第5話 大型台風というきっかけ

 しかし「適当に」と言ったのに、この少女はそれから毎日やってきた。家は学校から遠くないらしい。

 仕方なし、彼はやってきた彼女に、水やりだの雑草取りだのをさせるのだが、のほほんと見える割に、こつこつと作業をするので、結果、案外はかどってしまうのだ。

 そしてまた、その作業の間、彼女は何かととりとめも無い話を仕掛けてくる。中里はそれに曖昧なあいづちを返すだけだったが、彼女は平気で楽しそうに話を続けていた。

 そして彼は、そんな彼女を見ながらつくづく思うのだ。


「変な女だ」



 そして8月の終わり頃。

 台風がいきなりやってきた。それもかなり急激に育った、大型のものが直撃だった。

 これはやばい、と中里は慌てて背の高い花々に添え木をしたり、周囲にフレームを立て、途中で買い込んだ厚手のシートを張るという作業に取り組んだ。

 しかし、そもそも土壌が柔らかい花壇である。強い勢いに倒れてしまう可能性は非常に高い。今日一日つきっきりだな、と彼はその時思っていた。

 Tシャツにハーフパンツの格好は、いつもと同じだったが、既にそれは完全に水浸しだった。

 風雨がひどくなってくると、傘はもちろん、合羽もあまり役立たなくなる。そんな時はいっそ、濡れてしまう方が楽なのだ。気温は高いから風邪の心配も無いだろう。それに自分には、そんなことは関係無い。自分には―――

 そのとき。

 黄色い蝶が、ひらひらと飛んできたのか、と彼は思った。


「おい羽根! 羽根よし野! 何で来たんだ?!」

「何でって……」


 走ってきたのか、ぜいぜいと呼吸を乱しながら、彼女は膝に手をついて顔を上げた。


「だって…… ひどい雨風だったし……隣の植木が飛んでくの見ちゃったから……」


 だからって。


「危ないから、お前は戻ってろ!」

「今から戻る方が危ないですよ! どうせ来ちゃったんだから、通り過ぎるまで、居ます!」


 強情な女だ!


 彼はち、と舌打ちをした。

 雨も風も時間を増すごとに強くなる。弱い地盤なので、差し込んだ棒も、すぐによろけてしまう。ブロックの外側にしっかり打ち込んだはずのフレームも同様だ。いたちごっこだった。

 耳には雨風の音がやかましい。だがそれにも増して、彼女の話しかける声もひどく大きく、必死なものになっていた。

 当初はそれに中里もうるさいな、と思っていた。

 だが次第に、その声が、内容が、必死なものになってきた。

 そのとき彼は、唐突に思った。

 こいつはもしかしたら怖いのかもしれない。

 怖いから、何かと口にしていないと、気が紛れないのかもしれない。

 だがさすがに、彼女の話のタネも尽きかけてきた。疲れてきたのだろう。

 何か無いか、と彼も自分の中の少ないボキャブラリィを必死で検索し始めた。

 しかし出て来たのは、こんな言葉だけだった。


「……お前そう言えば、親父さんって……?」

「おとーさん? あたしが生まれる前に死んじゃったんです」


 聞くんじゃなかった、と彼は瞬時にして後悔した。だが彼女は堰を切った様に、その話を続けた。


「交通事故だったんです。ね、良くある話でしょ。おかーさんも、そう言ってたし…… 結婚して、新婚で、あたしができたこと知って、すごく楽しい時期に、突然、だったし、苦しむ間も無かったから、まだいいほうた、っておかーさんは言うし……」


 うん、と彼はうなづいた。うなづくしかできなかった。


「だから……」



 台風一過とは良く言ったものだった。

 翌朝は、西風こそやや強かったが、遠く突き抜ける様に青い空が一面に広がっていた。

 かつかつ、と石畳を小走りに、岩室は保健室のほうへと向かった。


「おやまあ」


 彼女は苦笑する。

 保健室前のコンクリートの段差の上では、疲れ果ててどろどろになった二人が熟睡中だった。

 肩をすくめると、岩室は職員玄関の方へ回り、内側から保健室を開けた。そしてしばらくして、外側の扉をそっと開き、中里の頭をやや強くはたいた。


「……何だあ? ……あ、岩室さん」

「よぉ、お目覚めかね。起きたんなら、とっととそこのお嬢さんをお家まで送ってってくれないかな」

「俺、が?」


と彼は自分自身を指した。


「他に誰が居る」

「だ、だって」

「近いぞ。お前ならおぶって行けばすぐだ。電話しておいたからな。母上によろしく」


 そして簡単な地図を一枚手渡すと、ぱたん、とやや優しく扉を閉めた。

 仕方ない、と彼はそっと彼女を背に乗せた。確かに遠くなかった。


 二階建てのアパートの階段を登り、「羽根」というプレートのある扉の呼び鈴を押した。するとすぐに扉は開いた。よし野に良く似た、小柄な女性が、通勤前なのだろう、白シャツに紺パンツ、軽いメイクをした姿で現れた。


