか酷い鈍痛だ。

 これがバッドトリップではなく現実だということはたぶんずっと前から気づいていた。しかし現実だと認めてしまうと、腕に大量に刺さった点滴や、その他痛みに耐えられないだろう。

 結果的にバッドトリップと思い込むことは成功したわけだ──ぼくは少し満足気に思いながら、病院で当日の日記を見直していた。


 WK 110豆乳 10分経過 効果現れず

 20分経過 めまいと軽い頭痛、吐き気と胃の不快感


 スマホにつけた日記はここで途切れている。10分毎に日記を付けていたから、おそらく30分経った頃に気絶したのだろう。そしてなんらかの事情で病院に運ばれたわけだ。

 入院して1週間ほど経った頃、嬉しいことに同級生の西野が見舞いに来てくれた。

 西野は高校に読書部が無いことに「考えられない!」と憤慨し、始業式が終わるなり手書きのポスターを同学年に渡して読書部を立ち上げようとしていた変人だ。さらに悪いことには、そのポスターは『自慰論』と題されたひどい内容だった!けれど彼といると退屈しない。

「読書部は結局立ち上げたん?」

「いや、あのポスター渡してたら担任に呼び出しくらってさ、やりきれんよな」

 ぼくはまったくだというように頭を縦にふる。

「今度はどんな内容のポスター書く予定?」

「うーん」と唸るなり西野はしばらくうろうろと歩いて考えていた。

 西野がなにか考えるときにうろうろしだすのは彼の癖だったが、しかし西野を見ていると、考えてる人は「考える人」の銅像のように縮こまるのではなく、彼のように立ってうろうろし出すのでは無いかと最近思うようになった。

「そういやぼくの入院について親はなにか言ってた?」

「いや、ちょっとした事故で入院してるって説明をうけたぜ」

 事故か。じっさい、なぜか自殺未遂との説明をうけたが、こんなのはほんとにことなのだ。

「それで、ほんとのところどんな事故で入院したんだよ?」

「ちょっとしたことだよ、そうだ、次は『自慰論』じゃなく、『自殺論』を書いてくれよ」

「そりゃ面白そうだけど、また呼び出しをくらうのはごめんだね」

 そう言うなり西野は皮肉っぽく笑った。前は断ったが、ここを出たら彼の作りたがってる読書部に入るのも悪くないなと思う。しかし、2人じゃ部の設立には到底届かないだろうな。

「そう?高校に戻ったら西野の読書部に入ろうと思ってたんだけどな」

「ふーん、前に誘った時は本なんて嫌いだって言ってたのに?」

「宣伝ポスターに惹かれたんだ」

 笑って誤魔化す。実際、小説よりも漫画やアニメの方が好きな性分だったが、なんとなく彼に賭けてみたい気になった。

「ヘーえ...前に中学では受験で部活入る暇なしだとか言ってたのに」

「なんかこう、もう限界が見えちゃったんだよ。その代わり高校生活は楽しもうと思ってさ」

 西野はまたしばらくうろうろしていたが、

「限界?そんなこと誰にだってあるだろうさ」

 じっさいそのとおりだ。そう、誰にだって挫折体験はあるし、特別ぼくだけが辛いわけではないのだろう。むしろ、ぼくが憎んでいる親父より、シングルマザーの西野の方が不幸の度合いは大きいように思える。

「もうそろそろ面会時間が終わりますよ」

 看護師がきて告げたので、この楽しい時間を終わらせなければならなかった。

「まったく西野の言う通りだよ。じゃあ、読書部の設立楽しみにしてるぜ」

「おれも1週間後楽しみにしてるよ」と言い残し西野は病室から去って行った。ぼくも1週間後の高校を楽しみにしていた...退院の当日、親父に「おまえを精神病院に入れることになった」と言われるまでは。


 筆者は西野についてあまり知らないが、西野のひいおばあちゃんであるツネさんについては良く知っている。

 娘の家に居候した頃からだろうか?ツネさんがあの独特の叫び声を発しはじめたのは?

