四回表 縦浜 VS 仁馬山・東海大付属連合
野球は投手が投げなければ始まらない。
よく言われる言葉だ。つまり、守備側から先手の取れるスポーツである。これも良く言われる。攻撃は後手なのだ。攻撃側である打者は、相手投手が投げて来て初めて打ち返せる。打率が3割で上々と言われるのに対して、守備率はほぼ10割の成功率を求められる。守れて当たり前。それほどまでに、野球における守りの重要度は高い。
さて、一回の表が終わって、裏の攻撃。縦浜の先発投手は、
西郷退盛も、その名前は何度か聞いたことがあった。中学時代は硬式野球で、確か全国ベスト4まで上り詰めた。身長は176と西郷と変わらないくらい。右投げオーバースローの本格派で、スライダーやカーブと言った変化球に、140キロ代後半のノビのあるストレートで三振を量産する。
「よく見ておくことね」
未来が西郷の隣で小さく呟いた。
「同い年の、同じ県の投手なんだから。これから三年間、彼を超えなければ、甲子園は無いわよ」
西郷は黙って大久保の投球練習を見つめていた。シュッとした細身の体型に、精悍な顔つき。切れ長の真っ直ぐな瞳。しなやかなフォームから投げ放たれる速球が、小気味よい音を立ててキャッチャーミットに収まって行く。速い、とそれだけで感じた。
「速いだけじゃないの。彼の直球は……」
未来が何か言いかけている間に、一番打者の三井が打席に入った。初球からバンバン威力のある直球で押し込んでくるタイプ。事前のミーティングでは、そう伝えられていた。言わば『力』で押し込んでくる、西郷と似たタイプの投手だ。
「ストラァァッイクッ!!」
3球目。審判の手が高々と上がった。外角低めいっぱいに
小細工なんて一切通用しない、ドンピシャに制球された渾身の
打撃の際に出された指示は単純だった。『自分が打ちたい球を打つ』。
「そう簡単に打てたら苦労しない」
未来は無慈悲にそう告げた。
「自分が一番得意な形で、得意なコースを狙っていきましょう」
打線は水物だ。その時その時の条件によって状況は一変し、非常に予測がしにくい。チームとして、強いて言うなら低めは見極めるとか、甘い球を狙っていくとかだ。そこで西郷たちは、初めは「バント」や「ファール狙い」で揺さぶりをかけて行こうと話し合っていた。だが、初回からまざまざと力量の差を見せつけられた。
ここは一切、打たせる気はない。
と、マウンド上に立つ大久保から、無言の気迫のようなものをヒシヒシと感じる。西郷は自然と掌を握りしめていた。額から滲み出る汗は、決して気温だけが原因ではない。
西郷の
同じようで違う、二つの『力』。西郷が大久保を直で見たのは、今日が初めてであった。大久保もまた、西郷を認識したのはこの日だっただろう。二人の戦いが、今後三年間、いやそれ以上に続いていくことになるとは、この時はまだ誰も思ってもいなかったに違いない。
「ッットライィィクッ!!」
二番打者・安前を悠々とセンターフライに打ち取った大久保は、続く三番の田島もあっという間にツーストライクと追い込んだ。
「直球が二種類くらいあるな」
「えっ?」
ベンチに戻って来た安前が、悔しそうに唇を噛み、西郷たちに告げた。
「外角はそのまま落ちずに伸びてくるが、内角が不規則に、
「それって……」
「狙って出来るモンじゃねえよ。天性のモンだ。そう言うフォームなんだ、あれは」
安前がベンチに腰掛け小さくため息を漏らした。西郷は目を見張った。
直球がコースによって微妙に変化する投手は、確かにいる。これも癖みたいなものだ。
「それに……体感だが、球速差も違う」
「球速差?」
「あぁ」
安前が防具を付けながら呟いた。
「同じストレートでも……多分145と125キロくらいを使い分けてる」
その言葉に、東川大のメンバーはシン……と静まり返った。片手にスピードガンを手にしていた下園が、黙って何度も首を縦に降った。これまで、投球のそのほとんどはストレート。
「スピードの違う、二種類のストレートか……」
同じフォーム、同じ軌道で球速差が20キロほど違う……これが如何に撃ち返しにくいことか。西郷たちはそれをバッティングセンターで嫌と言うほど味わっていた。しかし、まさかそんな
未来がスコアブックを見つめながら、低く呟いた。
「何か、あるはずよ。同じな訳ない……腕が緩んだり、ボールのリリースポイントが違っていたり……」
「……ットラィィクッ!!」
しかし話している間に、無情にも審判の手が高々と上がった。三球三振。最後の直球は、空気の切り裂く音がした。三塁側ベンチにいた西郷たちが目を見張った。スピードガンを手にしていた下園が声を上擦らせた。
「……153キロ、です」
全員が押し黙った。三塁側ベンチに、重たい静寂が訪れる。
「……三種類だったな」
誰かがボソッと呟いた。
マウンド上の大久保は涼しい顔で自軍のベンチに戻っていく。ポーカーフェイスが実に憎らしかった。中学三年の引退から高校入学までに、きっとトレーニングのコツを得たに違いない。彼のストレートは、さらにその速度を増していた。最大球速差約30キロの、三種類のストレート。球の握り具合、指の掛け方、腕のしなり……それら全てを使って、自在に直球の
それから大久保は3回まで、打者一巡、完璧に連合チームを抑え込んでマウンドを降りた。
「切り替えていきましょう」
序盤3回を終えて、点差は2−0。
2回に犠牲フライと、相手の8番キャッチャー小野の本塁打でその差を2点にまで広げられた。下位打線だと甘く見たわけではないが、痛恨の一打だったことは間違いない。序盤、西郷は2点を失っていた。対する連合チームは、未だ無得点のまま。
意気消沈した西郷たちに、未来は努めて明るい声を出した。
「大久保くんだけと戦ってる訳じゃないわ。チームとして、最終的に勝てばいいんだから」
ベンチにいた面々が顔を見合わせた。鋭い眼光でスコアブックを睨みつけていた未来が、柄にもなく笑顔を作り、明るい声を出している。それが一層西郷たちの暗さを際立たせた。
「……そうだな」
悲壮感を拭い去るように、西郷たちはベンチ前で円陣を組み、特に意味もなく大声を出した。何を話し合っていたわけでもない、ただ気合を入れるための円陣だ。前を向く儀式のようなものだ。西郷は自分の頬を両手で叩いた。諦めるのはまだ早い。不幸中の幸いだったのは、連打ではなく犠牲フライとホームラン一本の単打で済んだことだろうか。まだ十分に取り返せる点差だ。
西郷は向かいのベンチに座っている大久保をちらと覗き見た。
彼は相変わら涼しげな顔をして、マネージャーから受け取ったタオルで光る汗を拭っていた。結局、攻略法の糸口を何ら掴めないまま、気分良く相手に投げさせてしまった。
打者9人に対して、実に6奪三振。
リズム良く投げられた投球は、そのまま相手の守備陣を乗せて、簡単にアウトを献上してしまった。強烈な第一印象を残したまま、大久保はマウンドを去った。
「切り替えて。ね?」
「あぁ……」
4回の裏、再び連合チームの攻撃。打者は打順よく、1番の三井からだった。
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