発生(4)
アスマがその気になったら、少女を取り押さえることは簡単なことだった。ナイフがアスマに触れる前に、少女の悪戯を悪戯のままに終わらせることが魔王であるアスマにできないはずがない。
しかし、それをしなかったのは自分にナイフを向ける、少し震えた少女の表情が遊びとは思えないくらいに真剣なものだったからだ。何か訳があることは、その表情が雄弁に語っている。
その理由も聞かないままに、少女を取り押さえることは違っているような気がした。この少女が困っているなら、助けてあげたいと思うのがアスマだ。
少女の命令で近くの路地にまで歩かされることになっても、アスマは抵抗一つすることなく、少女の命令に従っていたのは、その気持ちが強かったからだ。少女は大通りの方から見えないように、アスマを路地の更に奥へと押し込む。
「ねえ?どうして、こんなことをしているの?理由があるなら聞くよ?」
アスマが背後に声をかけるが、少女は何も答えてくれない。代わりにアスマを更に奥へと行かせるように、アスマの背中を手で押してくる。
「ナイフなんて危ない物を子供が持ったらダメだよ」
「子供じゃない」
ようやく言葉が返ってきたことに、アスマは少し安堵していた。アスマと全く話したくないわけではないようだ。
「まだ子供だよ」
「そういう意味じゃない。私は小人だ。この身体で二十二歳だ」
「え?」
アスマは少し驚き、振り返ろうとしたが、少女の向けてくるナイフがアスマに触れて、その動きを止められた。
亜人ならパンテラにグインがいるので、全く見たことがないわけではないが、小人は見たことがない。ナイフを向けられている状況であるにも拘らず、アスマはそのことで少しワクワクしてしまう。小人は本当に小さいのか、と当たり前のことを思ってしまう。
「理由があるなら聞くと言ったな?」
初めて逢った小人にテンションを上げていたアスマは、少女の一言で理性を取り戻す。今はそれどころではなかったとようやく思い、少女の言葉にうなずいてみせる。
「うん、聞くよ。どうしたの?お金が必要とか?」
「いや、金はいらない。それなりの金なら持っている」
「じゃあ、他に何?もしかして、俺に恨みがあるの!?」
「いや、お前に恨みはない」
「それなら、どうして…」
そう言った瞬間、アスマは路地の奥に向かって、強く背中を押された。急なことにアスマは路地の奥に倒れ込んでしまう。
「急に何!?」
振り返ると、地面に座り込んだままのアスマの前に少女が立ち、さっきまでアスマに向けていたナイフを掲げている。
「私の目的はこれだ」
そう言いながら、少女はアスマの目の前で、掲げていたナイフを振り下ろした。
☆ ★ ☆ ★
どれだけ王都の街中を走り回っても、イリスはアスマの姿を見つけることができなかった。アスマがいなくなった理由は分からないままだが、あのアスマなら犯罪に巻き込まれたとしても、それを解決することくらいはできるはずだ。命を狙われようが、攫われそうになろうが、その相手を返り討ちにすることくらいは容易なはずだ。
アスマがいなくなるとしたら、それは自分の意思でいなくなった可能性が非常に高い。そう思うが、それならパンテラに向かう可能性が一番高いはずなのに、パンテラにはいなかった。
そう思う中でイリスは不意に思いついた。イリスはアスマの持ち物を確認しているわけではない。パンテラに行く時は、いつも自分で代金を払うことにこだわっていたため、アスマは財布を持っていっていたが、今も持っているかは分からない。
きっとアスマは財布を忘れていることに気づいて、王城に戻ったに違いない。イリスが道を教えている最中だったため、気を遣って声をかけることなく、王城に一人で戻ったのだろう。
それなら、王城に一度帰ることで、王城やそれまでの道中でアスマを見つけられるかもしれない。そう思ったイリスはすぐさま王城に向かって歩き出していた。アスマがいなくなったことで取り乱してしまったが、あのアスマなら何もなかったようにいるに違いない。あまりに想像できてしまうその光景に、イリスはゆっくりとだが、落ちつきを取り戻し始めていた。
しかし、イリスの落ちつきとは反して、王城は奇妙な騒がしさに包まれていた。明確に慌ただしいわけではないが、衛兵や使用人達が落ちつきを失っているように見える。
「どうされたのですか?」
一人の衛兵にそう聞くと、その衛兵は少し困惑した表情で、こう答えてくれた。
「騎士団長の部屋に人が集まっているのですが、それがシドラス様にラング様、ガゼル様にエル様と錚々たる方々で、何かあったのではないかと噂されているのです」
「シドラス先輩達が?」
この時点でイリスは少しばかりの嫌な予感に襲われていた。ブラゴの部屋に集まったと言われる面々には一つの特徴がある。日頃からアスマと深く関わっている人達という特徴だ。王城を出ていたイリスやアスラの護衛として王城を出ているライトを除けば、普段からアスマと関わりのある人物は全員呼び出されていることになる。
