カミツキ姫の御伽話

まじりモコ

特別短編

真っ赤な世界より


〈こちらは『カミツキ姫の御仕事』1万pv突破を記念した短編です〉



       ◆   ◇   ◆



 その少年の第一印象は、特になかった。


 樺冴かご深月みつきにとって平賀ひらが真信まさのぶは初め、いつの間にか前庭にいて、いつの間にか源蔵げんぞうに抱きかかえられていた人間に過ぎない。


 言わば風景と同じで。わざわざ意識に上げるほどの相手でもなかったのだ。





 深月は畳の上に寝転がっていた。座卓を挟んで向かいには源蔵が座っている。卓の上には熱いお茶が二つ湯気を立てていた。おおかた屋敷の付喪神つくもがみが来客のために用意したのだろう。しかし深月はそれに手を伸ばすほどの気力を持てていなかった。


 湯呑の隣には一枚の紙が置かれている。突然現れたはずの少年、その略歴が記載されているはずだった。深月はその名前を字面だけちらりと見てすぐに意識から外した。目下の敵ではないようなので、特に興味を持てなかったからだ。


 隣の部屋には倒れた少年を寝かせてある。見張りは昔から屋敷に出入りしている三毛猫がしてくれていた。


「なに、放っておいても死にはしない。それくらいの図太さはあるだろう。彼は餌だ。それまでは呪術者たちから守ってあげなさい」


 深月の後見人である源蔵はそう言って笑う。その裏に幾重にも張り巡らされた糸が透けて見えたが、深月は言及しなかった。


 源蔵が何を企んでいようと、深月は敵を殺すだけだ。源蔵の思惑などどうでもいい。


 それに彼女は今日も狗神で敵を殺している。それだけで深月は疲れていた。それが肉体面より精神面からくる疲労であることには気づいていたが、深月はあえて気づかないふりをした。


 脳裏で言語化してしまえば、その重みはすぐに自分を押し潰すだろうと分かっていたから。


「一般人を巻き込むの、一番駄目なやつじゃないの」


 ようやく言葉をひねり出す。思考に霧がかかっているようでうまく考えが働かない。最近はずっとこうだ。一日の半分が夢うつつで、深月は自分が何をしているのか分からない時がある。


 それでも見ず知らずの誰かを巻き込むのはいけないことだと、そう思った。だが源蔵は喉の奥で低く笑う。


「一般人……一般人ねぇ」


「何が言ーたいの」


「いやあ、なにも。彼にはしばらくお前の世話係として屋敷に通わせる。学校でも仲良くすることだ。そのほうが食い付きがいいだろう」


「世話係……?」


「ああ。使用人と思えばいい。彼にはこちらの事情も少し話す。深月が彼に遠慮することはないよ。お前が雇い主のようなものになるからね」


 それを少年が了承するだろうか。疑問が浮かんだが、深月は微かな気配に口をつぐんだ。──少年が目覚めたのだ。


「おや?」


 源蔵も気づいたらしく腰を上げる。そして少年の素性を記した調査紙を素早く隠した。猫の威嚇する声と、ふすまの開く音。それを視界の隅に納めながら深月はため息をついた。


「あぁ、面倒くさい」


 小さな呟きは、誰に届くでもなく霧散していった。





 風鈴の澄んだ音が遠くで響き、少年が帰ったことを教えてくれる。


 真信は不思議な少年だった。一般人にしか見えないのに、こちらを警戒する瞳は死線をくぐり抜けた者のそれだ。源蔵が何か匂わせるようなことを言っていたのを思い出す。


「なーんなんだろうねー、あの男の子」


 言葉を忘れてしまわないように思考をあえて口に出す。猫はそれをわきまえているかのように、深月の言葉に合わせてしっぽを揺らして聴いていてくれる。


「悪い人じゃなさそうだけど、わんこが気に入ってたからなぁ」


 意志のない怪物とされる樺冴家の狗神だが、深月にはなんとなく狗神の考えが分かる気がしていた。


 狗神は真信を気に入っていた。それは彼から血の匂いがすることを意味する。


 畳を撫でると、深月の思考に呼応するかのように影がゆれる。


「なんだか"悪い"匂いがするよね」


 限界だった。視界が薄れ頭を虚無が支配する。そっと目を閉じる向こうで、同意を示すかのように猫がにゃあと鳴いたのが聴こえた。





 ふと目を覚ます。身体は布団にはりついたようで指先一つ動かすのも苦労する。普段ならそのまま昼頃まで寝てしまうだろう。しかし今日は違った。


 朝からあの少年が来る予定になっていた。深月は少しの見栄で身体を起こす。だが顔を洗い、客間に用意されていた熱いお茶をすすると、また面倒くささが先に立った。


 寝間着のまま畳に突っ伏し、目を閉じる。


 …………もう、いーんじゃないかな。


 ふとそんなことを思う。今までは頑張ってこれた。なんとか耐えてきた。それでも心は削れゆき、感情も欲求もぺらぺらに薄まってしまった。


 ……ねえ、もういーんじゃない?


