室町時代
第5話 足利尊氏伝 1、田楽芸人
吉川英治の「私本太平記」を翻案した簡略版です。あんなクソ長いものを読む人はあまりいないでしょうから、わたしが換骨奪胎して作りなおしました。吉川英治の遺族に「私本太平記」の文章を使う許可をとっています。その文章の著作権も切れています。
1、田楽芸人
まだ除夜の鐘には、少し間がある。
とまれ、今年も大晦日までは無事に暮れた。だが、明日からの来る年は。
洛中の耳も、大極殿のたたずまいも、やがての鐘を偉大なる予言者の声に触れるように、霜白々と待ち冴えている。
洛中四十八カ所の篝屋の火も、常より明々と辻を照らし、明るい夜靄をこめた巽の空には、羅生門の甍が夢のように浮いて見えた。篝屋とは、鎌倉時代に京都の町に置かれた武士の詰め所である。そこの楼上には、明日の元旦を待つでもなく、総じて酒の香りが漂っていた。都の夜霧は酒の香りがするというほど、まずは穏やかな年越しだった。
高氏は篝屋で年を越すのは初めてだった。すべてが物珍しくて仕方ないらしい。この十年で京の酒屋もずいぶん増えていた。かつては百軒は数えたものの、今では、近江の百済寺で造るのや、大和菩提寺の奈良酒など、天野山金剛寺の名酒だの、遠くは博多の練ぬき酒までが集められているためか、どうぞ好きな酒を選んでくださいというものだった。
高氏はいかにも坂東武者にありがちな無骨な様相をした男であったが、各種の酒の飲み比べをしているうちに夢の中にでも落ちていくような心持ちであった。
とにかく、醜男ではあるが、由緒ある家柄の子息ではあろう。佩いている太刀なども、こんな小酒所の客には見えぬ見事なものと、まわりの侍衆も目を見張っていたのであった。
高氏は十八歳であった。
「まさか除夜の鐘を都で聞こうとは思わなんだ。おやじ、もう一個酒をもってまいれ。はらわたが儂へ歌うのだ。今夜は飲むべき夜なれと」
それに答えたのは荒くれの武者足軽であった。
「おれは太守、執権北条高塒殿の使いで酒を持って参ったもの。ほとんどは御献上物なれど、我らの分もあるゆえに一緒に飲み交わそうぞ」
「おお、鎌倉者であるか。御献上物の分け前に預かりうかがえるとはありがたい」
「ははは、お主もいける口だのお。名はなんと申すのだ。どこの出だ。せっかくの巡り合わせ。共に飲み交わそうぞ」
「それがしは、下野国足利荘の次男、足利又太郎高氏と申すもの」
「下野国足利荘か。天皇領であるな。御卑下には及ばぬ。足利殿のお血筋といえば、北条殿にも劣らぬ正しい源家の流れ。家職といえば、現帝の御被官。なぜ遠い旅をば共人も召されずに」
「我が家は朝廷の御被官であると共に、鎌倉殿の御家人でもあるがゆえに、京へ見聞に参った次第」
「ほう。鎌倉殿の御家人でもあるのか。それは難しかろう」
高氏の母君はいつ頃からか地蔵尊を信仰していて、高氏の羅刹地獄の娑婆苦を救うのは地蔵尊であると思い、地蔵尊の仏説などをよく聞かせたものであった。
「この度はただの都見物なれば」
と高氏は五色の菓子を童のように食うた。
元亨元年の大晦日。みかどは後醍醐天皇だった。後醍醐天皇は三十一歳の遅い即位であったが、都の女を御学友と共にかどわかし、仕えの女官はあまたの如しといわれていた。
