第9話 嫌ってはいないけど、それとこれとは違うのだ。

「……好きでやってる訳じゃないよ」


 中身が2/3になってしまったコーラを、それでも缶を拭きつつ奴は口にする。そして一番最初に俺が聞きたかったことに、話を自分から戻した。


「じゃあ何で」

「別に。何となく」


 そういうのは好きでやってると言うのではないか、と俺は思ったが、言葉には出さなかった。


「見ただけ、じゃないよね。カナイが何か言った?」


 ああ、と俺はうなづいた。だろうね、と奴は缶を頬につける。

 こういうことは隠しても、会っていればいつかばれるものなのだ。だったら最初から言った方がいい。


「心配してた」

「だろうね。言われたことはあるもん」

「だったらどうして」


 ふらふらと奴は首を横に振る。


「そんなの、俺だって判らないよ」

「お前のことだろう?」

「俺のことだって、俺にだって判らないことはあるもん。だいたいそうゆうのは、誰かが俺に言うまで、俺は絶対気付かないんだ」

「決めつけるなよ」

「だってそうだったからね」


 誰が? という言葉は俺からは出てこなかった。奴は付けっぱなしにしているテレビの画面を時々眺める。俺はそんな奴の横顔をぼんやりと眺めた。夜時間に見るとこいつの猫度は余計に高まる。

 郷里に居る頃、猫が好きで飼っていたのは家族の中で、他でもなく、俺だった。どちらかというと、家族の他の者は、犬の方が好きだった。だが住宅事情は俺に味方し、家には猫がいつも入れ替わり立ち替わりに一匹居た。

 別にその猫を特別可愛がったという記憶は無い。だが愛想の無さとか、気紛れなところが俺は好きだった。

 それでも猫も嫌いではない家族の他の者が、追いかけ回して無理に抱き上げようとすると、するりとその手の中から逃げ、俺のひざに何故かちょん、と乗ってくる。そういうところが好きだったのだ。

 そんなことをぼんやり考えていたら、不意にマキノはこちらを向いた。俺は慌てて視線をそらした。


「何」


 奴は軽く目を細めた。


「いや別に」


 ふうん、と奴はつまらなさそうに首を傾げる。俺はその様子につられたのは何なのか、思わず大きなあくびをしてしまう。実際昼間の疲れや、駅前の緊張からか、眠気がさしてきていた。


「オズさん寝ないの? 明日もバイトあるんでしょ?」

「午後からだよ。まだ大丈夫」

「別に俺なんかにつき合わなくたっていいんだよ」

「じゃお前も寝ちまえ」


 奴はそれを聞くと、再び首を軽く傾げた。そして、やや厚めの唇がこう動いた。


「一人で?」


 俺は、ああ、と声を立てた。他にどう言いようがあると言うのだ。


「連れてきて、それでそういう訳?」

「そういうつもりはない、って最初から言っただろ?」

「言ったよ。だけど、眠れないんだ」


 おいマキノ、と俺の口は動こうとした。だけど何か、固くこわばってしまって、上手く動かない。


「別に普通の日はいいんだよ。誰もいなくても、大丈夫。明日やらなくちゃならないことがたくさんある。大丈夫。だけど、週末は駄目なんだ。明日何をしたらいい?そんなことを考えてるうちに、何かよく判らないけど、冷たいものが身体の中を通り抜けて行って、あのひとにはもう会えないんだ、ということが浮かび上がってくるんだ。あのひとと会っていた日々が、楽しかったから、余計に」

「あのひとって…… ベルファのベーシストだったあのひと、か? 吉衛よしえさんか?」

「そうだよ。よく知ってるね」


 ひどくそれは、平たい言葉だった。そこには嫌みは無かった。


「週末には、俺よく押し掛けて行った。ねだれば抱いてくれた。ねえオズさん、俺って変だと思う?」

「変って」

「別にそれまで、そういうの、女の子ともしようと思ったことないのにさ、俺が積極的だったんだよ。俺が彼に迫ったんだ。彼自身が俺に手を出したことはなかった。本当は彼は別にどっちでもよかったのかもしれない。あのひとは優しかったから、俺がそうして欲しいからそうしてくれただけかもしれない」


 でもそんなこと、今その当人に聞く訳にはいかない。何と言っても、その当人は既に居ないのだから。


「何かそれって、俺的にもすごく不思議だった。でも俺は楽しかったんだ。それまでになく、楽しかったんだ。居心地がよかった」


 でもさ、とマキノはつぶやく。


「ある日それが、突然終わりになってしまったから、俺の身体の方が、全然納得してないの」

「……」

「むこうが飽きたとか、俺が嫌いになったとか、何かそうゆう理由だったらさ、何か、納得できるじゃない…… その時どれだけ哀しくても悔しくても、辛くても。だけど、何か、……拍子抜けしてしまった感じで」

「拍子抜け?」


 思いがけない単語が出てきたので俺は問い返す。マキノは首を軽く傾げる。


「俺の言い方まずいかな? だけど、そういう感じ。……何って言うんだろ?何か、ものすごく一生懸命、細かくがんばってできあがったばかりの積み木で作った要塞が、ほんの軽い地震で崩されてしまった時のような感じ?何って言うんだろ…… 俺説明悪いな」

「いや、お前はよく説明しているよ」


 俺は首を横に振る。俺にはそんな言葉は出てこない。さっきから、何を言っていいのか、ずっと考えているのに、言いたいことがあるような気がするのに、上手い言葉一つ切り出せないでいるのだ。

 だから、結局こんな言葉しか出なかった。


「だからお前、誰かと週末だけは寝たいんだ」

「ストレートだね、オズさん」


 俺は眉を寄せ、ぐっとあごを引く。かっと頬が熱くなるのを覚える。どうせ単純だよ俺は。

 だが他に事実を指摘する言葉が見つからなかったのだ。マキノはくす、と笑うと、すっと腕を伸ばした。その指が、軽く俺のやや赤くなっているだろう頬に触れた。だが俺は反射的にそれから逃げた。マキノは奇妙に表情の失せた目で、その指先を眺めた。


「別に、誰かれ構わずって訳じゃあないよ」

「俺にはそう見えた」


 奴はゆっくりと手を下ろしながら、首を横に振る。


「でも人は、選んでる。嫌な奴とは視線は合わせない。捕まるような真似はしない。吐き気のするような奴となんてできないよ、いくら俺だって」

「……」

「そういうつもりはない、って言ったよねオズさん」

「……ああ」

「でも、連れてきた。どうして?」

「バンドのメンバーがそんなことしてちゃ、放っておけないのは当然だろ」

「優しいねえ」

 

 カナイと同じ言葉だ、と俺は不意に思い出していた。だがその口調は、カナイよりはるかに辛辣だった。奴は軽く身体を俺の方へ乗り出した。


「でもそうゆうのって、何か残酷だと思わない?」

「そうなのか?」

「あんたは判っていないよ。今日は週末で、明日は何も無くて、あんたは少なくとも俺を嫌っていない」


 そうだろ、とマキノは続けた。


「……ああ」


 確かに嫌ってはいない。だがそれとこれとは違うのだ。そもそも、俺は野郎にそういう感情は持ったことが無い。無いはずだ。ケンショーとは違うのだ。ケンショーは、そもそも恋愛に性別があること自体忘れているのではないか、と思われた。


 だが俺は。


 いつのまにか、奴の手が再び俺の頬に触れていた。

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