発生(6)
少女がナイフを振り下ろす姿を、アスマはただ唖然とした様子で眺めることしかできなかった。振り下ろされたナイフは肉とぶつかり、柔い肉を突き破ると、その奥にある血管を傷つけ、赤い飛沫を隙間から吹き出させる。アスマは血液を浴びながら、ただ呆然とその光景を眺める。
少女のナイフが少女の腕を切りつける光景を。
「ちょっと何してるの!?」
すぐに我に返ったアスマが起き上がり、少女に駆け寄ろうとした。その行動を妨げるように、少女はきっとアスマを睨みつけてくる。矢で射抜くような視線にアスマは戸惑い、咄嗟に立ち止まりかけたが、それどころではないと思い直し、再び少女に近づこうとした。
「来るな。見ていろ」
「いや、早く血を止めないと…!?」
少女の迫力に気圧されながらも、アスマが少女の出血を止めるために近づこうとした瞬間、少女が勢い良く腕を突き出してきた。アスマの視界を唐突に埋めつくした真っ赤な腕に、アスマは面食らって倒れそうになる。
それが止まったのは、泉が湧き出すように、腕を覆った赤い液体が小さく泡立っていることに気づいたからだ。それが何の泡かとアスマが目を凝らした直後、赤い液体の奥に入った亀裂が少しずつ埋まっていることに気づく。
「あれ?傷が?」
アスマが目を丸くしている間に、少女の腕にさっきできたばかりの傷が綺麗に治っていた。深くナイフが刺さったことで溢れ出した血液や、地面に転がっている血液に染まったナイフが、確かにそこに傷があったと証明しているのに、少女の腕は赤く染まっていることを除けば、とても綺麗なものに変わっている。
「どういうこと?」
アスマが目を丸くしながら、首を傾げてみせると、少女はどこか自嘲気味に笑みを浮かべた。その表情が酷く悲しく、アスマの瞳に映る。
「私の身体はどんな傷でも一瞬で治ってしまうんだ。腕の切り傷でも」
少女が自分の胸を親指で指し示す。
「心臓に負った致命傷でも、一瞬で治るんだ」
「え?え?だって、致命傷って死んじゃう奴だよね?」
「ああ」
「それが治るって…」
「そうだ。私は不死身なんだ」
そう告げる少女は変わらずに笑みを浮かべていた。ずっと同じ、酷く悲しげに見える自嘲気味な笑みだ。その笑みの理由は分からないが、アスマはチクリと胸に痛みを覚える。その痛みの理由もアスマには分からなかった。
「小人って言ってたよね?小人は不死身なの?」
「そんなわけがあるか。寧ろ、小人は短命で有名だ」
「じゃあ、どうして不死身に?」
アスマが聞いた瞬間、少女の表情が明確に変化した。ほんの少し前までの悲しげな笑みが消え、代わりに真剣さが表情に宿る。その表情の変化にアスマは釣られるように、身体を強張らせていた。
「そこに私がお前にナイフを向けた理由がある」
「理由?」
「私はある男によって、こんな身体にされたんだ」
少女の表情に真剣さを食い破る怒りが現れていた。そこにさっきの悲しげな笑みが重なり、アスマは再び胸に痛みを覚える。
「その人に復讐したいの?」
アスマの問いに少女は少し驚いた顔をしていた。少女の表情を見ていたら、少女の表情の奥に隠れている部分も、アスマの胸の痛みの正体も、少しずつ分かってくる。アスマの疑問も、当たり前のように湧いてくる。
「そうか。そういう奴か、お前は」
「ん?」
「いや」
少女は小さく笑みを浮かべていた。さっきまでの悲しげなものとは違い、今度は少しだけだが嬉しそうに見える笑みだ。アスマには何が嬉しかったのか分からないので、きょとんとすることしかできない。
「復讐したい気持ちはあった。だが、そんなことはどうでも良くなった。ただ私は元の身体に戻りたい。今はそれだけだ」
「じゃあ、俺にナイフを向けた理由は、俺に身体を元に戻す方法を見つけて欲しいの?」
「いや、違う」
「じゃあ、俺じゃなくて、王国に?」
「そういうことでもない。私は私の身体をこんな状態にした男に逢って、その男から身体を元に戻す方法を聞き出したいんだ」
「ああ、そういうことか。その人を探して欲しいんだね」
ようやく合点がいったとアスマは思いながら、そう納得の声を出したが、すぐに少女はかぶりを振った。
「いや、もう見つかったんだ」
「え?」
「だから、お前に逢ったんだ。その男と逢うために」
