第三章『 彼の怪 』 - 02 /02

 

《あれがその者に近付いたのは、それに一目惚れをしたからなのだそうでな。大層美しい容姿をしていたそうだ》

 彼はそこまで言うと、肩をすくめるようにして、更に続ける。

《――そして八廣はそれ以降、同族である人間よりも、我々側の者に惹かれるようになったらしい。――これまでに何人か人間とも恋人にはなったそうだが、結局は長く続かなかったと言っていた》

 ほぼ毎日のように一緒にいる僕でも、先生は浮世離れしているように感じていた。

 どうやら、その理由はそんなところにもあったらしい。

(そうだったんだ……)

 そして僕はそう言葉にしたと同時に、一つ悲しい事実が明白になった事を悟った。

(……そっか……じゃあ、やっぱり僕は告白しないで正解だったんだね)

 そうだ。

 先生が惹かれるのは人間ではなく人ならざる者の方なのだ。

 つまり、“男だから”または“僕だから”という以前に、人間である時点で、僕には望みがなかったという事だ。

 僕が改めてそう思い、なんとなく心に穴が開いてしまったような気持ちになっていると、彼はまた溜め息をついた。

《まったく。お前はすぐそうやって結論を急ぐ……。――良いか瑞尊、俺の話はまだ終わっておらん》

(……?)

 僕がそんな言葉になんとなく不貞腐れながら彼を見上げると、彼は今度、何かを含んだような笑みを浮かべ言葉を紡ぐ。

《俺がわざわざお前を落ち込ませ、想いを諦めされる為にこんな話をしたとでも思ったのか? まったく心外だ。――良いか? これはな、お前には大いに望みがあるからこそ話している》

 僕はその意外な言葉に更に眉間にしわを寄せながらも、どういう事かと表情で問うた。

 また彼は続ける。

《八廣は、お前に随分と執心なんだ。あの、――我々の方にしか興味が向かないような八廣が――だ。瑞尊、この意味が分かるか?》

 分かるはずがない。

 僕は咄嗟にそう思った。

 いや、言っている事は分かる。――だが、理解が追いつく訳もないのだ。

 だって直前までの会話で、先生は人間よりも怪異に興味があると言っていたのに、どうして人間の僕に執心などするのか。

 僕はただただ混乱した。

《ふふ、良い顔だな瑞尊。お前の困惑している様子は実に楽しい。――だが一つ言っておく。これは冗談やからかいなどではない。確固たる事実を告げている。――八廣はお前に随分と気をやっているのだ》

(そ、それは、僕があまり頼りないからとかじゃないのかな……)

 僕がそう言うと、彼はますます楽しそうに言った。

《良い良い。認めたがらぬ様も実に良い。――だが、事実は曲げられんぞ瑞尊》

 そうして彼があまりにも楽しそうにするので、僕はなんとなく反論する事にした。

(もう、僕で遊ばないでよ。それに、たとえ僕を見てくれているとしても、僕は人間なんだ。きっと、これまで付き合ってきた人達と同じで、興味なんてすぐになくなるよ)

 すると、彼は酷く満足げに言った。

《まったくお前は俺を楽しませるのが上手いな。――良いか瑞尊。お前はまず、何よりも重要な事を忘れている》

(重要な事……?)

《そうだ。……お前がここで、俺と初めて話した時の事は覚えているだろう? あの時、俺はお前のその独特の“気”を気に入っている、と言ったな》

(う、うん……)

《あれを別の言い方で言ってやろう》

 彼はそこまで言うと、僕の頬に手を添えるようにして少し顔を寄せては微笑み、そして言った。

《お前のもつその“気”は……まったくもって“人間らしくない”のだ……》

「………………え?」

 僕のその声は、ひとつ強く吹いた夕風に攫われた。

 その風は、まるで夕暮れを連れ去ってゆくかのように木々を揺らした後、一時の静寂を置いて行った。

《お前は、人にして人ならざる気を持っている。――その気は、大層清らかだが、それと共に、随分と美味そうな香りをしていてな……お前には分からんかもしれんが、それはお前が年を重ねるごとに増している。下手をすれば、我々の同族が貪りにくるやもしれんほどにな……》

(そう……なの……?)

《そうだ。だからこそあの日、八廣はお前のもとに駆け付ける事ができたのだろう。――あれも、お前の気の独特さには気付いているのだ。お前、あれから八廣に何かもらっただろう》

 僕はそう言われはっとした。

 確かに先生に救われ、先生のゼミ生となった後、先生から小さなお守りをもらった。

 もちろんそれは今でも大切に持っているのだが――。

(もしかして、あのお守りのおかげで……?)

《恐らくな。――お前が何事もなく日々を過ごせているのも、恐らくそれが邪な者たちから守ってくれているからだろう》

(そうだったんだ……)

《しかし、八廣もそこまで気が回るクセに、自分自身の事にはまったくもって無能だ》

(え? どういう事?)

 そう僕が問うと、彼はまた、本日何度目かわからない溜め息を吐いた。

《恐らくだが、八廣がお前に抱いている特別な想いは、恋と言っても良いものなのだろうがな……恋というには様々なものが混ざり過ぎている。――こればかりは俺も解しきれんが……。――とはいえ、お前には十分に望みがある。……だからな、瑞尊――》

 彼はそうして僕の名を呼ぶなり、僕の頬を撫でるようにして微笑んだ。

《――お前は立派な学者だろう? ならばここから先、その八廣の心の解を紐解くのはお前だ……》

 僕は、そんな彼の言葉に静かに目を見開く。

《お前が惚れた八廣の心は、八廣自身にも不可解なのだ》

 すると、そんな僕に彼はそう言い、優しげな声色で続ける。

《――だが、不可解なものを紐解くのは、お前たち学者の本望だろう? なら、あれの心も紐解き、その解を八廣に与えてやれ。――あれも、今の己の心のありように参っているそうだ。ゆえ、今度はお前が八廣を救ってやれ、瑞尊》

 その時、既に頭の中が真っ白だったおかげか、彼のその言葉は僕の中に深く深く入り込んでいった。

 そんな中、僕は何も言葉を返す事ができず、ただただ木々の揺れる音だけを感じながら、彼の穏やかな瞳から目が反らせないまま少しの時を過ごした。


 その日の夕暮れは、いつもよりもずっとずっと長く感じた――。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

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