 夫に死に別れたツネさんの娘は、寂しさからかツネさんを家に呼び、ツネさんも娘の家──といっても団地だったが──に住むようになった。

 パートで生計を立てていた娘が仕事でいなくなるたびに、もう仕事の出来ないツネさんは社会から見捨てられたような酷い恐怖に襲われた。話し相手がいないのだ。やがていつごろからか娘の家を這って歩き、冷蔵庫の食べ物や戸棚のお菓子を漁るのが日課となっていった。

 初めは甲斐甲斐しくツネさんの相手をしていた娘だったが、そのうちに孫である西野が生まれ、やがてツネさんは一家の邪魔もの扱いされていった。

 繰り返すのは戦争体験の話ばかりだが、そんなことはひ孫たちの気に入らないことを知っていた。しかし年老いたツネさんには戦争体験以外のどんな物語も思いつきそうになかった。

 それは頭の中で考えていることが、しばらく前から頭の上のほうで宙ぶらりんになり空中分解していたため、なにか新しく話さなければならないとき、非常に苦しんだためだ。

 自分の名前がツネだということは分かっているが、ツネという文字がまとまらず、頭の上で三画と四画との棒に空中分解してしまう。再認識はとても力がいることだった。

 例外的に戦争体験を苦もなく話せるのは、これまで何度も何度も繰り返し話してきたからにすぎない。それは初めがこうで終わりがこうと、頭の上でも空中分解せず、起承転結の言いつけを守っていたのだ。

 だから自分の年齢が話している戦争体験当時と合致したとき、まわりからボケたと思われたのだが、まったくそんなことはない。

 ツネさんの今の年齢、86歳と、戦争体験当時の10歳との年齢が、76年間が、ひとつの起承転結のドラマの中に圧縮されてしまっただけなのだ。それは長く生きすぎた記憶の装置の限界をも告げていた。

 一人取り残されたツネさんが、もう話すべき相手も、言葉もなく、「アアアアアアア」という独特の音をいつものように出していたとき、娘の訃報が飛び込んだ。

 戦争体験の物語のなかにすっかり隠れてしまっていた10歳のツネさんは、もうひ孫たちの姿、西野の姿も思い出せなかった。

 新しいことを認識するのはとても力のいることだが、ひ孫たち、このすぐ姿を変える見知らぬ人たちを再認識してひ孫と認めるのには大変な力が必要だ。そしてもうそんな力はツネさんに残っていない。

 西野の母は、初め老人ホームへ入れようかと検討したがどこも断られ、それほど金も無かったため、精神病院へ入院させることとなった。

 ツネさんはもう徘徊する力もなくしていたが、ただひとこと、言葉にもならない「アアアアアアア」という音を発することができた。

 閉鎖病棟とは、姥捨山の別名でもある。

 ツネさんが精神病院の地下1階、閉鎖病棟で「アアアアアアア」と叫ぶ音がまだ聞こえる。やがて痺れを切らせた看護師がやってきて、ツネさんをきつくしかるのだが、もうなにも理解できないツネさんは、当然の抗議として叫び続ける。それは生後すぐの赤ん坊が泣くのと同じく、動物としての根本的な抗議だ。

 誰にも理解されない叫びが、精神病院の地上一階で物憂げに座っている海藤にも聞こえるのだろうか?

 

 ぼくは精神病院の待合室で座りながら、なぜこんなことになったのか考えていた。

 そもそも今回の件がなぜ自殺未遂として処理されたのだろうか?実際は市販薬遊びが度を越しただけなのに?

 息子が不良だと親父の経歴に傷が付く?しかしそれなら自殺未遂で精神病院に入れることの方がよっぽどデメリットではないか?

 だいたい初めから精神病院に入れるつもりなら、ここ2週間の勉強はなんの意味があったのだろう?

 西野がくる前、まだ腕に点滴をつけられていたころ両親が見舞いにきたことがあった。

 親父は鬼のような形相をしていたし、母はうつむいていて、瞬時に悪い予感がした。

 だから親父がベッドに近づいてきたとき、いつものように殴られると思い身構えたくらいだ。

 親父は「勉強しとけよ」とだけ言い残し教科書とノートの入ったバッグをベッドの横に置き出ていった。母からは今回の件をすっかり聞かされた。

 市販薬の飲み過ぎで一時心臓が止まったこと、医者から一生目を覚さない可能性もあると言われたこと、集中治療室に運ばれたこと、今回の件が自殺未遂として処理されたこと、回復状態に向かったので2週間近くで退院できること、等々...