 深月は十分にやってきた。誰よりも呪術者を殺し、誰よりも狗神の呪詛を削り取った。一人では到底なし得ないはずの偉業。


 これ以上を目指してどうする。たとえ成し遂げたって、誰が褒めてくれるわけでもないのに。


 身体が重い。心臓が重石になって地に縫い付けられるようだ。襖の隙間から吹き込む風の冷たさもまた、深月の心を凍らせる。


 分かっている。こんなことを思うのは気が弱っているせいだ。昨日狗神を乱用した反動。精神が喰われていく証。負けたくない、そう思ってきた。けれどその度に考える。


 自分は、何に負けたくないと思っていたのだろう、と。


 目を開く。そこには何もない。薄暗い部屋に一人きりの自分。


 このまま意識を手放せばきっと、はどんどん薄れていく。それが何より怖くて怖くて、恐怖に身震いして、それがいつからどうでもよくなってしまったのか。


 理由も、動機も、全て胸の奥底に沈んでいって。

 感情の名残だけが、今の深月を形成する全てだ。


 深月がもう一度目を閉じようとした時、あの澄んだ風鈴の音が鳴った。 


 どきりと心臓が跳ねる。無理をしたような明るい声が響いてくる。あの少年だ。彼は本当に来たのだ。


 深月は手に力を込めて上体を起こした。頭の靄が晴れた気分で瞬きする。すると襖が開いて、間抜けな声が降ってくる。深月が見上げるとそこには、ひどく驚いた顔をした、普通の少年がいた。





「へい真信おんぶー」

「いや、重いから」


 深月は久しぶりに制服に着替えて外へ出た。上手く歩けずよろけたのを誤魔化すために真信の背中に抱きつくと、彼は苦言を呈しながらも深月を突き放そうとはしない。


 案外と軽口の通じる少年である。


 深月は調子にのってみることにした。


「重くないよー。ほら、私美少女らしいから」


 昔、自分の陰口を言うクラスメイトがみんなひそひそと言っていたのでそうらしい。あれだけ不特定多数の、しかも樺冴家に敵愾心てきがいしんを持つ人間の言葉なので間違っていないのだろう。深月はそう認識していた。


 真信も否定せず返してくる。


「それと重量のどこに関係が?」


「美少女の重さは熟れたリンゴ三個分なんだってー。知ってた?」


「知らなかった……。そう言われると軽いような気も? まあいいか」


 あっけらかんと言って真信は深月を背負い込む。深月は彼の素直さに驚いたが、すぐ身体を預けた。


 見た目よりずっと広い背中だった。こちらを気遣うゆれと、ほのかに伝わってくる心音の温かさ。心地よくて眠りそうだ。


(あれっ……そーいえば、こうやって生きてる誰かに触れるのって、いつぶりだっけ……?)


 記憶をさかのぼる。例えば最後に体育の授業に参加できたのはいつだったか。……思い出せない。


 ずいぶん久しぶりだということは、なんとなく分かった。


 死体じゃない。血の生温かさでもない、生きた人間の熱。忘れかけていたものがそこにあったのだ。


 体から力を抜いた深月は、遅れて理解する。


 彼は敵じゃないのだ。無視しなくてはならない赤の他人でもない。殺さなくていい。むしろ彼は深月の味方だ。だって彼は深月の世話係なのだから。


 そんな存在に、深月は生まれて初めて触れたのだ。


 なぜか目頭が熱くなる。たったこれだけのことで感動できる自分が残っていたのが嬉しくて、深月は少年の背中に頭を押しつけた。


「体勢きつくない?」


 真信が問うてくる。深月は微笑んで答えた。


「うん。だいじょーぶ」


 そうだ。だいじょうぶ。


 大丈夫だ。樺冴深月はまだやれる。頑張れる。この少年を守るためにも負けてなどいられない。


 そのためには、やらねばならないことが山積みだ。久々に思考が淀みなく回り始めている。それを快く感じながら、深月は思い出していた。


 自分がいったい何に負けたくなかったのか。

 それは何より、誰より、弱気を吐きそうになる自分自身に負けたくなかったのだ。


 納得した深月はさっそく行動を起こす。手始めに真信の頭に一本ひょこりと生えていた白髪を拝借することから始めよう。



          真っ赤な世界より 了

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