「思い出すのは花夜叉という田楽芸人よ。執権北条殿も田楽狂いであられる。賭け犬好み、日夜の遊興沙汰など、何ひとつ民の困苦を考えぬ武家の幕府よ。今の世は、守護、地頭に、その他の役人、みな怨嗟の声の聞こえぬことがない。あれらはみな武家であろう。みかどは宋学の新説を学び、資治通鑑を学び、儒仏の究理なども盛んにしておられると聞く。いつか、異国の学を鑑として、時弊を打ち破り、ひいては執権北条の幕府をもくつがえして、まつりごとを遠きいにしえにかえさんという思し召しでもあるのではないか」
鎌倉者はなかなか大胆なことをいった。高氏は返していわく。
「みかどといえど、北条殿といえど、武家や民の怨嗟の声を聞けば頼るべきものとは限らぬものであるなあ」
鎌倉者は高笑いした。
「ははははは、足利高氏殿も婆娑羅であったか」
おそらく婆娑羅とは、田楽芸人の軽口からいいだしたことであるが、花奢、狼藉、風流、放縦、大言、大酒、すべての伊達を指してもいうし、軌道の外れた行為や、とりすました者への反逆や、そうした世の振る舞いに斟酌しない露悪的な振る舞いをいった。
「いやいや、一雲を見て凶天を知るともいいますれば」
「確かに」
「近頃は茶寄り合いなどということばもあると聞く。花競べ、歌競べ、虫競べなどという遊戯にならって、十種二十種の銘茶をそろえ、香気や色気を飲み比べするのを闘茶といい、その闘茶に馬鹿げた賭け事をする人もあるという。闘茶とはどのようなものですかな」
「闘茶なら田楽芸人に聞くとよいですな」
見ると、篝屋にいつの間にか田楽芸人が集まり、一座を設けようとしているところだった。
田楽芸人が舞いを舞う。
「あれが有名な花夜叉か」
「あれは鷺夜叉でございますな。袖で踊っているのは藤夜叉です」
「新座はみな夜叉名を名のるが風と見える」
「ほら、あれが花夜叉です」
とひと際美しい田楽芸人が舞を舞う。この田楽芸人たちは遊女なのだろうか。高氏はいぶかしがるがとんとわからぬ。
高氏の目は藤夜叉に釘付けになった。高氏も女体を知らないではなかった。むかし、御厨の牧へ遠乗りに行った麦秋のことであった。馬屋の干しワラの中で、つい牧長の娘と陽炎みたいに戯れ睦んだことがあった。いわゆる幼馴染である。
藤夜叉は、その幼馴染に似ている。別人であろう。そっくりではない。ただ似ている。あれから年をとったらあのような顔になっていても不思議ではない。
「藤夜叉、歳はいくつか」
「十六でございます」
歳も合わぬ。やはり別人だ。だが、似ている。もはや、高氏の頭の中では藤夜叉のことしか考えられなくなってしまった。田楽芸人など、歳を平気でごまかすのではないか。しかし、この高氏に。いや、あの娘が高氏のことを気にかけているとは限るまい。それに、別人だ。似ているだけなのだ。なぜ、下野国の娘が京都などにおろうか。
酔いがまわっている。
「藤夜叉、少し歩こう」
「あら、お武家さま」
藤夜叉の腕が、唇が、肌に感じられて離れない。別人だ。ああ、だが、高氏の心の奥の情熱をもはや抑えることができない。高氏は藤夜叉を押し倒し、藤夜叉の指が強く高氏の背中にくいこんだ。二人の情熱は夜を焦がして舞い散った。静かに、激しく、おびえながら。そして、夜が更けるにつれて、静けさに溶けることを許されていくことを願った。
「高氏さま、このままお別れになるのはつろうございます。何かお形見のものでもくだらせなさいませ」
高氏は焦ったが、とりだしたのは地蔵菩薩の御守りだった。
「これを持て。必ずや再会しようぞ」
「ありがたき幸せです」
そして、京の夜で二人は別れ別れになり、藤夜叉はみなの待つ寝屋へ、高氏は一人、京の町へ消えていった。
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