「えーと……」


 中里が言いよどんでいると、彼女はすっ、と上から下まで、一瞬のうちに彼の全身に視線を走らせた。

 そして数秒。母親は言った。


「なるほどね…… 何してるんだい、お入りよ」


 は、はい、と彼は思わずどもってしまった。

 アパートは二人暮らしのせいもあってか、そう広くは無い。キッチン+2部屋、という所だった。


「こっちに乗せてくれないかな」


 キッチンに誘われ、食卓の椅子を示される。

 ああそうか、と中里は思った。さすがにまだ彼女も自分もどろどろの格好のままなので、他の部屋に通せないのだ。


「えーと、あんた、園芸部の部長だって?」

「あ、中里です。……えーと、どうも、すみませんでした」


 ふん? という風に彼女は片眉を上げた。


「何を謝る訳?」

「や、台風の夜に返しもせずに……」

「それはいいさ。どーせこの子が、居るってだだこねたんだろ。まあ困ったと言えば、できれば今夜は帰りませんから、くらいの連絡は欲しかったってとこかね」


 そう言って彼女は、あはは、と明るい声を立てて笑った。

 だがちら、と見ると、テーブルの上には、吸い殻が山になった灰皿が置かれていた。

 すいませんでした、と彼は改めて深々と頭を下げた。


「いいよ。それよりあんた、腹減ってないかい?」

「え」

「どーせこの子の分も作っておこうと思うからさ、あんたも食っていけばいい」

「や、俺は」

「若いもんが遠慮するんじゃないよ。コーヒーにミルクや砂糖は?」

「あ、両方……」


 強い、と彼はため息をついた。



「それじゃあ、行ってくるからね」


 よろしく、と娘と自分を置いて、母親は仕事に出かけてしまった。食事に手をつけながら、彼はぼんやりとこの状況の意味を考えてみる。

 だが確かに腹は減っていたようで、チーズオムレツを乗せたぶ厚いトーストは瞬くうちに彼の口へ、胃袋へと吸い込まれて行った。

 そうか、俺腹減ってたんだ、と彼は今更の様に気付いた。

 そして前方に同じ食事を用意されたよし野に目をやった。冷める前に起こすべきだろうか、どうするべきか……

 しかし、悩む時間は少なかった。母親が乗せていったタオルケットが落ちた拍子に、彼女は目を開いたのだ。


「あ、……れ? 部長、おはよう……ございます……え?」

「岩室さんが、送ってやれって言ったから」

「あ、やだ! ……ごめんなさい、ありがとう、です」


 顔を赤らめ、いきなり彼女は頭を下げた。


「いいよ。それよりお前のお母さんが、食事用意してったぞ」

「あーっ! 食べなくちゃ食べなくちゃ」


 そして慌ててコーヒーに手をつける。トーストに口を大きく開ける。豪快だな、と改めて彼は思った。母親似だ。

 そう言えば、正面に座って食事をすることなど、今まで無かった。いつも保健室で岩室が間に入っていた。


「……何ですか?」


 手が止まっていたらしい。彼女は不意に顔を上げた。


「や、ずいぶん豪快に食うなあ、と」

「だってお腹、空いてたんです! でも、台風過ぎて、良かったですね! ……あ」


 そして今更の様に、彼女はぽん、と手を叩いた。


「もしかして、部長、おぶって連れてきてくれました?」

「あ? ああ。他にどうしようがあるんだよ」

「やっぱり! 何か、すごく、気持ち良くて、それで目が覚ませなくて」


 気持ちよくて? ふと彼はとくん、と心臓が音を立てて跳ねるのを感じた。


「大きくて、暖かくて、しっかりして、ゆらゆらして、うん、本当に気持ちよくて」


 とくんとくん、とまた跳ねる。何だ? と彼は思った。


「……何かおとーさんにおぶわれてるみたいで」

「親父さんに?」


 その途端、心臓は平静に戻った。


「会ったこと無いけど…… こういう感じかなあ、って思って」

「ふーん……」

「だからですよ! 気持ち良くて、どうしても目がさめなくて」


 うんうん、と彼は生返事をする。

 そしてそのまま、朝食の続きをどんどん口に放り込み始めた。何となく、味が落ちた様な気がした。

 いや違う。彼はふと気づいた。俺は今、美味いと感じていたんだ。

 驚いた。とても、驚いた。

 だがそれが何故なのか、彼にはまるで判らなかった。


「ごちそうさま」


 そう言って、彼は食器をシンクに置くと、飛び出す様に部屋を出た。

 何か、無性に胸の中がもやもやとしていた。

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