第2話「ノアの髪を梳いているのは、とても愉快で楽しいね」
「やあ。君は今日も今日とて愉快だね」
「そう?」
授業を恙なく終えたノアは、級友である
黒紫の髪が揺れ、赤い月に似た瞳がノアを捕える。
「ああ、愉快だとも。特に身体中に付着した毛なんて愉快の塊さ。どこかで子猫ちゃんと戯れたのかい?」
「その言い方は語弊があるけど、昼休みにたまたま猫を見つけて……」
「なるほど。衝動的に襲ってしまった、と」
「言い方。気を付けて」
放課後の教室とはいえ、生徒はまだ残っており、ノアたちと同じように話に耽っていた。
二人の会話が聞こえたのか、近くでたむろしていた女子生徒たちがなにやらノアたちを見てひそひそと話している。一体どんな尾ひれや翼が付いていっているのか。娯楽に飢えた女性の情報伝達力は脅威である。きっと明日には、学校中にノアが幼子を衝動的に襲った極悪犯として広まっているに違いない。
明日休もうかなー。
そんなことを考えていると、狂華がノアの背後に回り込んできた。手に白いガラガラに似たなにかを持って。
「そのまま帰すのも忍びない。私が掃除してあげよう」
「なにそれ」
「抜け毛取りワイパー」
「なにそれ凄く欲しい!」
「こら。じっとしていないか」
興味津々で、狂華が身体を這わせる抜け毛取りワイパーをノアは観察する。一部、カバーが開いており、ブラシが顔を覗かせ、コロコロ転がすと猫の毛が絡め捕られていく。
みるみるうちに取れていく猫の毛に、ノアの瞳がキラキラと輝いた。
「ほあぁ、すごくほしいぃ」
「猫と戯れるのであれば、ノアは持っているべきだね」
「むしろ、なんで狂華は持ってるの?」
「君が猫の毛を付けたまま帰る姿を何度も目にしていたからだよ」
「ごめんなさい」
完全にノアの落ち度であり、狂華に気を使われた結果であった。
掃除する狂華が楽し気であるのが、ノアにとっては唯一の救いであった。
もう少し身形には気を付けよう。
そう決意するノアに、髪の毛に絡まった猫毛を取りつつ、狂華が尋ねてくる。
「そこまで猫が好きなら、君自身で飼えばいいじゃないか。マンションがペット禁止というわけではないのだろう?」
「そうだけど……今はダメ」
「なぜだい?」
いつの間にかブラシで髪を梳かれているノア。
狂華のされるがままに身を任せながら答える。
「一人暮らしで、生き物を飼う責任が持てないから。家にいない時間も多いし、面倒を見切れるかもわからない。好きっていう理由だけじゃ飼えないよ」
迷いなくノアが言い切る。
その回答に、狂華は口元に笑みを浮かべ、ブラシから手梳きへと切り替える。優しく、傷つけぬようにノアの髪の毛を梳き始める。
「ふふ。君らしくて素敵な答えだね」
「そうかな? 普通だと思うけど」
「そう考えない者もいるということだよ。そうだ、今度猫カフェにでも行こうか。猫と戯れられるところに」
「行く!」
元気の良いノアの返事に、機嫌を良くしていた狂華であったが、クラスメートに呼び止められ、その表情が笑顔で固まる。
「あの……入り口の男の子が黒百合さんのことを呼んでいるんだけど」
「興味がないから、断ってもらえるかい?」
「ええ……でも…………あの」
狂華の返答に、困ったように狂華と入り口を視線が往復する。
髪に触れられたまま顔を動かせないノアは、頭の後ろで起っている出来事が分からず疑問符を浮かべる。
しばらくして、折れたのは狂華であった。深くため息を付くと、ノアの髪から手を離した。
「はあ。こうして君と話すよりも直接言ったほうがいいね。伝言ありがとう。迷惑を掛けたね」
「いえ、大丈夫です。こちらこそ、ごめんなさい」
謝って逃げるように女子生徒は去っていく。
「ノア。少し待っていてもらえるかな? 野暮用を済ませてくる」
「構わないけど、なにかあったの?」
「なに。いつものくだらない用事さ。人によっては青春と呼び、私にとっては傍迷惑と呼ぶ、ね」
そう口にした狂華の瞳が鋭くなる。
薄く笑みを浮かべていることの多い狂華にしては、珍しい表情であった。
狂華は教室の入り口に歩いていくと、
状況を見て、用件を察したノア。
