*

 曲がった先の廊下には、誰の姿もなかった。

 視聴覚室や図工美術室といった特別教室がずらりと並ぶ廊下のどの扉も閉めきられている。乙哉を見つけ出そうとするなら、教室の中を一つひとつ覗かなくてはならない。しかし、もしも彼を見つけ出したら、その後はどうすればいいのだろう。宏之たちはさっきの一幕を除けばほぼ初対面だ。乙哉はどんな反応をするだろう。妙なやつがわざわざ追って来たと不審がるだろうか、迷惑に思うだろうか。

 宏之は急に、自分が独りよがりに、意味無く恥ずかしい行動をとっているような気がした。教室で大勢の前に進み出た、さっきまでの勢いをなくし、力のない足取りでのろのろと廊下を進む。

 そもそもなぜ自分は乙哉のあとを追ってきたのだろう。湍に弟をよろしくと言われたからか、それとも少女から御三家の話を聞いたことで生まれた好奇心の延長だろうか。冷静に自問してみるも、どれも自分の中でピンとこない。

 乙哉という人間を評した者達の中で、好意的な意見を述べたのは兄の湍のみで、あとは悪い噂話ばかりだ。

 実際怒気を滾らせ凄む乙哉の姿は、宏之の目から見ても怖かった。それでも、なぜか。


(悪い人じゃない気がする…)


 彼を追う理由は自分でもよくわからない。ただ、ひとり教室を出て行った時の背中が、宏之の頭の中を離れないでいた。



 考え事に没頭する宏之の目の前に、突如色を変えた重厚な扉が現れた。はっとして顔を上げると、教室全部を素通りして、廊下の端まで来てしまっていた。正面にあるのは押し開き式の背の高い、黒茶色の木製扉だ。見上げると、同じく木材を加工して作られた看板に筆文字で『図書室』とくっきり彫られている。


 およそ不良生徒であれば、少なくとも騒ぐ目的以外では出入りしなさそうな場所だ。しかし彼は成績優秀者で不良かどうかは微妙だという。

 引き寄せられるように扉に手をかけ力を加えるのと同時に、一限の開始を告げる本鈴が鳴り響いた。

 扉は施錠されていず、容易に中に入ることができた。

 マンガくらいしか読書する習慣のない宏之にとって図書室は息苦しく、どちらかというと居心地悪い暗いイメージだ。だが扉の向こうに広がるのは、そういった予想よりはるかに明るく、木の温かみを感じる空間だった。

 学校設備のひとつにしては随分立派だ。

 ぴっしりと本の詰まった書架が壁の隅々まではめ込まれ、広々としたホールの中心にも陳列されている。見上げるとバルコニーのような、あるいは劇場の二階席のような突き出した空間があり、階段から全体をぐるりと、太く艶々した木製の支柱と手すりが囲っている。


 果たして、その二階のスペースに乙哉はいた。こちらに背を向けており、入口にいる宏之に気がついていないようだ。しかし宏之からは、木柵の向こうに薄茶色のふわふわした後頭部が見えている。

 そっと階段を上がり乙哉の背後に立つ。逡巡しながらも意を決した宏之は、先程と同様に遠慮がちに声をかけた。


「…かっ、各務くん」


 多人数用の一枚机に片肘をつき、分厚い本を眺めていた乙哉はふいの呼びかけに、大袈裟に肩を跳ねさせた。本気で驚いたらしく、即座に振り返った乙哉は宏行の姿を認め目を丸くした。無防備な表情は、教室と違い彼を幼く見せている。


