片瀬まりもは花火になりたい

なつの真波

プロローグ

とうめいな春の風


 わずかに紺色がかったねずみ色の空が、堪えきれずに雨粒の一滴をグラウンドに落としたその朝、わたしは世界の中でひとりだった。

 湿気った土と埃のにおいが、まだ朝早い教室の中に忍び込んでくる。

 教室には誰もいない。遠く体育館からは朝練の声が微かに聞こえてくるけれど、校舎にはまだほとんど人がいないからだ。

 無音の校舎をひたひたにするように染み渡っていく雨のにおい。

 そのにおいに急かされるように、色鉛筆を走らせる。

 なんの変哲もない真っ白な画用紙に、今の空が写されていく。ねずみ色。紺色。青。でも空をよく見ると、微かに黄色だって緑だって見えるから、わたしはくるくると何度も何度も色鉛筆を持ち替えなくちゃいけない。

 その面倒くささが、たぶん好きなんだ。

 いつの間にか本格的に降り出した雨の音に包まれながら、わたしは色鉛筆で空を創り出していく。

 その時間。

 わたしは、世界でたったひとりだ。

 神様にだってなれる気がする時間の中、ふいに風が吹いた。

 ――え?

 思わず顔を上げていた。

 梅雨のぺったりとした空気を割るように吹いたのは紛れもなく春の風だった。

 色のついていない、誰にも邪魔されない、透きとおったお陽さまの薫りのする春の風。

 教室の前の扉から、春の風が吹き込んできた。

 ううん、ほんとうは違う。だってこんな梅雨空の中、春の風が吹くはずがない。

 教室の前の扉を開けたのは、クラスメイトの男子だった。

 癖のある少し色素の薄い髪が、お好み焼きの上の鰹節みたいにふわふわ踊っている。細い銀縁の眼鏡の奥には、七割ぐらいはまだ寝ていそうなぼんやりとした目。衣替えをしたばかりなのにすでに少しよれている夏服から出ている腕は、色白で細い。

 野木善くん。

 彼が前の扉を開けただけだ。それが、春の風が吹いたみたいに感じた。

 野木くんはぼんやりした顔のまま、教室を見渡した。

 目が――合う。

 ほんの一瞬だけ、眼鏡の奥の目がこっちをとらえた。一瞬だったのに、きゅうっと喉の奥が痛くなる。

 あ……画用紙!

 慌てて、机の上にあった画用紙をしまい込んだ。ドッドッドッドッ……と心臓が早鐘を打つ。

 み、見られた? 見られてない?

 顔が熱くなる。見られていたら、わざわざこんな馬鹿みたいに早い時間に登校した意味がない。耳の真横で太鼓が鳴っているみたいに、心臓がうるさかった。

 ぎゅっと、膝の上でこぶしを握る。ばれてませんように。

 野木くんは、何も言わない。言わないまま、歩き出した気配がした。顔を上げられないから、そっちを確認する余裕がないのだけれど。

 かつ……かつ……とのんびりした足音は、わたしの左前で止まる。野木くんの席。窓際の、後ろから二番目。

 椅子を引く音。それから、鞄を置いたらしいドサッという音。

 聞こえたのはそこまでだった。

 一層強くなった雨音が、ただ教室を埋めていく。

 ……何も言われない。

 少しだけほっとして、わたしはようやく顔を上げた。左前へと視線を向ける。

 ――寝てる。

 気ままな猫みたいに、野木くんは机に突っ伏して眠っていた。

 ……こんな早朝に登校して、机で眠るの?

 わたしの内心の問いかけなんて欠片も伝わりそうにない様子で、すうすうと寝息を立てている。

 緊張がほどけていく。拍子抜けしたわたしは、ただそのふわふわ揺れる妖精のダンスみたいな髪の毛を目で追うことくらいしか出来なかった。


 六月十日。朝七時四二分。


 この日、朝雨とともにやってきた春の風を。

 スマホの液晶に表示されていたその時間を。


 わたしはずっと、覚えている。

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