 泣きながら話す母を見ながら、言いようのない嫌悪を感じていた。

 ──しかしその2週間の勉強は意味が無かったし、初めから精神病院に入れるつもりなら尚更おかしい。

 いや、そもそも親父の経歴など関係なく、家庭内の邪魔者を家から放り出したいだけなのかもしれない。(なぜなら家にはぼくの他にも妹がいる!)いや、いや、いや...どこまで考えてもきりがない。

「34番の方診察室へお入りください」

 アナウンスが鳴り響き、母に軽く小突かれぼくの番だということが分かった。

 精神病院といっても待合室や診察室は他の病院と変わらず、医者もどちらかと言えば優男に見えた。

 優男風の医者は新川という名前が胸のプレートによって見てとれた。新川医師の後ろにはもう一人医者か看護師か分からない若い男性が立っている。

「海藤雄一さんですね、お座りください」

 新川医師の指示通りパイプ椅子に座る。

「親御さんからお話しは聞かせて貰いましたが、自殺願望があるそうで?」

「まさか、自殺したいなどとは思ってません。ちょっと市販薬の遊びが度を過ぎただけで...」

「アホか!お前のその自殺未遂のせいでどんだけ周りに迷惑かけたか分かっとんのか!」

 横から親父の怒声が鳴り響いた。と、同時に母のすすり泣く音。

「ええ加減にせえよ、これ以上母さんを心配させる気か?」

「まあ、少し落ち着いてください」

 医師の声によって静止される。

「自殺願望が無く遊びだとおっしゃりましたが、しかし結果から見れば自殺未遂にあたります。なぜなら、なんの動機もなしに自殺する人がいないのと同様に、遊びで自殺を図る人など有り得ないからです。

 じっさい、雄一さんには市販薬を度を越して飲むほどのストレスがあったと考えるのが当然でしょう」

「しかし遊びと言ったのは、ラリって楽しくなるためで...その、例えばアル中のような」

「なるほど、アルコールや市販薬に頼るほど辛いことがあり自殺願望を抱いたと?」

「...はい...実は、受験のストレスで...でも、精神病院に入れるほどのことは無いと思います」

 答えるのに戸惑ったのは、ぼくのプライバシーな経験を他人に明かすのが恥ずかしかったからだ。しかしすぐそれよりも悪い事態になったことに気づいた。先ほどまで否定していた自殺願望が、「はい」と言ってしまったことによって取り返しがつかなくなったのだ。

「それはおかしいやないか、受験のストレスで自殺未遂おこすんなら、お前でなくてもみんな自殺する事になる。でもお前の同級生で市販薬飲みすぎて死にかけたって話は一つも聞いたことないわ」

 親父が横やりを入れる。それは自分でも薄々気づいていたことだったから、なにも言い返せそうになかった。

「結局お前はこんなんで逃げただけちゃうんか?他の子に比べて心が弱いだけとちゃうんか?」

 胃がキリキリと痛む。「黙っとっても解決せえへんぞ、この先どうするつもりやねん、こんなんで親に恥かかして」

 新川医師は話がそれたからか顔を曇らせ、「自殺企図に関して言えば、雄一さんは、中学生の頃にも市販薬を大量に飲んでいたと親御さんから聞かされました。入院で様子を見て、今後また同じようなことが起こらないか確認することが大事なのだとよく分かってください」

 すると中学の頃にも市販薬遊びをしたのはバレていたのか、一体いつごろから?考える間もなく、追い討ちをかけるように母が

「大丈夫よ、精神病院に入ったって一カ月で出てこれるんだから。先生はあなたが心配だから経過を見ようと仰っているのよ。それに私たちもこの先心配で...」

 母のすすり泣く音が続く。親父は腕を組み脚を揺らしながら、「そんなんやから友達もできひんのや」と独り言のように言った。

 いや、友達ならいた。現に同級生が見舞いに来てくれたではないか?それに、今まで友達ができなかったのは、もっぱら受験勉強のためではなかったか?