「ちょっと待って。話が分からないんだけど。どうして、俺と逢うことで、その人に逢えるの?」
「それはその男が王国に深く関わっている人物だからだ」
「え…?」
少しの間だったが、アスマは完全に動くことも、考えることもできなかった。王国に深く関わっている人物、ということは、アスマとも逢ったことのある人物ということになる。それも深く関わっているのなら、何度も逢っている可能性が高い。
そんな人物が少女を不死身にしたと言われて、すぐに処理できるほどにアスマは簡単ではなかった。
「何かの間違いとかではなく?」
「それはない。名前も同じだったし、何より、あの目は忘れられない。あの目は今でも夢に見るくらいだ」
「名前って、それが誰か分かってるの?」
「ああ。王国の情勢に疎くて、最近まで全く知らなかったが、少し調べたら、どうして今まで知らなかったのか不思議なくらいに有名だった」
「それって誰?」
「国家魔術師のガゼルだ」
アスマは目も口も大きく開いたまま、しばらく呼吸も忘れて驚いていた。国家魔術師の立場もそうだが、今ではエルの師匠としても有名になったガゼルが、少女の身体を不死身にしたと言われても、すぐには信じられなかった。少なくとも、アスマが見てきたガゼルは、そのようなことをする人物ではない。
「ちょっと待って!?本当にガゼルだったの!?」
「ああ、間違いない。絶対にそうだ」
言い切る少女の姿にアスマは言葉を失ってしまう。どれだけ正しいと言われても、アスマの知っているガゼルとはかけ離れた行いに、アスマはどうしても信じることができない。
「私はガゼルと逢うために、お前を人質にして、交渉しようと思っている。逢うことができたら、後は身体を元に戻す方法を聞いて終わりだ」
少女の言葉はほとんど頭に入っていなかった。まだガゼルという名が出てきた衝撃を消化し切れていない。
「ナイフを向けておいて、こういった言い方も何だが、できれば協力して欲しい。そうしたら、私は手荒いことをせずに済む」
この場合の手荒いことが何かアスマは驚くほど簡単に想像できた。それはたった今、アスマが体験したばかりだからだ。
「一つだけ確認していい?」
「何だ?」
「そこにあった傷って痛かった?」
アスマが赤く染まった少女の腕を指差しながら聞く。
「ああ、当たり前だ。どんな傷も治るだけで、痛みは感じる」
「ああ、やっぱり、そうなんだ…」
アスマには未だ飲み込めていないことも多かったが、それでも確かなことを一つ見つけていた。それは真実がどうであれ、目の前の少女を苦しめることはしたくないという思いだ。少女の手荒いことを想像し、アスマは覚悟を決める。
「分かった。協力するよ」
アスマがそう言った途端、少女はとても安堵したように胸を撫で下ろしていた。転がっていたナイフを拾い、べったりとついた血液をポケットから取り出したハンカチで拭き取り始める。
「じゃあ、すまないが、早速一つお願いしていいか?」
「うん。何?」
「これから、人気のないところに移動したいんだが、その道中でこの手紙を出したい。宛先は王城。内容はお前を誘拐したと知らせるものだ」
少女は懐から、既に用意していたらしい手紙を引っ張り出してきた。
「この手紙にほんの少しでいいから、お前の血液をつけてくれないか?」
少女は綺麗に血液を拭き取ったナイフを差し出してくる。アスマは手紙とナイフを受け取り、小さくうなずく。
親指を少しナイフで傷つけ、血液が小さな赤い玉を作ってから、アスマは手紙の端に親指を押しつける。その最中に、ふと気になっていたことを思い出した。
「そういえば名前。名前は何て言うの?」
「私か?私はベルフィーユ。人にはベルと呼ばれる」
「ベルか…俺はアスマ。よろしくね、ベル」
アスマが手紙とナイフを渡しながら、笑顔でそう言うと、ベルは呆れた顔で笑みを浮かべていた。
「お前の名前は知ってる」
「あ、そっか」
この時の手紙は後に王城に届けられ、ベルの狙い通りにアスマの血液から、手紙を読んだブラゴ達はアスマの誘拐を事実として動き始めていた。
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