第3話 帰り道

 初対面の日にプロダクション主催の講義のオリエンテーションがあって、その二日後には、早速レッスンが始まった。

「1・2・3、1・2・3」

 パンパンパンと、ダンス講師、小田仁美おだ ひとみのリズムよく手を叩く音がレッスン室に響く。

「はい、また身体流れてるよ。もう一度ね。1・2・3、1・2・3」

「……オニ。ドS」

 かなでの隣で理央りおが小声で毒づく。

 確かにそう言いたくなる気持ちも分かる。

「うん、できてないね。もう一回やろうか」

 彼女は笑顔でそう言う。決して怒らない。

 奏と理央は何十回目かになる基本ステップのルーティンを繰り返す。

「うーん、もっと悪くなっちゃったね。さぁもう一回頑張ろう」

 怒らない。怒らないが、できるまでやらせる人だった。

 奏たちの前に集中砲火をくらい、個人レッスンになってしまっていた翔子しょうこは、ばったりと床の上で大の字になって全身で息をしている。

「でも、仁美先生。あんまりやりすぎても、もう身体の踏ん張りがきかなくて、身体が変な風に覚えちゃうかも」

 割とうまくできている方だった沙紀さきも、肩で息をしながらそんな風に提言する。

「大丈夫大丈夫。たとえ間違って覚えても、その後正しい形で2倍3倍やれば上書きできるから」

 事もなげに、笑顔でそういう小田に、沙紀も顔を引きつらせる。

「さ、じゃあ今度はまた全員で最初から通してやってみましょうか」

 むっくりと死人のような表情で翔子が立ち上がり、それをなんとも言えない表情で見ながら、悠理ゆうりたちが奏の周りに集まって所定のポジションについた。


「はい、じゃあ今日はここまでね」

 ポンと手を叩いて小田が言ったのを受けて、思わず奏がレッスン室の壁掛け時計を見ると、ちょうどレッスンの終了予定時間になったところだった。必死だったのでいつの間にか、という感じはしたが、あっという間だったとはとても思えない。

「ありがとうございました」

 頭も身体も疲労困憊の中、奏がかろうじてお辞儀をすると、他のメンバーもあわててそれに続いた。

「なぁに、まだリーダー決まってないの? 羽村君と相談した方がいいわよ」

 てんでばらばらな奏たちを見て、小田が苦笑を浮かべる。

「さて、今日は初日だったけど、すでに差はあったよね。今日やったステップのおさらいを資料にしてるから渡すね。できてないと思った子はちゃんと復習すること」

 そういって小田が冊子にした資料をそれぞれに配る。

「この部屋はあと1時間自由に使えるから練習してもいいよ。ただ、休むことも大事だから無理はしないこと。じゃあ解散」

 そう言い残して、彼女はレッスン室を出て行った。

 さぁ、どうしよう。そんな感じでメンバーはそれぞれに目配せするが、

「ま、今日は帰りますか」

 沙紀は玲佳れいかと悠理の肩をぽん、と叩く。

 このメンバーで、一番ダンスができたのは意外にも悠理だった。それに次いで、沙紀と玲佳も合格点をもらえていそうな出来だった。

「あ、でも――」

 悠理はちらりと奏に視線を送るが、沙紀はぽんぽん、と再度肩を叩いて強引に出口に向かわせる。

 それでも出る瞬間に、沙紀は後ろを振り返って、奏に少し申し訳なさそうな表情を見せる。奏は首を振ってそれに応えた。

 奏からすれば沙紀が悠理たちを連れて出て行ってくれたのは有難かった。今は小田から注意を受けた所を、自分で消化することもできていない状態だったからだ。

だから、まずは資料を読み込み、実際に身体を動かして自分が何をできていないのか、自分なりに把握しておきたい。この段階で悠理たちから何かアドバイスをもらっても、自分の中で混乱が増すだけだろう。だから、今残ってもらうのは心苦しいだけだった。

「悪いけど、あたしも今日はパス。明日学校なんだよね」

 眠そうな表情で理央がそう言い、奏もそれに頷いて同意する。

「その方がいいよ。先生も言ってたけど休むのも重要なことだし」

 うん、とぼんやりとした表情で応えながら、理央はレッスン室を出る。

 理央もアイドルとしての経験があるだけあって動き自体は及第点だった。ただ、まだ小学生なだけあって体力に劣る面があり、後半はかなり辛そうだった。無理することはない、と言ったのは慰めや気休めではなく、本心だ。

