最終日(5)

 エルは石窯に放り込まれた気分だった。周囲で膨らもうとしている熱気に包まれ、あと少しでエルはふっくらと焼き上がるところだ。ただし、火加減の調節をしてくれるとは思えないので、焼き上がった頃には食べられる場所がないくらいに黒焦げになっているかもしれない。


 そんな妄想が熱気やエルの身体と一緒に膨らむ前に、エルの心を現実に引き戻すように風が吹いた。路地を通り抜けるように吹いていき、エルの頬を撫でた感触は柔らかく、とても涼しい。とはいえ、熱気と比べると気休め程度の涼しさなので、その涼しさがエルを助けてくれるわけではない。

 そう思っていたところで、再び路地を風が通り抜けた。それも一度だけではない。二度三度と繋がり、やがて、目を瞑っているから耐えられるが、目を開けていたら目を瞑ることを強制されると想像できるほどの強い風に変化していく。


「何…これ…!?」


 それは少女の声であり、その声が少女にとってが吹いているとエルに教えてくれた。つまり、この風は熱気由来の風ではないということだ。


 それでは風はどこから吹いてきているのだろうかとエルが考え始めたところで、エルの顔に何かが張りついた。目を開けていないから分からないが、掌サイズの紙が数枚風に煽られ、エルの顔まで飛んできたようだ。エルはその紙が何であるのか、見なくても分かっていた。

 恐らく、この紙はだ。エルが目を瞑っている間に少女が貼ったもので、一枚一枚に術式が描かれており、そこから熱気の正体を吹き出させることで、エルの周囲を石窯に変えたのだろう。確証はないが、確信はあった。


 顔に張りついた紙を手で退かしながら、エルは風の吹いてくる方に顔を向けた。目は未だに開けていないので、何があるのか分からないが、位置的には少女の声が聞こえてくる方だ。それらの情報から整理すると、エルの背後に立った少女の背後から、これだけの風が吹いてきたということになる。エルの記憶が確かで、方向感覚に狂いがなければ、そこは大通りのはずだ。


 では、その大通りから、これほどまでに強い風が吹いてきた理由は何か。それは十分に大きな疑問だったが、その疑問をエルが考える必要はなかった。少女の動揺の声と後退りする音が聞こえてくる。


「エルさん!?大丈夫ですか!?」


 その声を聞きながら、エルが思い出していたのは、昨日の話だ。エルが失神から目覚めて、ブラゴにゴーレムの調査を命令されたくらいの時のことで、アスマとベルが人払いされた路地の中で襲われていたらしい。狙いはアスマだったようだが、ベルを人質にすることでスムーズにアスマを殺せると考えたのか、ベルにターゲットが変わったところに救世主が現れたそうだ。

 その話を思い出したのは、その話とだとエルが思ったからだ。耳に残る女性の声は初めて逢った少女の時より、少しだけ大人びて聞こえる。


…」

「少し横に移動してください」


 エルの声に返答するように聞こえてきた声は、パロールと一緒に現れたのものだった。エルがその指示に従って、壁に倒れ込むように動くと、猛烈な風が隣を通り過ぎていった。その風に煽られたようで、その風の中から少女の声も聞こえてくる。エルは動かない右腕を庇いながら、自らが笑い者にならずに済んだ気配に安堵していた。


も…」


 そう呟きながら、座り込みそうになったので、慌てて足に力を込める。少女の攻撃は阻止され、ラングとパロールが合流し、劣勢だったエルの状況は好転したが、少女はエルの背後から前方に移動しただけで、未だそこにいることに変わりはない。戦闘は継続中のはずであり、その中でエルが座り込んでしまえば、ただの足手まといになってしまう。昨日に続いて、今日もそのような醜態を晒すことだけは避けたい。


「エルさん…」


 すぐ近くでパロールの声がしたと思ったら、座り込みかけているエルの左腕が掴まれた。力任せに掴んできたわけではなく、自分の身体を使ってまでエルを支えようとしている感覚に、エルはそこにパロールが立っていることを知る。


「大丈夫ですか…?」

「パロールちゃん…」


 そう名前を呼びながら、エルは目を瞑ったまま、路地の状況を把握しようとしていた。エルの立っている位置に、大通りのある方向、何より、少女の位置が重要だ。それら全ての情報が分からなければ、次に起こり得る展開の予測ができない。


「ラングさんはどこにいる…?」

「師匠は大通りから入ってきたところで、そこにいる魔術師を牽制しています」

「パロールちゃんはどう思う…?ラングさんはそこにいる子を捕まえられる…?」

「師匠は拘束に特化した魔術をあまり使えません。私と師匠で囲んでいるのならまだしも、今は逃げ場もある状況ですから、難しいと思います」

「パロールちゃんは…?」

「私は実戦的な魔術はあまり…魔力操作も魔力量もか、ですから」

「ならさ…パロールちゃんにお願いがあるんだけど…」

「何ですか?」

かな…?」

「はい?」


 パロールが小首を傾げる様子が目に浮かんで、エルは小さな笑みを浮かべていた。エルの思惑通りにパロールは困惑しているみたいだ。もしかしたら、自分の目玉を無事に取り出す手段があるのかと考えているかもしれない。


