第五章『 独り占め 』 - 02 /02
「でも、そういう子たちばかりでもないんだけどね」
「え? そうなんですか?」
「そう。のけ者にされたわけではない――という子もいる」
「――と言うと?」
「人間が好きで、人間と一緒にいたいと思う変わり者、とかかな」
「な、なるほど」
つまり、自分の道を突き進む肝の据わった変わり者もまた、この旅館にはいるという事だ。
どうやら物好きというのは人間にも怪にもいるらしい。
『
するとそこへ、戸の向こうから可愛らしい声が聞こえた。
まるで幼い少女のような声色だ。
「はい、どうぞ」
そして、そんな声に先生が応答すると、引き戸が少し開けられ、声の主が姿を見せた。
それは旅館スタッフの着物を着こなした幼い子供ほどの大きさの猫だった。
その猫はちょんと手前に両手つき、一礼してからその愛らしい顔を上げ、夕餉の支度が整った事を伝えてくれた。
「あぁ、有難う。お持ち頂いて大丈夫ですよ」
先生はそんな彼女に微笑み、そう言った。
すると彼女は宝石のような瞳を閉じるようにして笑み、
「はい。それではお持ちします」
と言って丁寧に一礼し、すっと戸を閉じた後、その場を後にした――と思う。
気配は消えたが足音は一切聞こえなかった。
猫の足音は静かと言うが、どうやらそれは怪でも同じらしい。
そしてその後、僕は思わず抱きしめたくなるような愛らしい旅館スタッフに心を打たれつつ、旅館の料理や大浴場も満喫し、先生との時間も心から満喫したのであった。
そうして僕はその日から、先生と一週間ばかりの京都を堪能する事となった。
(……ど、どうしよう)
僕はその日から、“これが最初で最後の先生との旅行”とでも言わんばかりに悔いのない一週間にしようと意気込んでいた。
そして、その為には睡眠こそしっかりとっておかなくてはと思っていた。
これは学生時代からの心得だ。
だが、なんとも不運な事に、僕はその夜、身動きの自由を封じられる事態に見舞われるのだった。
《ほんまに心地よい気だこと……》
《顔も愛らしいし肌もすべすべやねぇ……》
《若い匂いもたまんらんわぁ……》
なぜこうなってしまったのかは全く分からないが、この状況をあの付喪神に見られたら――ほれ見ろ――と言われる気がする、と僕は思った。
実のところ、入眠自体は全く問題なかったのだが、問題が発生したのはそれから数時間後のことだ。
その晩、なんとなくぼんやりと目が覚めた僕は、体の各所が妙にくすぐったいような感覚を覚えて体を動かそうとした。
だが出来なかった。
それは、金縛りというよりも全身の力を抜かれてしまったかのような感覚だった。
また、呼吸は普通に出来るのだが声が出ない。
そして、そんな僕の目に入ってきたのは、僕の回りを囲うようにして座り込んでいる着物姿の狐たちだった。
背丈は平均的な成人男性ほどだろう。
そんな彼らは僕の布団の両脇に座り、ニコニコしながら楽しそうに会話をしていた。
もちろん、この世に音を紡がない方法で、だ。
だが、その会話は僕には聞こえている。
つまり、彼らは僕に聞かせるようにして会話をしているのだ。
(あ、あの……)
《んん? なぁに?》
やはり聞こえている。
しかも応答する気があるらしい。
楽しそうにそう答えてきた狐に、僕はとりあえずのお願いをしてみることにした。
(その……くすぐったいので、やめてもらってもいいですか……)
すると、今度は別の狐が言った。
《おやぁ、くすぐったいって? どこ? どこがくすぐったい? ここかい?》
「……っ」
その狐は待ってましたと言わんばかりにそう言って、僕の内股部分を擦る。
すると、僕の体は僕の意に反してびくついた。
僕の体は自分の意には沿わないというのに、反射反応だけは生きているらしい。
参った。
これでは彼らを楽しませるだけだ。
《あらぁ……ほっぺが林檎色……》
今度はまた別の狐がくすくすと笑いながらそう言った。
僕はその時、せっかくなら雰囲気を楽しもうと浴衣などで寝るんじゃなかったと後悔した。
こんなはだけやすい服があって良いものかと、僕は斜め上の方向へと怒りをぶつける。
(何でこんな事……)
《なんでって……なぁ?》