「お…まえ…さっきの」

「ごめん、なんか気になって…」


 誤魔化すようにへらりと笑った宏行を、乙哉は怒ったような顔で見やった。


「…なにしてんだ、さっき本鈴鳴ったぞ」

「各務くんだってここにいるじゃん」

「…」


 乙哉は黙って前に向き直すと視線を本に落とした。手持ち無沙汰な宏行はどうしようかと考える。突っ立っているのも不自然だが、彼と同じ席に着くのは気が引けた。

 結局長机に並ぶ背面つきの椅子ではなく、近くに積まれていた丸椅子を引っ張ってきて、乙哉から少し離れて座った。気まずい沈黙が流れる。


「…さっきは悪かったな」


 ぽつりと呟かれた言葉は小さいが、静謐な図書室の中では容易に宏行の耳に届いた。


「いや…あれは各務くん悪くないでしょ…。角刈りが失礼すぎだよ…僕びっくりして角刈り二度見したもん…」

「…園部だよ。知ってんだろ、おまえ転校生なら。クラス委員だよ」

「そうだっけ。確かに初日に先生に教えられたけどさぁ…あいつクラスの先頭に立って僕のことハブろうとするんだもん。たまんないよ」


 乙哉は視線を逸らしたまま、眉間の皺を深くした。


「…あいつ縄張り意識が異様に強いんだよ。常にマウントとって威張ってたいんだ」

「うわぁ…上司にしたくないタイプだね」

「自分達が田舎もんて分かってるから、都会から来たやつが気に食わないんだろ」

「そこまで都会から来たわけでもないんだけどな…」

「それでも、ここ山とか畑ばっかりで何もないだろ。…家族で越してきたのか?」

「ううん、僕だけ。じぃちゃんのとこに居候してんだぁ」

「ふーん…」

「…その本、面白い?」

「別に、なんかそのへんの適当に引っ張ってきただけだから」

「そっか」


 ぽつぽつと探るように交わされる会話は、意外にも心地良かった。思ったよりも話しやすい。乙哉は苛立っている雰囲気ではなかったが、眉間や目尻にうっすら刻まれた皺はクセがついているらしかった。


 宏行はあ、とひとつ思い出したことがあった。


「そういえば湍先輩に会えた?昨日教室まで探しに来てたよ、少し話したんだけど」

「兄貴が?」

「うん、なんか話さなきゃいけないことがあるって言ってたけどな。メールとか来てなかった?」

「俺らケータイもスマホも持ってないから」

「えっ、珍しいね?」

「この辺電波悪すぎてあんまし使えないだろ」


 乙哉の言う通り、引っ越しの際に自分のスマートフォンを持ってきてはいたのだが、常に電波状況が悪く、ほぼ使えない状態だった。


「確かに。意外だよね、この町山奥にあるけど発展してるし、通信対策とかしてそうなのに」

「つまんない理由があってな。神籬内ではアンテナや基地局を極力立てないことになってんだ。どうしても使いたいやつは、受信感度の高いルーターだとかを家に置いて使ってる。一応生徒の中にもスマホ持ち歩いてるやつはいるぜ、ほぼお飾りだけど」

「…えーっと。理由って、その…、なんかスピリチュアル的な感じの理由?」


 思い切って尋ねると、乙哉はなんだ知ってたのかと片眉を上げた。


「通信電波が感応知覚に障るとかいってな」

「よくわかんない…」

「別にわかんなくていいよ。俺も、この手の話嫌いだからあんまり深く聞かないようにしてんだ。だけど別に、不便ないし」

「そっかぁ。あっ!でも僕昨日幽霊っぽいの見た!いや、もしかすると精霊とか神様とかかも!滅茶苦茶美人な女の子でさ、しかも全身真っ赤な着物で金髪なの!」

「へぇ」

「僕昨日助けてもらったんだ!聞いてよ」


 思わず勢い込んで話し始めた宏行だったが、乙哉は嫌な顔をせず、むしろ少し面白がるような和らいだ表情をした。その霊はこんな見た目でんなことを話してと熱を込め説明するうちに、宏行はふと、いつのまにか丸椅子を乙哉の方に移動させており、自分が、先程より随分近い距離で話していることに気がついた。



 一通り話し終えて一息ついた頃。室内の掛け時計を見やると、もうすぐ一限も半分を過ぎたかという時刻だった。少し考え、宏行は乙哉に小さく尋ねた。


「各務くん、授業行かないの?」

「…たまには行こうと思ってたけどな。エスカレーター式で受験ないっつっても、単位とかあるし」

「うん…二限からなら間に合うよ。僕は行こうと思うけど」


 ちらりと宏行が窺うと、乙哉は押し黙って考え込む素振りをみせた。乙哉の意思に任せるつもりで、思考の邪魔をしないよう宏之は口を閉じる。おそらくだが、こうやって教室を出た後に再び戻るような事は、これまでなかったのかもしれないと想像させた。


「まぁ…行くか」

「うん」


 しばらくして乙哉が頭を掻きつつ出した答えに、宏行はにこりと笑って立ち上がる。乙哉も黙って立ち上がり、机上に放置していた本を書架に戻した。



 二人連れ立って歩き始めた時、なぁ、とぼそっと乙哉は口を開いた。


「さっきは助かったけど、次に俺がイライラし始めたら、今度は構わず逃げてくれな」

「え?」


 思わず振り向いた宏行だが、それと同時に隣を追い越していった乙哉の顔は見えなかった。

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