「言っておくけど、取り出せなんて言わないよ」

「そ…!?そうですよね…も、もちろん、分かってますよ!?」


 絶対に目玉を取り出す魔術があったかと記憶を辿っていたに違いないとエルは思った。痛みも感じない右腕がぶら下がっていなければ、エルは大声で笑いだしていたところだ。今はその荷物がいいくらいに笑いを噛み殺してくれている。おかげで緊張感が壊れずに維持できていた。


「パロールちゃんにんだ。それを俺に教えて欲しい。さっきみたいに誤魔化されなければ、ちゃんと拘束できるはずだからね」

「エルさんが魔術を使うんですか?その身体で?」

「右腕が動かないからって、魔術を使えないわけじゃないよ。細かい集中のいるものは難しいけどね。問題はその大雑把なものでも、敵を捕捉できなかったことなんだ。目が見えないことって、想像以上に大変なんだって知ったね」


 エルの苦笑をパロールがどのように受け取ったのか分からなかったが、しばらくの沈黙の後にパロールは了承の言葉を呟いていた。


「分かりました…」

「それなら、早速…」

「ちょっと待ってください…!?エルさん!?」


 エルの話し声を遮るようにパロールが叫んだかと思うと、次の瞬間にはエルの身体が大きく引っ張られていた。パロールが掴んでいた左腕を中心とした引力に引かれて、エルの身体は地面に倒れ込む。その際にパロールの悲鳴のような声が聞こえ、エルは思わず目を開きかけた。


「パロールちゃん!?大丈…!?」

「目を開けないでください!!」


 エルの瞼が光を取り込むよりも先に、パロールの叫び声が瞼の上に伸しかかった。倒れ込んだエルのすぐ近くから聞こえてくるその声には、苦悶の色が混ざっている。エルは見ることができないが、パロールが怪我をしたのだと思った。

 しかし、それを確認させるよりも先にパロールは言葉を続けてきた。


「一時方向五メートル先。そこに立っています」


 瞬時にエルの頭の中で周囲の空間が簡易的に構築され、その中でエルから見た時の少女の位置を把握する。それはパロールが強い覚悟を持った言葉であり、その言葉を無駄にしないことがエルに求められていることだと、すぐにエルは思った。

 パロールの腕が絡んだ左腕を動かし、瞬時に術式を重ねていく。その間に目の前で魔力が膨らむ様子を感じ取ったが、それはすぐに背後から吹き抜けた風で掻き消えた。


「エル殿…!?」


 ラングの静かな叫び声と共に、少女の舌打ち交じりの声が聞こえてきた。悔しそうな声音で逃げ出さなければいけないことを誰かに謝罪している。もしかしたら、とエルは考えながら、少女の持っていた通信用の魔術のことを思い出していた。


「あ…!?逃げてしまいます…!?」

「大丈夫。もう遅いから」


 エルが左手の中に三枚の術式を重ねた瞬間に、地面から黒い布が飛び出した、はずだ。エルは見えないが、その様子は気配で分かった。先ほど使った黒い布を構築していた魔力をそのままに、新たな黒い布を同じ場所に作り出すことで、エルは即席のトラップを作っていた。その布は少女の身体をうまく捕らえたようで、少女の悔しそうな声が微かに聞こえてくる。


「エルさん…!?やりましたよ!?」


 遅れてパロールのその声がエルに達成感と安堵感を与えてきた。緊張の糸が切れたことで、エルは身体をうまく動かすことができなくなる。


「エル殿…!!パロール…!!」

「師匠…」


 近づいてくるラングの声にパロールが声を返したところで、エルはパロールが怪我をしていたことを思い出した。無理をしているかもしれないと咄嗟に思い、エルは目を開けて、パロールの様子を見る。


 どうやら、パロールはエルと一緒に倒れ込んだ時に身体を打ちつけただけのようで、特に大きな外傷はなかった。エルが目を開けた段階で、パロールは笑顔のまま、ラングに目を向けているところだった。


 問題は大きな外傷はなかったが、倒れ込んだ際にできた擦り傷があったという点だ。顔には小さな傷ができて、そこから血が流れていた。

 そのことに気づいた瞬間から、エルは意識がなくなった。すぐにパロールとラングが慌ててエルに声をかけていたが、エルに声が届くことはなかった。


 幸いだったのが、少女を拘束していた黒い布がエルからの魔力供給によって維持をしているのではなく、一定量の魔力を有している間は具現化するタイプだった。エルが失神しても、黒い布は少女の身体を問題なく拘束し続けている。

 そのことにパロールやラングが気づいたのは、それから少し経った時のことで、エルが失神した直後に、少女の落とした通信用の魔術からことには気づかなかった。

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