 ただ、そう言いながらも奏自身はまだ帰るつもりはなかった。他のメンバーに比べてかなり出遅れてしまった自覚がある。もらった資料を読みながら腕や脚を動かしていると、翔子ものっそりと起き上がって、ステップを踏み始める。正直言って、ぎごちなくてお世辞にも軽やかな動きとは言えない。

 それでも奏はしばらく彼女が踊る姿を見ていたが、ふと思いついたことがあって、鏡の前に立った。二度、三度と軽く動きを確認した後、ルーティンの最初のステップからタンタンタン、と足を鳴らした。

 お、できた。内心でガッツポーズをつくっていると、

「今の、どうやったの」

 驚きと、少し悔しそうな表情を見せて翔子が問いかけてきた。

「え、っと、うまく説明できるか分からないけど」

 奏は言葉を探すように宙をにらんで、考えた事を言葉にしてみる。

「他の皆と私たちのどこが違うのかを思い出しながら考えてたんだけど、多分見ている場所。私も、王生いくるみさんも細かいところを見すぎてるんだと思う。右足、左足、右腕、左腕、パーツ毎にばらばらにどう動くかを見ていて、しかもそれを無理にいっぺんに合わせようとするから途中でわけが分からなくなっちゃうのかなって思ったの」

「ん、まぁ確かに言われてみるとそうかも」

 考え込むように眉を寄せながら、翔子はそう同意する。

「だから身体全体の動かし方のイメージを持つようにして、その次に細部に目を配るようにしてみた」

 奏の答えに、なるほどね、と翔子は頷いて鏡の中の自分の姿を見つめる。

何度か首をかしげながら試行錯誤を繰り返し、そして、ようやく。

「できた……?」

 目を見開いて、思わずといった感じで翔子の口から言葉が漏れる。

「うん、できてたよ!」

 奏が笑顔でうなずくと、翔子も照れたような笑みを返す。

「一緒に、やってみようか?」

 奏がそう問いかけると、翔子も頷いた。

 一度コツをつかむとそこから先は順調で、そう時間を取らずに二人で合わせることができた。

 何回目かのトライで、最後のステップまでぴたりと合って。奏と翔子は顔を見合わせると、満面の笑みを浮かべてハイタッチをした。


「寒っ」

 事務所を出た瞬間に冷たい風が吹き付けてきて、思わず奏は身をすくめた。

「ほんと。風邪なんて引いたりしないよう気をつけないとね」

 口元を覆うマスクの隙間からもわもわと白い息を漏らしながら、翔子はまだ乾ききっていない髪に触れる。レッスン室の隣にシャワー室も併設されていて、汗を流すことができたのだ。

「帰りは地下鉄?」

「ううん、私鉄。南条線」

「同じだ。じゃあ駅まで一緒に行こうか」

 奏がそう誘うと、翔子は、ふっと笑って目を細める。その姿が驚くほど綺麗で、奏は思わず言葉に詰まってしまった。

 そしてしばらくの間、二人は言葉を交わさないまま駅に向かって歩き続けた。

「私、さ。王生さん、今日来ないかと思っちゃった」

 不意に、そんな言葉を漏らした奏に

「どうして? ――って、聞くまでもないか」

 翔子は苦笑いを向ける。

「そうね。初めて皆で顔合わせしたあの時は、本当に納得してなかったから」

 そう言って、翔子は少し目を伏せる。

「私、芸能界に入ったのは、憧れた役者さんがいたからなの。その人を初めて見たのは小学生のころだったけど、今でもはっきりと覚えているくらい鮮烈な印象を受けた」

「その役者さんって――」

 名前を聞いて分かるだろうか。奏のそんな不安を察したかのように翔子はにっと笑う。

新条しんじょう真希まきさん」

「え、でも」

 知ってる。それほど芸能人に詳しくない奏でも。だけど、

「新条さんってメディアに出てくるようになったの、最近じゃない? 王生さん、そんなに前から知ってたんだ」

「たまたまね」

 翔子は記憶をたどるように視線を上に向ける。

「当時小さな劇団に所属してた新条さんとちょっとしたきっかけで知り合ったの」

 そう言った後、少しおかしそうに笑う。

「それがね、おかしいの。初めて会った時、あの人はただ通りすがっただけの小学生の私に向かって、迷子になっちゃったんだけど、って話しかけてきたのよ。確かに人通りがあまりない住宅街の道で、その時歩いてたのは私くらいだったんだけど、普通大人が初対面の子どもにそんな風に頼ったりする?」

 懐かしそうに目を細めて、そして言葉を続ける。

「最初がそんな風だった上に、普段から妙にぼんやりしててふらふらしてる所もあったし、大人なのにこの人大丈夫かな、って思っちゃったけど。でも初めて演技を見せてもらったとき、震えた」

