3 世界中の色
「俺はさ」
隣を歩きながら、ゼンくんが静かな声を出す。
「まりもの描く絵がすごいってほんとに思うんだよ。だってまりもには、世界がそう見えてるんでしょ?」
「う、うん」
見たまま、しか描けないから、見たままを描いているだけとも言えるのだけれど。
「まりもの目を通してみたら、空はあんなにいろんな色があって、花火もマニキュアみたいにキラキラしてるってことでしょ? それ、すげぇなぁって。だってさ」
なんだか横を向いてゼンくんの顔が見れない。だから、前だけを見る。見慣れたいつもの帰り道が、少しだけ、違う色を帯びている。傾いた西日のオレンジが、明け方の光のようにさえ感じられる。
「俺、時々世界から色が全部なくなったみたいに感じるときあるもん。学校だととくにそう。つまんなくて、退屈なかんじ。その中で、マニキュアとかコスメとか……かわいいものだけ、色がはっきり見えて、だから好きなのかもしれない」
なんとなく、ちょっとだけ、分かる気はする。中学の時はとくにそうだった。学校がしんどすぎて、おかあさんのいない家もしんどくって、何を描いても、つまんない色使いになっている気がして。少しの間、描くことすら出来なかった。
「だからさ。ホントに絵、楽しみにしてるんだ。まりもの世界と、相葉さんの世界と、そこに俺入っていいんだー、って、すげーわくわくしてる。だから、よろしく」
きゅ、っと、握る手に力がこめられる。
「が……がんばり、ます」
角を曲がる。すぐに、アパートが見えた。足を止める。
「そ、そこのアパート、なの」
「あ、うん。ここでいいの?」
「だ、大丈夫」
「ん。じゃ、これ。好きに使っていいからね」
マニキュアの入った紙袋を渡される。手がゆっくりと解かれていく。
ずっしり、重たいマニキュアの袋が、そのままゼンくんの期待の重さみたいでちょっと苦しくて、ちょっと嬉しい。
「なに描くの? 空? 花火?」
「あ……ま、まだ決めてない、けど、そのふたつは好きだから……」
空と、空に上がる花火は特別だ。きっと、止められても描いてしまう。
きっとゼンくんにとっての、かわいいものと同じくらい、わたしにとっての空は特別だ。
「そっか」
ゼンくんがふわっと笑う。
その美しい笑顔に、眩しくて目を細めて。
――あ、と、思わず声を上げていた。
「え、なに、どうしたの?」
「ちょ、ちょっと、待ってて!」
ただの思い付きだ。呆然とするゼンくんを置き去りに、マニキュアの袋を持ったままわたしは走り出していた。アパートの階段を駆け上がって、リュックのポケットからキーケースを取り出す。あわあわしてしまってうまく差し込めない鍵穴に苛立ちながら、なんとかうちの中へと転がり込んだ。
自分の机にマニキュアの入った紙袋を置いて、それから、クロゼットを開く。見つけたものを、今度は自分の部屋にあった画材屋の紙袋に入れて、うちを飛び出した。
走っての往復に息が上がったわたしを、ゼンくんが目を丸くしながら迎えてくれた。
「おか、えり? どしたの」
「あ、あ……あの、これ」
紙袋を、押し付ける。
余計なお世話かもしれない。無駄かもしれない。意地悪にとられるかもしれない。でも。
渡したいって、思ったから。
「し、しばらく、預かっててくだ、さい」
「……なに?」
いぶかしげに紙袋の中を見て、ゼンくんが目を丸くした。
「えっ、まりも?」
中に入っているのは、服だ。
――うちの学校の、制服。ゼンくんがかわいいと言っていた、制服。かわいいのに、着れなかった、制服。
「あ、合服だから……も、もう衣替えしたから、こっちはなくても、大丈夫だし、あの。わ、わたしので悪いなって、思うけど、でも」
「――ありがとう」
上手く告げられない言葉を遮るように、ゼンくんが笑う。
屈託のない笑顔に、ほっと、息が漏れた。
分かってる。学校には着てこれない。当然だろう。でも、おうちでだけでも、ゼンくんがかわいいと思うものを、ゼンくんが色を感じるものを、身に着けてもらえたら嬉しい。
それから。
「あ、あと、は。あの」
「うん」
「ゼンくんの、世界を見せてほしい、です」
「……俺の世界?」
きょとんと、ゼンくんが首を傾げる。肩口をさらりと髪が滑っていって、とてもかわいい。
「どんなことを、感じているのかとか。どんなものが好きなのか、とか。いろいろ……教えてください。それを、描いてみたい」
ゼンくんのための、絵だから。
上手じゃなくても、上手に表現できなくても、そこは感じて描いてみたい。
「分かった。じゃあさ。また、遊ぼ。いろいろ、ね?」
にこっと、ゼンくんが笑う。
嬉しいのになんだか苦しくて、言葉が上手く出てこなかったから。ぎこちなかったかもしれないけれど、わたしも笑って、頷いた。
見送られて、うちに入って。
机の上に置いたマニキュアの袋をそっとひっくり返す。机の上にばらばらと転がった沢山の色の塊は、射し込む西日にキラキラと輝いている。
世界中の色が、そこにあるみたい。
ううん、でもきっと。
窓を開ける。
急速に夕暮れの色を帯び始めた空が広がっていた。息を吸う。身体中に風が吹くみたい。茜色を吸い込んで、閉じ込めるように息を止めた。目を閉じる。
眩しすぎた。
世界ってこんなに、色で溢れていたんだ。
おねえちゃんまぶしいよ、って言われながら、夜遅くまで描けるだけ描いた。
まぶしいよ、って言いながら、綾乃はなんだか嬉しそうだった。
何を描けばいいのか分からなくて、だから思いつく限りのいろんなものを――目についたものを片っ端から描きだした。時計。制服。マニキュア。左手。シャーペン。クロッキーばっかりで、色はつけていないまま、下描きにすらならないアイデアだし。
でも、夢中だった。
ひたすら鉛筆を走らせて、走らせて、走らせて。
眠気にやがて負けて記憶が途絶えて、朝の陽ざしで目覚めたとき。
なんだか、生きている、って感じた。
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