「けど、友達なら入院中面会に...」

「ああ、あの母子家庭の子か」

 親父のことばに思わずカッとなり、「今は、そんなこと関係ない!だいたい受験勉強のせいで今まで友達と遊ぶ時間が無かったのは....」

「お前はさっきから言い訳のように受験受験いうけど、わしがお前に受験勉強を強制したことなんか一度でもあったか?」

 あたまがぐらぐらと混乱してきた。ぼくはほとんど救いを求めるように、答えを探すように医者の方をチラと見たが、新川医師は足を小刻みに揺らし、はやく終わってくれと言わんばかりだ。

「もう一度言いますが、2度も市販薬遊びに手をだし、自殺未遂にまでいってる現状を鑑みると、これから先も自殺未遂を繰り返す可能性は否定できないんですよ、雄一さん。

 措置入院という手続きをとらせて頂いて、ほんとうに自殺企図が無いのかどうかを明らかにすることが大切なのです」

 無い、はなから自殺願望などはまったく無いのだ。しかし医者にも親にも、なぜか市販薬遊びが自殺未遂だということになってしまった。そして、なによりそれは、精神科医にも親にも、誰にものだ。

「しかし先生、入院期間は本当に1か月の間だけなんですね?」と念を押す。自分の声が震えているのに気づく。

「はい、自殺する気がないと分かれば1か月で退院できますよ。ただ、最初の1〜2週間は危険な状態に有るので、保護室に入って貰うことにはなりますが」

「保護室というのは?」

「それは今から説明します」

 新川医師はパンフレットのようなものを取り出し、図解入りで説明を加えた。

 入院前に身体検査で服以外の物は取られる、朝の7時に点灯、夜9時に消灯、日に三度の食事があり、食べない場合点滴と栄養チューブを入れることになる、週1回の診察とシャワー、暴れた場合には拘束ベルトを使用される。

 ぼくは手足を拘束ベルトで縛られぐるぐる巻きにされた患者の図解を見ながら、恐怖を感じていた。ここまでする必要があるのだろうか?

「あと、日に三度薬を処方しておきます」

「薬?」

「ノリトレンという抗うつ薬です」

 親父が契約書のようなものにサインするのを横目で見ながら、ぼくはうつでもなんでもないのに、と奇妙に思った。


 看護師に連れられ地下の閉鎖病棟に案内される。初めに感じたのは恐怖よりも混乱だ。保護室とやらに閉じ込められている患者たちの叫び声が、嗚咽が鳴り響いている。ふと、まるで動物園じゃないかと思ったが、直ぐにその考えを頭から消した。

「ここです」と看護師に案内された保護室には二重の鉄の扉に鍵までかかっている。

 ベッドには自分の名前と生年月日が書かれたプレートがついてあった。

 海藤 雄一 カイドウ ユウイチ 満15歳

 なにかで見た刑務所の独房のようなものを思い浮かべていた。いや、独房よりもっと酷いかもしれない。老人と思われる言葉にならない喚き声と、「やーめーなーさーい!」という看護師の叱る声。しかしそれも時間が経つにつれ、敬語がなくなっていき、「やめなさい!」から「やめろ!やめろ言うとるやろ!」と怒声になっていく。

 ベッドに横たわりながら、ぼくはほとんど現実感をなくしていた。あまりに想像出来ない世界だったので、若干浮き足立っていた。

 テレビ越しにしか見ないニュースの世界が、現実に存在しているとは信じがたかった。もう看護師の怒声も、患者の絶叫とごちゃ混ぜになり、言葉として聞き分けられないほど入り乱れていた。、そう思った。何もかも一切が、あの医師も親も看護師も障害者も、全て汚い。

 和式便所で用を足し流そうとしたが、流すボタンやとってのようなものが付いていない事に気づく。不思議に思ってベッドにくくりつけられたナースコールを押してみたが、いくら経っても看護師は来ない。

 夕方ごろ、看護師が食事を運びに来たのでやっと質問できたが、トイレは看護師に報告すれば水を流すとのことだった。さっそく看護師に報告したが、相変わらずトイレの水は一向に流れない。

 おかげで、小便の匂いがただよう中で食事をとることになった。いや、トイレの水が流れないとすれば、小便だけではない、糞便の匂いを嗅ぎながら飯を食うことになるだろう!(なにしろベッドと和式便所との間は近すぎたし、扉すらないのだ!)

 夕食後に薬をもってきた看護師に報告したが、「忙しいのでナースコールは押さないでください」とはねつけられただけだった。


 ぼくはロープでぐるぐる巻きに固定されたナースコールを見ながら、「... 」思わずそう独りごちた。

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