時間掛かるかもなー。
暇潰しに狂華の置いていった抜け毛取りワイパーで、ズボンの抜け毛を絡め捕って遊んでいると、大きな声ではないというのに、冷え切った狂華の声が耳に届いた。
『君に欠片も興味はないんだ。君に割く一秒すら惜しいのさ。二度とこんなくだらない用事で呼び出さないでくれたまえ』
周辺一帯が凍りつく。
教室内にゲリラブリザードが吹き荒れ、気温など下がっていないはずなのに手を擦り合わせる者すらいる。
ブリザードの発生源であろう狂華は、満足気にノアの元へと戻って来た。その表情は輝かしいまでの笑顔だ。
「待たせてしまったね」
「……辛辣だね。告白でしょ? 今の」
きっと、告白した男子生徒のハートは凍って砕けたに違いない。
狂華からすれば辛辣という意識はないのか「そうかい?」と疑問を返す程度だ。
こうしたイベントは、狂華に限れば頻繁にあった。
狂華は学内では有名だ。端正な顔立ちに、整った体躯。人を寄せ付けない雰囲気は、人のよってはミステリアスに見えるのか、クールな彼女を我が物にしたいという者は後を絶たない。
下級生から上級生まで、年齢問わず告白を受けている。仕舞いには教育実習生だったとはいえ、教師に告白されたのは学内でも有名な話だ。そして、一刺しで玉砕するのもお約束である。
狂華が告白されるところって、ほとんど見たことないなぁ。
学内ではノアと狂華はほぼ一緒にいると言っても過言ではない。だというのに、ノアがこうした場面に出会うことはほぼなかった。それこそ、今日のように突発的に向こうから攻めて来た時ぐらいだ。そもそも、ノアは狂華の機嫌が悪いところをあまり見たことがない。
気を使われてるなー。
改めて、大切にされていることを実感し、ノアの頬が緩む。
ブラシを手にし、ノアの髪を梳こうとした狂華が、ノアの表情に気が付く。
「どうしたんだい。なにかいいことでも思い出したのか?」
「んー? いやー、思っていたよりも大切されてるなーっていう実感が湧いてきて、少し嬉しかっただけ」
「なにを今更」
呆れたとばかりに、狂華が息を吐き出す。
そっと、背後から抱きすくめるように、狂華はノアの右腕をさする。
「大切にするのは当然さ。ノアは私の人生を楽しく、愉快にしてくれる存在だからね」
「それ、褒めてる?」
「最上級の誉め言葉さ。誇っていいんだよ?」
「そっかー」
他愛ない話をしながら、ノアと狂華は放課後を過ごしていた。
――
寝室に帰ってきたノアは、コンビニで買ったお弁当を冷蔵庫に仕舞いながら、つい先程、受付を通った際にソフィアに言われたことを思い出していた。
「『頑張ってねぇ』って、なにをだろう?」
それだけ言うと、ソフィアは逃げるように管理人室へ引っ込んでしまった。
不明瞭な応援に、なにを頑張ればいいのか思考が巡る。
けれど答えは出ず、解けないなぞなぞのようにモヤモヤしていると、インターホンが鳴らされた。
こんな時間に誰だろう?
配達物であれば受付でソフィアが受け取る。勧誘なども受付でお断りである。来客であっても一度ソフィアから連絡が来るので、直接インターホンが鳴らされるということはないのだ。
だというのに、鳴り響く呼び鈴。
「管理人室でサボってるのかもしれない」
ノアの脳裏に優雅に紅茶を飲んで、読書を読み耽るソフィアの姿が描かれる。
とてもありそうと、サボり魔に呆れつつ、ノアは玄関へと向かう。
鍵を開け、扉を開く。そして、絶句した。
「――お初にお目に掛かります、ご主人様。私、MSC《メイドサーヴァントカンパニー》から参りましたレンタルメイド、リース・セシルと申します。以後、ご主人様に仕えさせて頂きます。どうぞ、よしなに」
メイド服を身に纏い、頭にホワイトブリムを付けた銀髪の美女が、両手でスカートを摘まみ、優雅に一礼をする。
……………………僕が開けたのは、不思議の国へと繋がる扉だったのかな?
ノアの生きる世界は、ソフィアが語っていたように、どのような不思議もまかり通る異世界であったらしい。
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