8. 学校、クラスメイト、男の子

 今日は梅雨の晴れ間になるでしょう、と、朝の天気予報のお姉さんがさわやかな笑顔で告げた通り、久しぶりの青空だった。

 結局一晩中どういう顔をして学校に行けばいいのか悩み続けてしまって、ほとんど眠れないまま窓の外は明るくなった。いつもみたいに家は早く出たけれど、どうにも学校で野木くんと会ってしまった場合どうすればいいのか分からなくて、駅のベンチでぼんやりとスマホをいじってしまい、結局始業時間少し前に、滑り込むように教室へ入る。

 ……情けない。

「おっはよーまりも」

「おはよう、かおちゃん」

 ちょっとドキっとしたけれど、かおちゃんはそれ以上何も言わずにこーっと笑っただけだった。ほっとする。昨日のことを詮索する気はないらしい。

 自分の席に座ってから、ちょっと呼吸を整える。落ち着け、わたし。

 ゆっくり、顔を上げた。

 窓際の席に、彼はいた。男の子の制服姿で。頬杖をつきながら外を見ている。

 ふわふわっと、踊るように茶色の髪が揺れている。

 ……昨日のさらさらヘアは、なんか手入れしたせいなんだろうか。それとも、ウィッグってやつだったんだろうか。

 気になってしまって、いつの間にか凝視していたのかもしれない。視線に気づいたのか、野木くんがふと、こちらを見た。

 目が、合う――

 銀縁の眼鏡の奥で、昨日とは違う少しぼんやりした目が二度三度まばたきして、それから、すうっと細くなる。笑ったんじゃない。あくびしたんだ。大きな大きな、あくび。

 ……え、あくび、です、か。

 一晩中悩ませてくれた相手は、想定外に大あくびをして、それでおしまいだった。そのまま何事もなかったかのようにまた机に突っ伏す。

 チャイムが鳴った。HRがはじまる。

 ……え。ええええ。

 おしまい? なんです、か?

 呆然としてしまう。一晩中悩んだのに。悩んだのに!

 昨日のアレは、夢だったんだろうか。

 ううんそんなわけがない。あの路地で、たしかに野木くんは、とてもかわいい女の子の姿をしていた。

 いまみたいな、だらけた猫みたいな顔じゃなくて、とびきり明るい顔をしていた。

 ……本人だよね? 双子とかじゃないよね?

 わたしの混乱はかおちゃんにも言えないまま膨れ上がっていって、放課後にはもう破裂寸前だった。

 一日こっそり見ていたおかげで、いくつか分かったことはある。

 野木くんはたぶん、友達はひとりだけ。クラスメイトの和久井くん。でも和久井くんは和久井くんであまり喋らないぽくって、お昼ご飯も二人で並んで、でも無言で食べていた。

 授業はそこそこ真面目に受けているみたいだけれど、板書を終えたり、問題を解き終わったりして時間があまるとすぐに眠る。

 あと、髪の毛はいつもふわふわ。

 ……それくらい。

 HRが終わってそれぞれ動き出した教室の中で、彼はまた寝ている。それを見ながら、どうしよう、と考えていた時、視界の中で明るい光が動いた。

 あ、かおちゃん。

 かおちゃんがこっちに来る間際、野木くんの頭を軽くペンッと叩いたのだ。

「野木、あんたいっつも寝てない?」

 寝てます。

「んー……?」

 ぽやぁとしたまま顔を上げた野木くんは、数秒かおちゃんを凝視して、いぶかしげに眉を寄せた。

「内倉だよ。昨日渡したでしょ、ハンドクリーム」

「……ああ。うん」

 名前が、分からなかったんですね……?

 どうも野木くんは、人にあまり興味がないらしい。

「あんた寝過ぎで溶けないかって、まりもが心配そうだからさぁ」

 わたし!?

 いきなり話をふられて、あわあわしてしまった。野木くんを見ていたことをかおちゃんに気付かれていたことも、それを野木くんに伝えられてしまったことも、ダブルで恥ずかしすぎる。

 かぁっと顔に熱がのぼる。ダメなんだよ。すぐこうなるんだから。

「か、かおちゃぁん……」

「だってなんか見てるからさぁ」

 言わないでお願い。

 野木くんは相変わらずぽけっとしたまま、ゆっくりと今度は反対側へと首を傾げる。

「まりも……」

「片瀬まりもちゃーん。この子だよ」

 かおちゃんがくるっとわたしの後ろに回って、両肩を抱いてくる。

 真理乃、です。というか、それは、あの、昨日……。

 言うわけにもいかず、何とか引きつった笑みを浮かべてみるくらいしか出来ない。笑みになってたかどうかは自信ないけれど。

 さすがに、気づいた、だろうか。

 不安と期待を交じり合わせながら野木くんを見たけれど、野木くんは変わらないそぶりのまま、ふーん、とだけ、言った。

 ――すんっ、と、心のどこかに重しが乗っかる気配がする。

 興味なし。そう言われた気がする。

 昨日のあれは、やっぱりきっと、幻だ。

 野木くんはふわふわする髪を手で押さえつけながら、首を回して教室の時計をみた。

「……HR終わった?」

「割と前にねー」

 かおちゃんが答えている。

 なんだか、額縁の向こうの絵みたいに思えてくる。平凡な学校の、平凡な絵。でも、彩度がとても低くて、青が強い。

「あたしこれから部活ー。まりもは?」

「あ、え、か、かえる……」

 昨日、綾乃にご飯を作らせてしまったから、今日はわたしがやらなきゃ。

「そかそか。んじゃ気を付けてね。また明日ね! 野木もばいばーい」

 かおちゃんがぱたぱたと鞄を持って教室を出ていく。

 ……き、きま、ずい……。

 教室にまだ人はまばらにいるとはいえ、どうにも居心地が悪い。早く帰ろう。どうせ、昨日のあれは、野木くんの中ではなかったことになっているんだろうから。

 あったことになっていたとしても、どうしたらいいのかなんて分からなかったんだし、ちょうどよかっただけじゃない。

 机の中のノートと教科書をリュックに急いで詰め込んだ時、かたんと音がした。

 とっさに顔を上げる。

 野木くんが鞄を手に歩き出したところだった。ちょっとまるまった背中が、ゆらゆら揺れながら遠ざかっていく。

 ……帰る、のかな。それとも。

 考えたあたりで、ふるふると首を振った。関係ないことは、詮索しない。

 そう、思ったのに。

 首を軽く振った反動で、視界にそれが映ってしまった。


 野木くんの机の上に残された、一本のマニキュア。

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