牛乳乱舞【1】


 樺冴かご家の屋敷には広い庭がある。

 表からは見えない位置にあり、マッドが実験室にしてしまった倉があるのもここだ。


 古い屋敷に似つかわしい上質な庭木がバランスよく配置されているが、長らく手入れする者がいなかったために枝々が伸び放題で荒れている。


 その中の一本である松に高枝ハサミを向ける少女が一人いた。


 背伸びをするたび、ウェーブのかかったセミロングの赤髪がひょこひょこと揺れる。大きなつり目と薄い唇が、勝ち気な顔をより際立たせていた。


 少女は屋敷の主人である樺冴かご深月みつきと同じ京葉高校に通う一年生であり、元殺し屋の木蓮もくれん奈緒なおだ。彼女は先日の大怪我が治りきっておらず、屋敷に世話になったままだった。


 本来ならばまだベッドで療養すべき身なのだが、人目を盗んでなぜか庭師の真似事に精を出している。おそらく暇で暇で仕方がなかったのであろう。ハサミは拾いもので、しかも切り方は至極てきとうであった。


 だがそんな少女をいつまでも放っておくほど、この屋敷の住人は甘くない。


「何をやってるのです奈緒なおさん」


 背後から叱責の籠もった声が届き奈緒が小さく跳びはねる。恐る恐る振り返ると、そこには長身の女性が立っていた。


 上着を脱いだスーツ姿で、白いシャツが目に眩しい。短く張りのある黒髪を無理矢理に後ろでまとめている。元平賀門下であり、真信の付き人である静音しずねだ。


 静音はじとりとした目つきで奈緒を捉えている。元から目つきがカタギに見えないために、そうやって眼力を込められると汗が止まらなくなるからやめて欲しい。


 奈緒は叱られるかと身構えたが、女性は意外にもため息をつくだけだった。


「……ベッドにいないので探しました」


「あ、あははっ、何って運動ですよ〜。ずっと寝たきりだったから身体が鈍っちゃって」


「まだ運動やリハビリの許可は出ていません。目覚めてからまだ数日しか経っていませんし、傷が癒えていないのですから、大人しくベッドに戻ってください」


「ええ〜」


「頬を膨らませてもこればかりは駄目です。ほら戻りますよ。奈緒さんが動かないよう、私が一日見張りますから」


 最後の一言に奈緒がげっ、と顔をしかめる。静音が見張ると言ったらそれは、一瞬たりとも自由のない監視と同義だった。


 それは嫌だと奈緒は思考を巡らせる。そして何事か思いつき、腹部を押さえて唐突にうずくまった。


「うっ……痛たた。銃創じゅうそうが熱い……」


「なっ大丈夫ですか!? 今マッドを──!」


「待ってください」


 駆け出そうとした静音の袖を掴んで引き止める。


「マッドさんを呼ぶほどじゃありません。……う〜痛い。痛いけどこれはたぶん、美味しいアイスを食べたら良くなる気がします」


「アイスですか?」


「はい。特にハーゲンなダッツなんかは効果てきめんです、痛たたバニラぁ」


「なぜダッツ……いえもしかすると傷口が熱を持っているために高級感あるアイスを食することによって一種のプラシーボ効果が……? 精神面での治癒も視野に入れればその可能性は否定できない……。なるほど……少しでも痛みが和らぐのであれば、買ってきましょう。少しお待ちください」


 と一人で勝手に納得して、静音は本当に買い出しへ行ってしまった。彼女が屋敷を出たのを見送って立ち上がった奈緒は、釈然としない表情で屋敷の中へ目を向ける。


「うーんちょろい。不自然なほどにちょろい。どう思います、真信まさのぶ先輩」


 視線の先、建具たてぐのガラスの向こうに見える少年の影へ声をかける。静音は気づかなかったようだが、少し前から真信が自分を見張っていたことは知っていた。少年も当たり前のように縁側えんがわへ出てくる。