まさか、とイリスはつい悪い想像をしてしまう。そんなはずはないと、すぐに自分自身で否定するが、状況はどれだけ否定しても悪い臭いを漂わせている。
「アスマ殿下は帰ってきていますか?」
声をかけた衛兵が立ち去る前にイリスはそう聞いていた。ここに戻ってきた理由であり、それさえ確認できれば、イリスを現在進行形で襲っている不安は消えてくれる。
そう思って聞いたのだが、衛兵の答えはイリスの望んでいるものではなかった。
「殿下なら、王城を出たきりですが?イリス様がご一緒していたのでは?」
衛兵の不思議そうな顔にイリスは軽い眩暈を覚えた。動揺を表情に出さないように努めながら、イリスは問題のブラゴの部屋に向かうことにする。答えがどういうものか分からないが、そこにつけば否応なしに答えを知ることができるはずだ。
鉛のように重たい足を無理矢理動かし、ようやく辿りついたブラゴの部屋は、驚くほどに静かだった。ここに集められた人の中には、ブラゴを親の仇ほどに嫌っているエルがいたので、普通なら騒がしいことになっているはずだ。
それなのに酷く落ちついているということは、エルが牙を剥けないほどの出来事があったということだ。その出来事に心当たりのあるイリスは、更に不安を増大させることになる。
数回のノックの後にイリスが名乗ると、部屋の中からブラゴの声が返ってきた。普段から低く冷たい声をしているブラゴだが、今はそれ以上に冷たく、感情の読めない声をしている。
「失礼します」
そう言いながら部屋に入ると、既に部屋の中にいた人達の目がイリスに集まっていた。普段から表情の変わりやすいラングやエルだけでなく、ブラゴまで瞳の中に微かな動揺を宿している。そのことにイリスは既に答えを告げられている気分になった。
「イリス」
イリスが何かを言うよりも先に、ブラゴが口を開く。流石と言うべきなのか、ほんの少し前まで見られていた動揺も今は消えてしまっている。
「アスマ殿下はどうした?」
そう聞かれた瞬間、イリスは全力で頭を下げていた。
「申し訳ありません!!見失ってしまいました!!」
覚悟を決めて、イリスはあったことをそのままブラゴに伝える。怒られることは当たり前として、場合によってはクビもあり得る失態だ。仮にそのような処遇を告げられたとしても、イリスは受け入れるつもりだった。
しかし、イリスの考えとは違い、ブラゴが怒りの言葉を言うことも、イリスに処遇を告げることもなかった。代わりに小さな騒めきがイリスの頭の先で起きている。ゆっくりと顔を上げてみると、シドラスやラングが分かりやすく動揺している。
「どうやら、これは悪戯ではないようですね」
ブラゴがシドラス達と話しながら、目の前のテーブルに置かれた小さな紙を手に取っていた。未だに状況の把握ができていないイリスは、ブラゴ達が何を話しているのか分からない。
「何かあったのですか?」
ブラゴが手に持った小さな紙をイリスに差し出してくる。イリスが断りを入れてから、ブラゴのつくテーブルに近づく。ブラゴの手に持った紙は、一見すると手紙のように思えた。
「失礼します」
ブラゴの手から受け取った小さな紙に目を落とすと、そこには綺麗な文字でこう書かれていた。
『第一王子は預かった。助けたければ、今後伝える要求を飲め』
「これって…?」
「アスマ殿下を誘拐した犯人からの犯行声明だ」
「いや、でも、殿下が誘拐なんて…だって、殿下ですよ?」
「ですが、イリス殿」
そう言ってラングがイリスの持つ紙に手を伸ばしてきた。もう片方の手には昨日、そこにいるエルが持っていた物と同じルーペを持っている。確か、魔力を見ることができると言っていた、とイリスが思い出している間に、ラングは紙の端を指差す。そこには署名代わりの拇印が押されていた。
「これはアスマ殿下の血液なのですよ」
「え…?」
「この血液量で、これだけの魔力濃度。これは間違いなく、魔王の血液の特徴です」
「ちょっと待ってください。ちょっとだけ…待ってください…」
イリスは未だに理解が追いついていなかった。アスマが誘拐され、その犯人が王城に手紙を渡してきた。その中にはアスマを誘拐した事実と、アスマの血液による拇印が押されていた。そこまで事実を並べても、イリスは状況を飲み込むことができない。もしくは状況を飲み込みたくないと思っている。
アスマが誘拐されたとしたら、その原因はいくつか考えられるが、犯行動機と繋がらない誘拐されてしまう決定的な理由の部分に、イリスは大きく関わっている。
「私が目を逸らしたから…?」
イリスは頭を抱え、目尻に小さく涙を浮かべながら、そう呟いていた。騎士として動揺することも、思考を止めることも許されていないが、既に騎士としての役目を果たすことができなかったイリスに、それらのことは関係ない。
アスマの誘拐。それは紛れもない事実として、イリス達の前に存在していた。
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