《こんな美味そうな匂いさせて……なぁ?》
《若くて可愛いらしくて……なぁ?》
狐たちは順々にそう言うと、また口元をおさえてくすくすと笑う。
そしてまた順々に続ける。
《身体が熱い? 全部脱がしてあげようか?》
《どこを触られるのが好き? この柔らかい舌で舐めてあげようか?》
《どんな体が好きだい? 人間の姿で相手を――》
「こら、お前たち」
どんどんと悪戯がエスカレートしてゆく狐たちに翻弄されながら、どうしたら良いのかと泣きたい気持ちになっていると、僕の隣から声がした。
するとその瞬間、僕は体の自由を取り戻す事ができた。
「あれま、寝かしといたはずやのに」
「なんで起きてしまうん」
「いけずやわぁ」
狐たちを嗜めたのは紛れもない、隣で寝ていたはずの先生だった。
彼らの言葉からして、恐らく先生の眠りを深くするようにでもしていたのだろうが、どうやら長くは効かなかったらしい。
僕は酷く安堵しつつも、手早く乱された浴衣を着直して掛け布団を被る。
「あれ、こっちも」
「ええやないの、もうちょっと触らしてよ」
「人間はもふもふ言うのが好きなんやろ? ほれ、尻尾触ってええから」
「も、もふもふは好きですけど、僕を触るのはもうだめです」
僕が布団を被るなり狐たちは強請るようにしてくるので、僕は口元まで布団で隠すようにしてそう言った。
「えぇ、ちょっとだけ」
「もうちょっとだけ食べたい」
「舐めるだけは?」
なんとしても諦められないらしい狐たちは、そう言いながら再び僕に迫ってきた。
だが、それを制するように、先生がまたひとつ言った。
「その子は俺のだから駄目だよ」
すると、狐たちはピクリと反応した後にすっと身を引いた。
「えぇ、横取りや」
「独り占めや」
「ずるや」
「残念だったね、ほら、もう戻りなさい。あんまりしつこいと嫌われてしまうよ」
「ええ、やや」
「じゃあやめる」
「我慢する」
狐たちはそう言うと、今度は三者三様に謝罪をして、嫌わないでくれと告げて部屋を出て行った。
僕はそんな彼らに、
「うん」
と返すのが精いっぱいだった。
僕がそうなってしまったのは、狐たちに翻弄されていた事や、彼らの謝罪よりも別の事に心を捕らわれていたからだ。
――その子は俺のだから駄目だよ
僕は、そんな先生の言葉に心を持っていかれてしまったのだ。
だがそんな中、僕は必死で自分に言い聞かせる。
分かってる。
分かってるんだ。
あれは僕を助ける為の嘘。
先生は、本心でそう思ってるわけじゃないんだ。
落ち着け。落ち着け。
絶対に期待するな。
僕は自分の中でそう強く念じ、必死で心臓を宥める。
するとそんな僕を案じるように、先生が声を掛けてくれた。
「大丈夫かい?」
「あ、は、はい! あ、有難うございました」
そして僕は、未だ静まってはくれない胸の高鳴りと戦いながら身を起こし、先生に頭を下げて礼を言った。
すると半身を起していた先生もその場に座るようにして苦笑した。
「怖い思いをさせて悪かったね。悪戯しないようにって言われてるはずなんだけど、新しい子への興味を我慢できなかったのかもしれないね。悪い子達じゃないから、もう何もしてこないと思うんだけど――助けるのが遅くなってごめん」
「い、いえそんな」
そうして今度は先生が頭を下げるので、僕は慌てて先生を制する。
それに、少なくとも怖い思いはしていない。彼らの触れ方はむしろ優しかった。
だが、優しかろうが“触れられるとまずい場所”というのがあるのも事実だ。
特に、人目にあまり触れない部分などは特に敏感で、刺激に弱い。
だからこそ抵抗した、という事もあるのだが、先生にそれを悟られるわけにもいかず、ただひたすらに大丈夫である事を伝えた。
そして、僕が精神的にも傷を負っていないという事を確認した後、先生はやっと安心してくれたようだったので、お互い再び眠ることにした。
だがその少し後、
――ちょっとだけ不安なので、少しだけ布団を寄せてもいいですか
くらい言っておけば良かったと後悔したのは言うまでもない。
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