 そう言って、本当に震えを抑えるかのように両腕を自ら抱きしめた。

「暗い舞台の上で白い照明を浴びて独白する彼女の姿に、その声に、その目に。言い知れない迫力があって、目を離さずにはいられなかった」

 そんな光景を想像して、奏は息を呑む。

「あの人は多分、演技をすることが生きることなんだと思った。食事や睡眠とか、演技以外のこと全部、『演技をするために必要だからやっている』みたいな生き方だった。それくらい演技に対してストイックで、鬼気迫るような迫力があったの」

「そっ、か」

 語る翔子の熱意は強く、奏は二日前の彼女の態度に得心がいって顔を俯かせる。

「じゃあやっぱり、アイドルにはならないってこと、かな」

 じくりと、胸に痛みを感じながら、奏は尋ねる。

 けれど翔子はためらうように視線を外し、わずかの間言葉に詰まる。そして、

「私は、役者になる。その夢は揺るがないわ」

 搾り出すように、そう口にする。

「だからあの日、皆が帰った後。私は羽村さんに言ったの。『私は、ヒーローになりたい』。かつて私があこがれたあの人のように、誰かにあこがれてもらえる何者かに、なりたい。アイドルがそういうものでないなら、それは私が目指すものじゃない。そう言ったの」

 それは、明確な拒絶の意思表示。そのはずだ。

「それなら、どうして?」

「はっきり言われちゃったのよ。今のままだと、多分役者としてやっていくのは難しい、って」

「そんな――」

 残酷だと思った。こんなにもはっきりとした夢を持っている翔子に、切って捨てるようなそんな言い方はあんまりだと。

「ありがとう」

 自分のことのようにショックを受けた表情を見せる奏に、翔子は穏やかな笑顔を見せる。

「でも、前のマネージャーにも言われてたの。貴方は役を自分の枠の中に収めようとしすぎている。伝えなきゃいけないものを、たくさん取りこぼしている。もっと色々なものを見て、聞いて、考えて、貴方の中の世界を大きくしなさい。そう、口すっぱく言われてた。だけど、私はいまいちそれが理解できてなくて、なかなか改善できなかった」

 淡々としながらも、翔子の笑顔にわずかに苦味が混じる。

「羽村さんにも同じようなことを言われて。でも、だから一度やってみないか、って。アイドルになることで、絶対に今までとは違う経験ができる。役者になるのはそれからでも遅くないはずだ。だからまず一年間、時間をくれないかって。貴重な時間だと思うけど、自分を信じてくれないか、って」

 それは、彼女にとって辛い判断だったのだろうか。

 気遣わしげな視線を向ける奏に、翔子はゆっくりとかぶりを振った。

「そこまで言ってもらえるなら、頑張ってみようって今は思ってる。伸び悩んでたのは事実だしね。前のマネージャーとも話ができたし、今は納得してる」

 そっか、とほっとしたように奏は笑う。そんな彼女を、翔子は何か思うところがあったのかじっと見つめる。

「雪村さん。あなた、何か部活の部長だったって言ってたわよね」

 そういえば自己紹介の時には言ってなかったが、誰かと会話した際にそんなことを話したかもしれない。

「うん、バレー部。どうして?」

「ううん、なんか分かるなぁ、って思っただけよ」

 そう? と奏が首を捻っている間に、二人は目的の駅に着いていた。

「方向は――逆、かな」

 券売機の上部に掲示されている路線図を見ながら奏が尋ねると、

「そうね」

 並んで路線図を見ていた翔子がうなずく。

「じゃあ雪村さん、今日はお疲れ様。また明日ね」

「あ、王生さん」

 手を振って背を向けようとした翔子を、奏は呼び止める。

「あのさ、『奏』でいいよ」

 翔子は驚いたような表情を浮かべた後、くすりと笑う。

「分かった。じゃあ奏も『翔子』で」

「え、いいの?」

 思わず奏が漏らした言葉に、翔子は呆れたように肩を落とす。

「何言ってるの、自分から言い出しておいて。いいわよ。仲間でしょう」

 そんな風に言ってもらえると思わなくて、思わず奏は顔を少し赤くする。

「何なの、もう」

 奏の熱が移ったかのように、翔子の頬にも赤みが増す。

「ごめんごめん」

 照れて、そのまま背を向けて歩き出そうとする翔子の腕を慌てて掴んで、

「また明日ね。翔子」

 満面の笑みでそう言う奏に、つられたように笑みを浮かべながら、翔子は頷いて手を振った。

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