「うん、仕方ないと思うよ」


 現れたのは何処にでもいるような中肉中背の少年だった。目立たない程度に整えた黒髪が少し濡れて跳ねている。シャワーでも浴びてきたのだろうか。


 少年は優しげな笑みのまま、どこか悲しそうな空気を漂わせて踏石へ降りる。そして奈緒のもとへ迎えに来た。


「奈緒のその傷、撃ったのは静音だからね。奈緒も気にしなくていいって言ってたけど、やっぱり負い目があるんだと思う。向こう三年はそのネタで弄れるよ」


「まじですか。やったぜ~、でなく」


 差し出された手をぺいっとはたく。


「もうちょっとフォローしてあげてくださいよ。じゃないと本気でイジリ倒しますよあたし」


「奈緒こそ手加減してあげてよ……」


「あはっ、こっちが気にしてないことを負い目に感じられても面倒くさいですし〜? そもそも静音さんがあたしを撃ったのは先輩のせいなのに」


 挑戦的な笑みで指摘すると、真信は途端に苦笑を浮かべた。


「そう言われると弱いな。でもあれは静音の素の性格だから。簡単には変えられないし、僕が口出しすることでもない。大丈夫、静音は仕事に私情を持ち込んだりしないから安心して」


「仕事を私情に持ち込みそうだから心配してるんです」


「あ、やっぱり心配なんだ?」


「あぐっ……。あっあのですね、そういう人の揚げ足取る行為はどうかと思いますぅ〜!」


 薄手のスカートの裾を両手で握って抗議するが、真信が悪びれる様子はない。目を釣り上げて睨みつけても少年の微笑ましげな表情が陰ることはなかった。まさに暖簾のれんに腕押し状態である。


 なんだか疲れてしまった奈緒は、ため息をついて降参の意を示す。


「はぁ。もういいですよ。……けど静音さんって結局どういう人なんですか? 先輩の言う"素"の部分がまだよく見えてこなくて」


「そうなの? けっこう仲良く喋ってたりしなかった?」


「ん〜なんというか、あたしと対面するときの静音さんって、普通にしててもどこか『真信先輩の付き人』なんですよね。あたしが先輩に雇われてる立場だからってのもあるんでしょうけど。だから、ああやってあたし相手に気を使われすぎると調子が狂って遊び過ぎそうで」


 ここ数日の静音の様子を思い出す。こちらの一挙手一投足に気を使い、些細ささいなことにも手助けし、奈緒の体調を崩す行為は見逃さない。かと思えばさっきのように奈緒の突拍子もない要望を肯定的に捉えてしまう。まるで従者か何かだ。今の静音は奈緒にとって大変イジり甲斐のある人材になってしまっていた。


 このままこの状態が続くのならば、向こうが奈緒に気を使うのを馬鹿らしく感じるまで弄りまくるしかなくなる。


 そんな奈緒の言い分を、真信は苦笑して制した。


「ほどほどにしときなよ? 静音ってああ見えて怒ると本当に恐いから」


「えっ、そうなんですか?」


 後半やけに実感の籠もった言い方に、奈緒は驚いて聞き返してしまった。奈緒の持つ静音のイメージは、平常心を保ち続ける理性的な大人の女性だったからだ。激怒している姿が思い浮かばない。


 興味津々に前のめり気味で近づく奈緒の顔から上半身をそらしつつ、真信は大きく頷く。


「うん本当。僕が怒らせたわけじゃないけどね。以前、静音の名を平賀に知らしめた事件があったけど……。そうだね、奈緒が大人しくベッドに戻るなら、聴かせてあげるよ」


「またそういう……」


「これも僕の性格だから。諦めて付き合ってくれると助かるな。で、どうする?」


「むぅ、分かりましたよ。大人しくしてればいいんでしょう」


 奈緒は仕方なく了承し母屋へと歩き出す。すると真信は深月の真似をして人差し指を掲げつつ笑った。


「素直でいいね。さてどこから話そうか。そうだね、まずこの騒動は、牛乳の過剰贈与によって引き起こされたんだ」



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